まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

画用紙に さらさらと春 レキの墓

2010年02月11日 | 歴史
 さぬき広島の我が家の近くに「英国士官レキの墓」がある。江の浦集落の東、広島小学校の裏手東の道端にあるのが「英国士官レキ之墓」というもの・・。

 
   

 慶応二年(1866)十一月、英国軍艦セルビア号が瀬戸内海の海底調査に来て、航路の測量中、乗組み士官のレーキが病死したので、船に近かった広島の江の浦西海岸に上陸をして、穴を掘って屍を埋葬し、礼砲を空に向かって撃ちあげ、そこに白木の十字架を立てて帰艦した。

 その様子を見ていたおばあさんは、「遺体をかついで鉄砲を持った異国人がむかでのような船で上陸をして、遺体に向かって鉄砲を撃ちまくった」と話していたらしい。当時、邪宗門取締りが厳しかったので、すぐさま役人が駆け付けて十字架を焼き捨ててしまった。

 

 純朴な島民たちは、異国に眠る墓標もないレキの霊を慰めるために、そこでやむなく、レキのことを京の会計官櫺(かく)判事・長谷川三郎兵衛としてお寺に届け、過去帳に記載し、墓標を建ててねんごろに弔った。

 

 当時医者でもあった庄屋の岡七郎兵衛良伯は、イギリス人が祖国を遠く離れた地に寂しく葬られているのを哀れに思い、長谷川という異国名では安からに眠ることはできないと考えたが、当時はキリスト教は邪教とされ、厳しく禁じられ、また、きつく取り締まられていた時代であったし、幕末から明治維新に至る世情騒がしい時期でもあり、各地で「えーじゃないか」や、隣の塩飽本島では小坂騒動も起こったりした時代だった。

 

明治元年(1868)十一月になって、国体が変革したのを期に岡良伯は同所に花崗岩で「英国士官レキ之の墓」という立派な墓碑を建てた。

 

 明治二十九年、再びセルビア号が来日し、近海を航海したおり、昔、レキと同僚士官だった艦長のジョンは、乗組員一同を引きつれて上陸し、もう十字架は朽ちてなくなっているだろうと、埋葬した場所に着くと、そこには立派な石碑が建っており、多くの供え物やきれいな花が活けられていた。乗組員たちは、江の浦の人々の親切にいたく感激しながら帰っていった。

 

 その後、数ヶ月ほどして、英国公使館を通じてジョン艦長からの感謝状が江の浦に贈られた。また、英本国からからも青木周蔵外務大臣に感謝状が届けられた。先の太平洋戦争では冷遇もされたこともあったが、平和を取り戻した現在、江の浦の人々は四季の花を供え、お参りを欠かさない。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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