馬ひでの助

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『阿波徳島』その20 徳島城 鷲の門~数寄屋橋

2019-05-16 16:38:45 | 阿波国の史跡
"2019年3月31日(日)
二日目、

庭園を出たのが16時45分。
バスの出発まで、あと一時間、
駆け足で徳島城跡を巡ることになりました。

『国史跡徳島城跡』

蜂須賀正勝が四国攻めの功で阿波一国を秀吉から拝領。
子の家政に与えて、一宮城に入った。
しかし、秀吉の命で急遽新城を築くことになり、渭津の山城と山麓の寺島城を合わせて、渭山城(いのやまじょう)を築城、徳島城と改名した。
築城の手伝いとして小早川隆景、比叡山の僧、長曽我部元親などが動員された。
元親、悔しかったのでは?

『鷲の門』

徳島城の建物は明治維新ですべて壊されたが、唯一残されたのが、鷲の門。
しかし、徳島大空襲で焼失。
現在の門は復元。

門を入った所が
『三木曲輪』

城の南側に位置して、堀と川に囲まれてるので馬出のような役割があったようですな。

『下乗橋』

この橋で、藩主以外はみんな馬を下りた。

現在は花崗岩の水平橋だが、その前は太鼓橋、さらにその前は木造の太鼓橋でした。

橋を渡ると

大手の枡形。

右の石垣は、割石と自然石の組み合わせ、


矢穴をわざと見せてます。↓

一方、
左の石垣は、整然として綺麗すぎる。

好き嫌いはともかくとして、ここだけ石垣が積まれた時期が違うのかも?

枡形を抜けて城内に入りました。

ここに黒門があった。

寺島川側(徳島駅側)に
『太鼓櫓』



太鼓櫓から博物館方向を見る
表御殿がこの広場にあり、藩の政務がおこなわれた。

今は市民の憩いの広場。

3月末なのに早くも花見されてました。

下乗橋と内堀


寺島川と徳島駅


博物館の東側へ。

左側は低い石垣、
右側は、石垣の上に土塁

土塁の上に登った。
良い子は真似しないように!
『屏風櫓跡』

土塁の上に塀と櫓があった

数寄屋橋が見える



その21へ続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

大津事件と言えば、

明治時代、大津市を訪れたロシア皇太子に巡査が斬りつけた事件。
日本の司法権の確立、三権分立を意識させることになった。

7年前、大津市内の中学生が自殺した。
いわゆる『大津いじめ事件』
いまだにいじめ事件があると必ず引き合いに出される。

そして、先日の
『大津園児死亡事故』
車が歩道に突っ込み歩行者を跳ねて死亡される事件は他にもいくつかある。
たが、園児が巻き添えをくらったということで、全国的に注目を浴びた。

おそらくこれから先も何か交通事故が起これば、大津事故が引き合いにだされるだろう。

というわけで、

大津三大事件

と、呼びたい!

て、こんなことで知名度が上がるなんて…



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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