馬ひでの助

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『阿波徳島』その21 徳島城、数寄屋橋~本丸

2019-05-17 21:57:28 | 阿波国の史跡
"2019年3月31日(日)
二日目、

徳島城内を巡る。
鷲の門から入って数寄屋橋の手前まで来た
土塁の上を歩く
※危ないので良い子は土塁の上に登らないようにしましょうね。
『旗櫓跡』

徳島城の東、鬼門の位置になる

その下に
『数寄屋橋』

城内の凶事の時にしか開けられなかったので「不明門」と呼ばれた。

こちらも本来は太鼓橋でした。

内堀の東側はここまで。

西へ向かう。
山の岩盤が現れる。

『城山貝塚』

約4000~2300年前、縄文時代後期~晩期の洞窟遺跡。
城内に貝塚、縄文遺跡が残ってるなんて、珍しいですね。

こちらは岩盤の下に石垣

徳島城は、吉野川河口の三角州の渭山(いのやま、猪山)・渭津(いのつ)と呼ばれた島に築かれた。
蜂須賀公が、築城した時に徳島と改名した。
縄文時代、渭津は海岸線ですぐ横が海だったということですな。

この岩盤が天然の防御となった。

『弁天池(蓮池)』

弁財天がまつられてたので弁天池、

蓮が植えられてたので蓮池、

桜満開。

なんども言いますが、3月末ですよ。

池の横の坂を登りました。

縦向きの巨岩がある。

『東二の丸』

曲輪の中に
「天守跡」

明治維新で取り壊されるまで、御三階櫓が存在しました。

でも、不思議ですよね。
普通、天守と言えば一番高い場所の本丸内にあり、さらに本丸内に盛り土して天守台を築きその上に天守を建てるものです。
こちらは一段低い二の丸の平地に建てられた。
天守台も無い。
どうみても天守は単なるお飾りだったとしか思えない

ビル群のために眺望はイマイチ

昔は眼前に海が広がっていたに違いない。

さらに石段を登る

『本丸北東の石垣』

徳島城で最も古い時期の石垣とされる。

自然石を雑に積んだだけに見えますね。

この石垣は後で積み足したのか?

そして、

『本丸』

現在は単なる広場。
桜満開!

ここには「御座敷」があった。

藩主、普段は麓の御殿で生活してたが、たまに登ったのでしょう。
御座敷の北側に『北門跡』

こちらは非常用の登城口で逃走路として使う虎口だった


西の端の弓櫓跡へ向かう


その22最終回に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

某まぐまぐの記事、

"ビンボーって、執着するところから始まるんですよ。執着の反対語は、「手放す」です。これが出来ない人がビンボーであり、ビンボーになる人なんです。

ここでいう手放すとは、物理的にも精神的にもということですよ。

分かりやすいのは物理面でして、ビンボーな人ほどモノを捨てられない、取っておきたがる、溜め込むんですね。


我が輩も捨てられない…


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

週末になると、毎回恐ろしいほどの
ダイレクトメールが入る。

本日も30以上のメールが一気にスマホに届いた。
ほとんどが、ネットのショッピングサイト!

最近、なんとかペイじゃないけど、
カードでネットショッピングしてるからだろうね。
デジカメもネットで買ったし…。

いやそれより、

引き落としの時が恐い




馬《●▲●》助ヒヒーン♪
コメント
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