2018年5月12日(日)
瀬田公民館
小学校に入りたくて入口を探すが
、さすがに無理でした。
仕方ないので、
上を見上げて小学校南側の忠魂碑付近を撮影する。
ここに西行法師の屋敷があった。
西行法師は佐藤義清といい、俵藤太の後裔で北面の武士でした。
後に出家して全国行脚した。
大河ドラマ平清盛では、藤木直人さんが演じてました。
大河史上最低の視聴率だった平清盛だが、今年の「いだてん」はこの最低記録をさらに下回るのでは?
東海道と芦浦街道の地図
この歴史地図によると
先ほど歩いた芦浦街道は合ってたようですね。
先ほど分岐の所にあった地蔵堂は、湯女場地蔵か!
先にこの地図見るべきだった…
いつか芦浦街道を終点まで歩いてみたい。
東へ向かう
またしても、くまモンの飛びだし看板
直線道も終わり、
この先からカーブ道になる
カーブの場所に
『野上社旧蹟』
前回述べたように大江地名は大江氏の領地があったから。
大江千里、
歌手じゃなくて百人一首で有名な歌人ですが、
「おおえのちさと」
村人から「ちりんさん」と呼ばれて敬われてた。
で、亡くなった後、この場所に祠を建てて野上社と呼ばれたそうです。
現在は、御霊神社に合祀されて石碑が残るのみ。
大江東自治会館前にあるそうだが、見逃した。
残念無念なり。
12時55分、
一里山二丁目北交差点。
お腹空いた!
実はこの日、市街地歩きなので食料持ってきてない。
街道歩きしながら、食堂を物色してたのです。
この交差点を左折するとJR瀬田駅へ行けます。
なので、駅へ向かった。
途中で、イオン発見!
昔は、ダイエーでした。
その前はスーパーひかり屋だった…
ここのフードコーナーで昼食にしました。
13時37分、再び一里山交差点。
『道標』
上、三条大橋まで五里余り
左、旧朝倉道
右、膳所藩札場より大萱港常夜灯に至る
下、江戸日本橋まで百二十里余り
南向いて道標を見てます。
だから、これから進むのは下の江戸方向。
三条大橋からここまで五里ということは、約20キロ。
寄り道ばかりしてるのでなかなか進んでないですわ。
右、膳所藩札場というのがよくわからないけど、大萱港は先ほど昼休憩したイオンから瀬田駅を通って琵琶湖にある港。
急がば回れの矢橋港付近。
★「左、朝倉道」
これがびっくりポン!
朝倉道というのは信楽街道のことで、瀬田と信楽を結び伊勢桑名へ行く街道。
現在の新名神高速道路を思い浮かべればわかりやすい。
昔、平行する県道16号線を車で走ったことあるが、道が狭くて困ったです。
一度歩いてみたいような…
途中に源内峠があるので源内道とも呼ばれる。
現在は大学があり、瀬田駅からのこの道は学園通りと呼ばれる。
では、なんで朝倉道と呼ばれるのか?
地図を見たら、わかりましたよ。
学園通り(源内道)を東へ向かい龍谷大学、源内峠へ行く途中の一里山四丁目付近の地名が「朝倉」でした。
現在も朝倉バス停がある。
地名としては一里山に統合されてしまったが、昔は朝倉という地名だった。
福井の朝倉氏と関係あるのかな?
と思って調べたが、どうやら関係なさそうです。
石碑の左下隅に平成22年8月、三代当主義輝此を建てる、
と書いてあるが、
朝倉家の義輝さん、とも違うようです。
て、誰やねん?
それはともかくとして、
交差点の北側に
『一里塚跡』月輪
現在の一里山という地名の由来は、この旧東海道一里塚があったから。
大正時代までは、松が植えられてた。
今は石碑しか残ってないのが残念ですね。
北上します。
道は東斜め方向に。
長沢川の一里山橋を渡る
長沢川
一里山三丁目交差点
東側に山ノ神池がある。
「山ノ神遺跡」
宅地開発で発見された。
7世紀中頃から末期頃の須恵器生産の窯跡と工房跡があった。
さらに東方向へ北上する
13時52分、
『東海道立場跡』
今は水が無いけど、ここは月輪池。
月輪(つきのわ)の地名由来は、
1、この池に映った美しい月の姿から。
2、月輪殿九条兼実の荘園がここにあったから。
という2つの説がある。
街道の立場は賑やかだった。
昔の人は月輪池を眺めながら感慨にひたり、旅したのだろうね。
その41へ続く
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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