老人雑記

生活の中で気づいた浮世の事

  そのうち 俳句になればいい。

2019-05-20 12:26:57 | 俳句

    

 

昨日は野暮用があって、高松市にある中央公園の傍にある建物の中の事務所へ行った。

公園では、爽やかな五月の空のもとで ロックヘェスティバル が開催をされていた。空をつんざくような大きなロックギターの音楽が流れいる。

ロック音楽は、私にとっては縁が遠いし理解をしがたいが、決して否定はしない。

会合が終わって、楽しんでいる若者の後ろに立つ。お尻を左右に振って聴いている自分に気づいた。

 

                ロックギター手拍子五月の空を突く

           新樹光踊る吟行手帳かな

           緑陰に出番待ちゐるロック歌手  

 

まあ、月並な句だこと。いや月並み以前だ。

「 俳句は文学であること。」

> ただ経験したことの報告や説明は俳句ではないということ。 現実で起るさまざまな出来事は俳句の重要な素材ではあるが、それをそのまま写したからといって俳句にはならない。

> 世間では類句 類想をやかましくいうが、これはそれだけの問題ではなくて文学であるから、前へ進むことが大事なのである。

> 俳句は伝わらなくてはならない。分らない俳句、曖昧な俳句は俳句ではないということ。

師の書いた「俳句自在」を読んだ。

理解したうえで月並みといえるか?俳句以前の問題が欠如をしている。

しかし、この月並句を元に推敲と心の奧をさぐってゆくためにあえてブログに書いているのは重々承知している。



私は俳句愛好者。師のページを自分に解るように抜粋をしただけ。 師の書いた俳誌の文を全文書き写せば、ブログを読んで下さる人も、ああそうかと思う事もあろうが、自分に分ればいいと尻切れ蜻蛉の抜粋になっている。 私は想い出して、我が道を行く為に、そうなんだ~。


        

プレバト俳句も俳句? そうなんだ~。 人さまは人さま、私は私!

      

 

 

  

 

     

 

     

 

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