今更なのですが、日本三大名城で唯一訪れたことのなかった松本城へついに行って来ました!
残る姫路城、熊本城については既にこのブログでもご紹介していますが、松本城だけは16年前にバスで目の前を通り過ぎたことがあるだけで訪れたことがなかったのです。
三大名城でどれが一番美しいと思うかについては好みがあろうと思いますが、僕は石垣の美しさでは熊本城、天守閣の美しさでは松本城に軍配を挙げます。姫路城は現存する建物が多いこと、縄張りの複雑さなど総合力で優れていると思います。
松本城は姫路城や犬山城などと共に、天守閣が現存する日本でも数少ない城の一つです。石川数正の息子、石川康長によって1593年頃現存する松本城が築城されました。時は、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた直後、天下を統一したとはいえまだまだ戦国の只中にある頃です。
小田原攻めの後、秀吉は徳川家康を関東に封じました。その直後に元は家康の腹心であった数正を松本城主とし、これほど大規模な城を築かせたということは、秀吉がいかに家康の力を警戒していたかということを示しています。
まして松本を含む信州は、武田氏滅亡後は家康の支配下にあった土地ですから豊臣政権にとって松本城は戦略上極めて重要な役割を担っていたと言えるでしょう。またそれは徳川政権になってからも同様で、徳川の天下になって以降の松本城主は松平氏、堀田氏、水野氏など、いずれも親藩ないし譜代の家臣が歴任しています。
したがって、松本城は姫路城と同様、軍事目的で作られた城ですから、天守閣内部は写真のように殺風景で、石落としや鉄砲狭間、スライドして外からの攻撃を遮断する「武者窓」など、戦を想定した構造になっています。姫路城もそうでしたが、城は敵の侵入を防ぐのが目的ですから、バリアフリーなどとは程遠い建物です。特に松本城天守閣の階段は急で、最大50度近くにもなるものがありますので、女性や高齢の方は注意が必要です。
天守閣内部は戦国時代の具足や出土した瓦などが展示されています。
上の写真は天守閣の屋根に飾られている鯱です。木造建築である城にとって、最も恐れられていたのは雷と火災でした。鯱は中国の伝説上の動物である「魚虎」がもともとで、雨を降らせ火災を防ぐ力があると信じられていたことから、城の屋根に鯱が用いられるようになったと言われています。
鯱は口を開けている方と閉じている方、つまり「阿吽(あうん)」で一対になっています。これは神社の狛犬と同じで、「阿」が雌、「吽」が雄であると考えられています。上の写真では左が「阿」で右が「吽」です。
また、松本城の内部は銃砲のコレクションが豊富でした。上の写真の火縄銃に、
17世紀初頭、ちょうど大阪夏の陣の頃の大筒。右側の写真は、火縄銃の玉を鋳造する道具です。
変り種としては、小刀を模して中が小型の鉄砲になっている「脇差鉄砲」(写真左)、十手と小銃が一体となった「十手鉄銃」なんていう物もありました。今で言うならスパイ映画に出てくる小道具のようなものですね。その実用性の程は疑問ですが、昔の人もこういうことを考えていたのは面白いと思います。
天守閣五階の「御座所」。篭城戦の際、城主が最後に立てこもる場所とされており、他の階より柱なども磨かれた造りになっています。
ようやく最上階の望楼にたどり着きました。松本城は外見上、層塔型天守のように見えますが、実際は望楼型天守です。
最後は大天守を降り、辰巳附櫓を通って松本城の特徴の一つである、月見櫓へ。他の写真と比べれいただければお分かりのように、月見櫓は窓が大きく、日の光が良く入るので、非常に明るくなっています。これは、月見櫓が太平の世になってから増築された、軍事的機能を持たない櫓であるためです。
月見櫓は三代将軍徳川家光を松本城に迎えるために建てられたそうで、櫓からの景色も非常に美しく、恐らくこれから紅葉がより美しく映えるであろうと思います。因みに、家光の行幸は結局中止となり、家光が月見櫓を使うことはありませんでした。
以上、松本城ですが、この非常に美しい連立式の城は見る角度によって様々な表情を見せるので、冒頭の写真を選ぶときどれにしようか本当に迷いました。採用しなかった写真についてはYou Tubeに納めましたので、どうぞご覧ください。
松本城
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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