馬ひでの助

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京極氏の桃原城跡へ行った、の巻

2024-06-29 16:02:18 | 近江の史跡
親の介護で土日のお出かけは長年無理だったが、母入院中に付き、しばし介護から解放されて、
前日の加賀越中国遠征から帰宅後、さらにお出かけ。

6月22日(土)、
場所は犬上郡多賀町桃原。

グーグルナビで向かうと、多賀町河内風穴方面へ誘導され途中から山の中のウネウネ林道を進む。
この道大丈夫かな?と不安になりかけた頃、桃原集落に到着。

桃原は「もばら」と読む。
例によって多賀町の山奥の地域は廃村ばかり。
電波も繋がらない地域だが、
昔、「桃原ごぼう」という高級食材の産地でした。
そこで、現在は「桃原プロジェクト」という組織が結成されて桃原ごぼうの普及に尽力されてまして、
当日はその総会がありました。

バッジを頂いた。
2015年といえば、北国街道歩きを始めた年ですわ。

この総会の催しとして桃原城跡についての講演会があり、その聴講として参加したわけです。
講師は知る人ぞ知る超有名な長谷川博美先生
昔昔その昔、鎌刃城祭りで長谷川先生に鎌刃城跡を案内していただいた。
その時は名前から察するに女性かな?と思ったりしての参加‥😅
それはともかくとして
これが、その後の山城探索するキッカケとなった。
山城にハマったわけです。

で、講演会の内容の詳細は公表するわけにはいかないので、
ちょこっと概略だけ。
桃原城跡は阿弥陀ヶ峰をピークとする3つの尾根を囲む区域に築かれた。


桃原集落の南の山で、この近くを北伊勢美濃と近江を結ぶ五僧越えの道が通る。
関ヶ原の戦いで島津軍が多賀町へ退却した道として有名ですね。
つまり、街道を見据える城跡。

城主は京極政高(政経)。
この人、実は
室町幕府相伴衆で、近江・出雲・隠岐・飛騨の4カ国の守護大名でした。
その居城が、山奥の桃原城だったとは、驚きですよね。
当時、応仁の乱あり。
京極氏内部でも抗争があり、美濃の斎藤氏も派兵されるなど、頻繁に戦いが繰り返された。
北方の巨大な山城ともいうべき男鬼入谷城とともにこの山岳地帯にたくさんの砦や城が築かれた。
この桃原地域周辺にもいくつかの砦が長谷川先生によって発見されてます。
まだまだ、未発見の城跡があるかも?
まさに桃原城塞群の本拠地がこの桃原城
と言ってもいいのでは?

で、講演会終了後、
桃原城跡へ。
林道は狭くて片側は崖、対向車来たらどうにもならぬ。
下手くそな我が輩の運転はとても無理。

というわけで、
恐れ多くもかたじけなくも
長谷川先生の御車に乗せていただいて現地へ案内していただいた。

杉坂峠の御神木
ここに駐車スペースあり。

多賀大社の御神木です。

ここから北へ移動



そして、

坂虎口と大門跡

上が曲輪内部です

その先の土塁の上から角馬出方向を見下ろした。
土塁の切岸と下の帯曲輪、馬出土塁わかるかな?

さらに土塁ウォーク、西へ
明瞭な空堀

ここは土塁が奥へ伸びる



東西500mの長い土塁は
凄いものがある

土塁はここまで。

ここから尾根筋を林道へ下山しました。


今回は虎口と土塁のみの見学でした。
奥の山頂付近へは行ってません。
というか、行けない。

実はこの他にも写真撮ったがまともな画像が残ってない。
というのは、

ヒル、

ヒル

ヒル
梅雨どきの鈴鹿山系は
ヒルが大繁盛

次から次へとヒルがズボンを登ってくる
エイヤ、エイヤと
掴んでは投げ、
掴んでは投げで、
敵を払い落とす

まさにヒル戦争ですわ

幸いなことに血は吸われなかったが、ヒル攻撃のために城跡探索に集中できない。

ウーン‥😭
でも、長谷川先生の案内おかげで
桃原城入門できました。


感謝感謝の至です。


長谷川先生のブログ↓



※なお、電波の届かない山奥の城跡なので単独行動は慎重にしましょう。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪



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