馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

美濃 上茜部城跡、切通城跡

2019-05-22 17:04:36 | 美濃国の史跡
"2019年5月18日(土)、曇天☁️


革手城跡から南西に約15分歩くと



"『上茜部城跡 堀秀政生誕之地』石碑

「かみあかなべ」と読む。
248号線沿い、上茜部バス停の近くに石碑と解説板があるのみ。
城跡の遺構は皆無。

とはいえ、
堀秀政生誕の地なので、わざわざ立ち寄りました。
築城した堀資重は近江出身と言われてます。
ただし、近江のどこか不明。
浅井郡の堀かも?ね"



堀秀政、38歳という若さで小田原攻めの陣中に病死した。
もっと長生きしていたら、大きな大名として存続できただろうな。

というか、早くして亡くなったせいか、人気のある武将ですな。






"そして、再び中山道の加納城大手門跡に戻り中山道歩き再開しました。

城跡への寄り道時間は二時間かかった。
これでは、距離をかせげないですね。

名鉄切通(きりどおし)駅にて本日の歩きは打ち止め。
寄り道が長すぎたため、
まだ岐阜市内から出られません。






この切通駅の近くにあるのが、
『長森城跡』

現在は、切通観音がある。




"
肝心の長森城の記述は
植込みに隠れて見にくいが、
この石碑の解説の後ろにちょこっとだけ触れられている。

土岐氏の居城だったと書いてある。
長森城が手狭になったので、後に革手城に移ったそうです。

長森城は1185年、渋谷金王丸が城を築いたとされる。
土岐氏の本拠が革手城に移った後も城代がいたようですが詳細は不明。



大きな看板には、
江戸時代の「切通陣屋」に関する記述がある。
陸奥磐城平藩安藤家の美濃における18000石の飛び地で陣屋が設けられた。







今回、土岐氏ゆかりの長森城と革手城に立ち寄ったが、
この先中山道を歩いて、
土岐姓発祥の地ともいうべき美濃国土岐郡の城跡群へ行けるのはいつになるやら?


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

NHKの朝ドラ、
来年から、土曜日の放送をやめて
月~金曜にする予定を考えてるそうです。

ようやく、我が輩の意見を取り入れてくれたか!

よしよし!

と、思ったが、

どうやら、理由は、
働き方改革にあるようです。

やっぱり、
視聴者目線じゃない

わけですな…




馬《●▲●》助ヒヒーン♪"
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美濃 革手城

2019-05-21 23:52:09 | 美濃国の史跡

2019年5月18日(土)、曇天☁️

加納城跡公園から南へ約1キロ移動。

『済美高校』
甲子園野球で名前は知ってたが、
こんなとこにあったんですね。

と、早とちりしたが、
甲子園で活躍したのは愛媛県の済美高校のことだそうな。
ま、それはともかくとして
道の両側が学校の敷地のようですが、南側グラウンドの一角に
『革手城跡』の石碑がある。






"革手城は、美濃守護となった土岐源氏の居城。
第3代土岐頼康が川手地区に築城した。
第11代土岐頼芸まで存続したが、
斎藤道三によって廃城となった。

その後、徳川家康が加納城を築くにあたって、革手城の土砂を運び、
城跡は跡形も無くなってしまった。

現在の城跡の碑は、革手城の最北端の位置になる。
守護の館城ということで、御殿風の建物があったようです。
祠に合掌しました。

真向かいの敷地には

「スウィングベル」
2002年卒業生一同
卒業式の時に毎年鳴らすのかな?

現在の高校生はこの城跡をどう思って見てるのだろうか?



革手城石碑の少し南へ向かった所に

『正法寺跡』岐阜市指定史跡



"第3代土岐頼康によって、革手城の築城の時に建立された。

格の高い寺院だったため一条兼良・雪舟・足利義視など有名人が訪れた。

その後、船田合戦の戦場となり、荒廃。

さらに、加納城築城のためにこちらの土や石も採取された。"



現在は薬師堂があるのみ。

合掌!


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

NHKの受信料、
ワンセグの次は、テレビ機能のあるカーナビも対象となり、
物議をかもしてます。

受信料払ってる人しか見られないようなシステムにしろ!
と、言う意見がありました。


確かに!

と思った。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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中山道歩き 美濃、加納城

2019-05-20 17:20:19 | 美濃国の史跡
"2019年5月18日(土)、曇天☁️

中山道歩き、前回の続きの岐阜駅からスタート。

まずは、観光案内所に立ち寄る。

先日、岐阜市が歴史探訪マップをつくった、という情報を得たので、入手するために立ち寄ったのです。

「信長の道」「道三の道」「戦国の道」の3部で、それぞれ4000部配布するというので、急いでやってきたが、
なんと、「信長の道」はすでに無し!


なので、2つだけもらった。

うーん、残念無念!
と、言ったら、
『岐阜城にまだ少し残ってると思います』
と、案内所の女性が教えてくれたが、
実は、一番欲しかったのが「道三の道」。
司馬遼太郎氏の『国盗り物語』を読んで、斎藤道三に関する史跡を巡ってみたいと思ってたので、このマップは助かる。
悔しい顔をしつつ、道三の道と戦国の道をもらいました(笑)

「道三の道」歩きは、もらったマップと自分で調べた内容を加味して、後日、秋ごろにでも歩きたいと思います。


この後、中山道歩き。
詳細は、後日アップする予定。
例によって今回も寄り道多し。
寄り道した城跡をちょこっと紹介。


岐阜駅の南側は、『加納宿』で、
街道の南につくられたのが「加納城」
何年か前に立ち寄ってるので再訪になるが、見落としもあるので
まずは、加納城へ向かいました。

1445年、美濃守護の土岐氏の家臣で守護代の斎藤利永が、沓井城を築いた。
これが、加納城の前身で、代々斎藤氏の居城となった。
応仁の乱のゴタゴタの後、戦国時代になると、長井新九郎が斎藤氏を乗っ取ります。
斎藤道三です!
しかし、道三は跡継ぎを信長にたくした。
信長は岐阜城を居城としたので、おそらくそれまでに沓井城は廃城したと思われる。
そして、関ヶ原の戦い後、
徳川家康は、岐阜城を廃城とし、沓井城の跡地に加納城を築いた。
天下普請でした。
中山道と美濃を押さえる城として重要な役割があり、家康の娘婿の奥平信昌が入った。
その後、加納藩は、譜代大名が次々に入り明治維新を迎えます。
中山道加納宿の折れ曲がりの場所に
『大手門跡』

ここを南下する。
横断歩道を利用

幼稚園

猫かな?

外堀ともいうべき荒田川


『三の丸』

現在は、加納小学校。

正門は、一般に赤門と呼ばれる。

小学校と岐阜気象台の間に

『二の丸北面の石垣』

この南側が二の丸。
岐阜城天守を移築した御三階櫓がここに建ってたが焼失。
残念ですな。


二の丸が本丸の外枡形を囲むようになってる。

なので、
本来は二の丸から極楽橋を渡って
本丸の張出部の外枡形に入るのが登城ルートだったが、現在は入れない

内堀の南に『本丸』

本丸北側の石垣

草が邪魔!

なんとかしてくれませんか?


現在、本丸はここから入るので、

ここが正門みたいになってる。

内部は公園で、周囲が土塁に囲まれてます。


入って右側に天守台があったが、
天守は建てられなかった。

天守台西側下の石垣

土塁の上に登ったがこちらも草がいっぱい。
張出部

なんとかしてほしいな…

張出部を見る


外周の外堀は埋め立てられて平地になってます。



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

昨日、祖母の五十回忌法要があり、
親戚一同集まった。
その時のお坊さんのお話、

三重県の員弁(いなべ)地方では、
浄土真宗の葬儀の時に
「赤飯」と「唐辛子汁」が出される。

赤飯は、故人が無事仏様になられたという祝いをあらわす。

唐辛子汁(からじる)は、
辛くて涙が出るので、別名、涙汁と呼ばれる。
亡くなられると涙でますよね。

喜びも悲しみも幾年月…

いいお話を聴きました

合掌!

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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『阿波徳島』その22 最終回。 徳島城本丸弓櫓~下山

2019-05-19 15:46:33 | 阿波国の史跡

2019年3月31日(日)
二日目、
今は何もない広大な本丸広場から西へ

西端の『弓櫓跡』

標高61m
ここが山頂の一番高い場所。
本来、天守はここに建てられた、と推定されてます

弓櫓の石垣、四角い巨石が多い。

弓櫓から西へ降りる


見慣れた細長い石に四角い石が混じってる。

『西二の丸跡』

西端の少し高い位置に
「帳櫓跡」

帳櫓下の石垣には
よく目立つ鏡石が複数ある。

鏡石は藩主の威厳をあらわすものとして、正面に据えられます。

つまり、この城は西側を意識してる、と言われる。

こちらは巨石のほうが多い


『西三の丸』

枡形になっていて、防御が厚い

この下は西の丸かな?

と思ったが、たぶん西三の丸の番所や平櫓があった場所のようです。

水道の排水場になっていて、入れません。

枡形を下る。

振り返って見上げる。

夕方にになり薄暗くなってきたのでピントが合わない…

麓に降りた。

SLが展示されてる。


『蜂須賀家政公銅像』

戦前は蜂須賀小六正勝の像だったが、戦時中に供出されてしまった。
戦後は初代藩主の家政公に変更された。
というか、慌ててたので危うく見逃すところでした

『舌石(したいし)』

防御を強化した屏風塀という折れ曲がりの塀があり、塀を支える柱を受けた石。
全国的にも珍しいとか?
橋の網目からズームして撮影してるのでわかりにくいかな?

見逃した場所がたくさんあるが、
時間がないので、これにて退散。

急いで駅へ向かいました。

NHK徳島放送局

アナウンサーかな?
綺麗な女性が入っていった。
時間があれば、我が輩も同じく中に…

いやダメですな、
それはストーカーや、


徳島駅に到着。

コンビニで酎ハイと弁当を買う。

滝の餅を食べる。

18時発のバスが来ました。
阿波徳島ともこれでお別れ。

バスに乗り込もうとして、
バッグが無いことに気づいた。

そうでした!
コインロッカーに入れたままや。

全速力で、
徳島駅の地下一階に直行。

ロッカーからバッグを取り出し、
また全力でバスに戻り、
無事に、バスに乗れました。

危なかったわ

よく気がついたものです。

車内で食事をし、
来る時と同じルートで帰る

車内から見た大観覧車、

いいですね。

舞子駅から電車で帰りました。

徳島、一泊二日旅。
あたふたしたが、充実した城巡りだったと思います。

以上、おしまい。



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今日は祖母の五十回忌法要でした。
祖母の子供、つまり父の兄弟は男女合わせて11人。
そのうちまだ6人が生きてます。
6人の子供に五十回忌をしてもらえるなんで、親子ともにめでたいのでは?
残念ながら、長男の父は7年前に無くなってるので、五十回忌には立ち会えなかった。

なお、
我が輩が父や母の五十回忌をすることは絶対にありえない。

自分が百歳以上も長生きすることは無理です…



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

コメント (2)
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車内広告

2019-05-18 19:19:06 | 日記


日本ガン協会の広告


万が一じゃないんですよね


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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『阿波徳島』その21 徳島城、数寄屋橋~本丸

2019-05-17 21:57:28 | 阿波国の史跡
"2019年3月31日(日)
二日目、

徳島城内を巡る。
鷲の門から入って数寄屋橋の手前まで来た
土塁の上を歩く
※危ないので良い子は土塁の上に登らないようにしましょうね。
『旗櫓跡』

徳島城の東、鬼門の位置になる

その下に
『数寄屋橋』

城内の凶事の時にしか開けられなかったので「不明門」と呼ばれた。

こちらも本来は太鼓橋でした。

内堀の東側はここまで。

西へ向かう。
山の岩盤が現れる。

『城山貝塚』

約4000~2300年前、縄文時代後期~晩期の洞窟遺跡。
城内に貝塚、縄文遺跡が残ってるなんて、珍しいですね。

こちらは岩盤の下に石垣

徳島城は、吉野川河口の三角州の渭山(いのやま、猪山)・渭津(いのつ)と呼ばれた島に築かれた。
蜂須賀公が、築城した時に徳島と改名した。
縄文時代、渭津は海岸線ですぐ横が海だったということですな。

この岩盤が天然の防御となった。

『弁天池(蓮池)』

弁財天がまつられてたので弁天池、

蓮が植えられてたので蓮池、

桜満開。

なんども言いますが、3月末ですよ。

池の横の坂を登りました。

縦向きの巨岩がある。

『東二の丸』

曲輪の中に
「天守跡」

明治維新で取り壊されるまで、御三階櫓が存在しました。

でも、不思議ですよね。
普通、天守と言えば一番高い場所の本丸内にあり、さらに本丸内に盛り土して天守台を築きその上に天守を建てるものです。
こちらは一段低い二の丸の平地に建てられた。
天守台も無い。
どうみても天守は単なるお飾りだったとしか思えない

ビル群のために眺望はイマイチ

昔は眼前に海が広がっていたに違いない。

さらに石段を登る

『本丸北東の石垣』

徳島城で最も古い時期の石垣とされる。

自然石を雑に積んだだけに見えますね。

この石垣は後で積み足したのか?

そして、

『本丸』

現在は単なる広場。
桜満開!

ここには「御座敷」があった。

藩主、普段は麓の御殿で生活してたが、たまに登ったのでしょう。
御座敷の北側に『北門跡』

こちらは非常用の登城口で逃走路として使う虎口だった


西の端の弓櫓跡へ向かう


その22最終回に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

某まぐまぐの記事、

"ビンボーって、執着するところから始まるんですよ。執着の反対語は、「手放す」です。これが出来ない人がビンボーであり、ビンボーになる人なんです。

ここでいう手放すとは、物理的にも精神的にもということですよ。

分かりやすいのは物理面でして、ビンボーな人ほどモノを捨てられない、取っておきたがる、溜め込むんですね。


我が輩も捨てられない…


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

週末になると、毎回恐ろしいほどの
ダイレクトメールが入る。

本日も30以上のメールが一気にスマホに届いた。
ほとんどが、ネットのショッピングサイト!

最近、なんとかペイじゃないけど、
カードでネットショッピングしてるからだろうね。
デジカメもネットで買ったし…。

いやそれより、

引き落としの時が恐い




馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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『阿波徳島』その20 徳島城 鷲の門~数寄屋橋

2019-05-16 16:38:45 | 阿波国の史跡
"2019年3月31日(日)
二日目、

庭園を出たのが16時45分。
バスの出発まで、あと一時間、
駆け足で徳島城跡を巡ることになりました。

『国史跡徳島城跡』

蜂須賀正勝が四国攻めの功で阿波一国を秀吉から拝領。
子の家政に与えて、一宮城に入った。
しかし、秀吉の命で急遽新城を築くことになり、渭津の山城と山麓の寺島城を合わせて、渭山城(いのやまじょう)を築城、徳島城と改名した。
築城の手伝いとして小早川隆景、比叡山の僧、長曽我部元親などが動員された。
元親、悔しかったのでは?

『鷲の門』

徳島城の建物は明治維新ですべて壊されたが、唯一残されたのが、鷲の門。
しかし、徳島大空襲で焼失。
現在の門は復元。

門を入った所が
『三木曲輪』

城の南側に位置して、堀と川に囲まれてるので馬出のような役割があったようですな。

『下乗橋』

この橋で、藩主以外はみんな馬を下りた。

現在は花崗岩の水平橋だが、その前は太鼓橋、さらにその前は木造の太鼓橋でした。

橋を渡ると

大手の枡形。

右の石垣は、割石と自然石の組み合わせ、


矢穴をわざと見せてます。↓

一方、
左の石垣は、整然として綺麗すぎる。

好き嫌いはともかくとして、ここだけ石垣が積まれた時期が違うのかも?

枡形を抜けて城内に入りました。

ここに黒門があった。

寺島川側(徳島駅側)に
『太鼓櫓』



太鼓櫓から博物館方向を見る
表御殿がこの広場にあり、藩の政務がおこなわれた。

今は市民の憩いの広場。

3月末なのに早くも花見されてました。

下乗橋と内堀


寺島川と徳島駅


博物館の東側へ。

左側は低い石垣、
右側は、石垣の上に土塁

土塁の上に登った。
良い子は真似しないように!
『屏風櫓跡』

土塁の上に塀と櫓があった

数寄屋橋が見える



その21へ続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

大津事件と言えば、

明治時代、大津市を訪れたロシア皇太子に巡査が斬りつけた事件。
日本の司法権の確立、三権分立を意識させることになった。

7年前、大津市内の中学生が自殺した。
いわゆる『大津いじめ事件』
いまだにいじめ事件があると必ず引き合いに出される。

そして、先日の
『大津園児死亡事故』
車が歩道に突っ込み歩行者を跳ねて死亡される事件は他にもいくつかある。
たが、園児が巻き添えをくらったということで、全国的に注目を浴びた。

おそらくこれから先も何か交通事故が起これば、大津事故が引き合いにだされるだろう。

というわけで、

大津三大事件

と、呼びたい!

て、こんなことで知名度が上がるなんて…



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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園部陣屋・園部城

2019-05-15 16:44:42 | 丹波国の史跡
日曜日は、丹波山陰街道歩きの続きをした。
前日と同じく京都駅で乗り換え。
時間が遅いせいか、珍しく電車が空いてました。
11時半、八木駅到着。


八木は宿場町として栄え、今もいい雰囲気が残ってます。
八木から北上すると堤防沿いの道ばかり。
史跡も無くて、ただ暑いだけ。
今日も30度近くまで気温が上昇しそうです。
ふと、竹藪を見ると手書きの絵看板発見。


看板にしたがって竹藪を掻き分けると川岸に出た。
この付近は、園部川と桂川が合流し保津川へ向かう場所で、江戸時代水運として栄えたそうです。


その痕跡を探そうかと思ったが、藪蚊につきまとわれて、とてもじゃないがそれどころではない。
早々に退散しました。
この後、
しばらく宿場らしい街並みが続いてた。

宿場の出口で、ここが鳥羽宿だったとわかった。
これはミスった。

わかってたら、もっとじっくりと街並みを見て歩いたのに、残念無念。

吉富駅でしばし休憩する。

これからは、暑さが厳しくなるので街道歩きは休憩必須。

そして15時、園部町に入りました。

園部駅は街道に近いが、園部城下町は山の反対側で遠い。
鉄道は火を吹くという意識があり、駅が町から遠ざけられたらしい。
同様の例は他にもあり、同じ丹波の篠山城、我が近江八幡もそうです。
後々、これが良かったのか悪かったのか…


園部駅は地図の右下付近です↑

街道を北上し、園部本町で街道歩きはストップ。
これより南下し城下町を探索しました。




1619年、園部藩主小出義親は小麦山周辺に築造を開始した。
陣屋は完成したが、櫓は幕府の許可が得られず断念。
結局江戸時代通じて園部陣屋としての城下町でした。
しかし、築城の願望は強く、幕末に再び幕府に申請し、
そして、明治新政府の時にようやく許可された。
表向きは京都守護の名目でした。
小麦山山頂の他に本丸周辺に櫓門や櫓など10個の建物が造られた。
ようやく念願の堀に囲まれたお城が完成したのもつかのま、2年後に廃藩置県が断行された。
このため、園部城は
日本で最後に建てられた城郭建築
と呼ばれます。

裁判所正門に石垣。




城郭風のような建物は、園部町公民館。

近寄ってみると、現在は廃墟のような感じ…



国際交流館の建物も城郭風です。


園部城には天守が無かったのでこれはあり得ない。

すぐ隣に南丹市立文化博物館。
15時で閉館と思ってが、近寄ったら開館していて、館員が入ってもいいというので、300円払って入りました。
ここで、城下町マップget!

この後、マップを頼りに城下町探索しました。
しかし、小麦山は時間的に無理なので今回はパス。
肝心の本丸は、現在園部高校の敷地になってる。
高校の回りを一周する。

フェンスの向こうは、蓮池跡。

そして、正門に。


巽櫓、番所、櫓門が現存してます。
右に太鼓櫓があったが、その後八木町の寺に移された。
太鼓櫓も現存するので、次回八木町に立ち寄って確認するつもりです。
というか、今回は八木駅から出発してるのだから、先に立ち寄るべきでした。
下調べが不十分でしたわ。

正門は閉まってます。


なので、テニスコート横の南側の通用門から入って
裏側を撮影しました。


巽櫓と櫓門の間に番所。
この番所で、現在は高校への入門を監視してるのかな?

誰もいないので勝手に撮影した。

高校なので敷地に入るのは基本的に事前に許可が必要。
良い子は真似しないように!



最後に『生身天満宮』
なまみ、

じゃなくて、「いきみ」と読む

全国にたくさんの天満宮があるが、
日本で最古の天満宮
と言われてます。

菅原家の知行地が園部にあり、小麦山に邸宅があった。
道真公が大宰府に左遷されることになり代官が道真の子を預り養育し、道真の祠を建てた。
なので、道真公存命中の祠として
「いきみ」と名づけられたようです。

そして、道真公無くなった後、正式に神社になりました。

お城は日本最後、
神社は日本最古、

園部という町、いいですね。

実は、学生時代の先輩が園部出身で、自分のことを
丹波守と呼んでました。
園部町史の編纂に携わっておられたので、現在も歴史に関わることをされてると思うのだが…

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
関西テレビ、カンテレの深夜に

『トゥルーマン・ショー』
という映画が放送されてたので見た。

アメリカの製作で、大ヒットしたらしい。

最初、わけわからなかったが、
そのうちのめりこんでしまった。

びっくりポンの企画!

いやぁ、凄い映画でした。

いろいろ突っ込みどころもあるけど、
奇想天外な内容はアメリカ映画らしいですな。

主人公の俳優さんのあの明るさが
この映画のすべて、と言ってもいい。

大いに満足したけど、
その後の主人公の人生はどうなったのか?
気になります…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪"
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大和郡山城

2019-05-14 16:28:18 | 大和国の史跡
土曜日は奈良県へ向かった。

降りた駅は、近鉄郡山駅。

奈良盆地は暑い。

大和郡山市役所へ直行。


市役所裏で発掘調査がおこなわれた。

その現地説明会があるという情報を入手したので、急遽予定を変更してやってきたのです。

市役所、ボロボロの建物。
で、新庁舎を建てるのでその前に発掘をしたそうです。
市役所は、郡山城三の丸の東の端っこ、五軒屋敷があった場所。


若い女性の担当者が説明してくれました。







中央を貫く溝があり、その東側に礎石建物と遺物が見つかった。


16世紀末~19世紀にかけての遺構で三期にわかれる。
建物の遺構は1期で16世紀~17世紀。




礎石は、五輪塔や石臼が含まれてた。

中央の南北溝は2期、17世紀~18世紀。
屋敷内の区画溝と推定される。

溝の西側は、3期、19世紀。
↓南側


北側が土坑1で、池。


暗渠を通して南側の土坑2に排水された。
南側は排水施設と考えられる。

五軒屋敷がいつつくられたか、わかってないが、今回の発掘調査で、三期にわかれて変遷していった、とわかった。

さらに東側を掘れば、城の中堀の遺構が出てくるはずなので、そちらも掘ってくれるといいのですが…

↑右側に中堀があったはず


この後、お城へ向かいました。

確か7年ほど前ですが、郡山城に来たことある。
ブログでも少しアップしたと思う…

追手向櫓ー多聞櫓ー追手門ーー東隅櫓、
これが、まず最初の大手の関門。

↑東隅櫓


↑追手門


↑多聞櫓

枡形になっていて、素晴らしい。

『柳沢文庫』

内部は前回に見学した。
今回は、スタンプ押したい。

なんと、展示替えのため閉館してる。
でも、係員さんがいて、
続百名城スタンプgetできました。
良かった、良かった。

そして、本丸へ。






有名なさかさ地蔵が石垣のなかに嵌め込まれてます。



前回来た時は危険なので、天守台に上がるのは不可でした。
我が輩、無視して登りましたが…


現在は綺麗に整備されて、安全に登れます。
あまりも綺麗なのでびっくりポンでした。
ボランティアガイドさんがたくさんいて、個々の見学者に説明してました。
なぜか、我が輩には誰も来てくれなかったが…
いや、いいんです。
ガイドさんなんか不要。
一人できままに見て歩くほうが楽しいのですわ。

城のまわりをぐるっと隅から隅まで見て、
この後、城下町を見学。

最後は、外堀を見た。

↑北門として冠木門が復元されてる

近世のお城にとって、外堀は生命線。
一番重要な防御施設。
外堀が突破されたら、お城は丸裸になって簡単に落城します。
大阪城がその典型ですな。
外堀は埋め立てられて残らない宿命になってる。
郡山城は、一部分ですが、綺麗に残っていて緑地公園として整備されてました。




いやぁ、これは嬉しかった。

↑南門


我がひこにゃん城も見習うべきです。

そんなわけで、暑いけど大いに満足しました。

金魚のマンホール

大和郡山市といえば、金魚ですよね。


今回は時間がなくて行けなかった筒井城跡や環壕集落などにもまた改めて行きたい。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今回は、新デジカメですべて撮影しました。
優秀なので、気に入りました。

心配してたバッテリーも長持ち。
予備のバッテリー買う必要なし。
ま、夏だからなのかもしれないけどね。

ともかく満足です。
ちょっと重いのが残念だけど…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【阿波一宮城】その4

2019-05-13 21:54:35 | YouTube動画

【阿波一宮城】その4 2019年3月30日、

水の手丸から下山、

垂れ桜がご褒美でした。

この後、

麓の居館跡まで行きました。

阿波国、最大の山城という評価に値する城跡でした。


地元の人の努力にも感謝です。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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