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本の未来

2019年06月14日 | シロート考え
 この記事は2010年に書いたものだ、ちょっと改訂した。



 テレビでiPadというか、電子書籍の話で、コメンテイターがこぞって、本の擁護をしていて、それはそれで良いと思うけれど、うーん、そうねえ。


 あるアメリカ先住民族の長老が、本というものを初めて見たときに
「白い人びとはなんとおろかなのだ。なんのためにこんなものがあるのだ。必要なことは、おぼえておけばよいではないか。先祖からの経験や知恵、精霊の語る言葉、それらはすべて私の心の中に、ある。それはいつでもどこででも必要なときによみがえらせることができる。本なるものはそこに持っていなければ見ることもできないではないか。
燃えてしまったらそれは永遠に失われるのか?おぼえておけないほどたくさんのことが書き留めておけると言うが、おぼえていられないようなことは不必要なのだ。」
 というようなことを言ったそうだ。

「バジル氏の優雅な一日」のなかで、すべての「謎」の答えの半分は本の中にある。そして残りの半分の謎が解明されたら、また新たな謎が生まれるのだから、永遠に半分の答えしかそこにはない、と言うようなことを言っていて、印象的だった。


 さっきのコメンテイターに限らずだが、それほど本が万能でもないし、本がなくなってしまいそうでもないし、ipadのほうだって、それほど捨てたもんでも、あるいはすばらしいものでもないと思うなあ。どっちでもいい気もするし。




※注意!
 上のアメリカ先住民族の長老の話は、僕の全くのでっち上げです、
信じないように。