まなびの途中

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学んだことを書いてまいります。

慰安婦という問題。力不足ですが。

2007年06月30日 | 本・映画
米下院外交委員会で決議された、従軍慰安婦の問題。
正直、自分が考えを述べる、何かができる、という次元を超えたレベルにあるが、
一応、色々な考えを参考にするのは必然と、
「慰安婦」問題とは何だったのか 
中央公論新社から出版された本を読んでみた。

著者は、大沼保昭氏 
「アジア女性基金」の創設から、この問題に関わった方。
アジア女性基金は、7年3月にその使命を終えたが、
10年以上の歳月を通して、何をされたか、どうお考えになったか、
非常に興味をもっていた。

個人的には、このような「戦後処理」の問題について、
戦時の状況を、現在の尺度ではかる考え方には、組しない。
だから、戦争を憎む。戦争に反対する。
そういう発言をされている方々が、
往々にして、「この侵略戦争」と言う言い方をされるが、
当時の世界状況は、全てが、今で言う、何の「道理」も見出せない、
戦略戦争であったのは事実。

よって、侵略戦争だからこそ、我々が悪いことをした、だから謝罪しなければ
ならない。
そういう文脈は、失礼ながら、基本的には使用したくない。

何事も結果として、負ける戦争をおこし、ひいては、国民のみならず、
様々な方々を、悲惨で残酷な「戦乱に」巻き込み、
多くの「被害者」を出してしまった。
この事実こそ、冷静に断罪しないといけない、と思う。

(だからと言って、勝つ戦争だったらいいのか という話も良く聞くが、
 ここでは、戦争の是非論を話しているのではない。
 個人的に、戦争ほど最低な外交はないと、考えている。)  

世界的にも、第一次世界大戦の反省から、
様々な「敗戦国」に対する処理が考えられ、
いずれにしても、公平さなんて、もともと戦争に厳然たるルールなどないわけで
勝者がいかに裁くかに掛かってくるわけで、
それでも、2度と「立ち向かわせないように」
さりとて「恨みを買わないように」
そして「もうこんな戦争は不毛だから平和を希求するために」

そういうわけで、国家賠償のルールをつくってきたと理解している。
よって、サンフランシスコ条約なども、
冷静に、生産的な将来を築くために、「大人の解決」を
講じたんだとも、理解している。

さて、そこで、突然沸き起こった「従軍慰安婦」問題。
朝日新聞が火付け役だったことは、紛れもない事実だったんだが、
これまた個人的に思うんだが、
あの戦時中に、国家機関として、兵士のための「性処理施設」を
きっちりと「運営」したのは、日本だけだったんじゃないかなと。

当たり前だが、戦時下、古来より、どこでも野蛮な事実を散見できるし、
現在でも、当時の「爪あと」は、見受けられる。
あのスターリンでさえも、
あれほどモンゴロイドを憎んだのは、それが原因だという話さえある。

もちろん、そういう施設を管理すれば、
当然だが、それを目指して、どういう悲惨な「商売」成立してくるか、
それによって、訳も分からず幼いうちから、
人生を翻弄された女性が、痛ましい過去を背負うことになったか。

必然として、「増長」させてしまったのは、紛れもない事実であっただろう。
だからといって、戦火の中で、奔放に規律もなく、
無残な事実を野放しに出来るわけでもなく、
これこそ、現在の尺度で、計る事が出来ない、難しさがある。

この著者は、アジア女性基金創設から、非常に苦労を重ね、
もちろん、その戦後処理という、大変難しい内容に立ち向かわれてきた。
いわゆる「大枠」で講じられた「国家賠償」の取り決め。
被害を受けた個人レベルを、到底、救済できる訳ではないからだ。

個人を救済するために、医療補償として、考えながらも交渉するも、
韓国では、「反日ナショナリズム」の中で、
それを「受け取ることは、この先さらに求める、国家賠償請求にマイナスに
なることだ」と、もう、暴論に近いんだが、
補償を受け取る奴は、「裏切り者だ」。
韓国自身が遺族、被害者に送る、補償を打ち切ったり、
もう、かえって、大変な騒ぎをおこす当事者になってしまったりした。

ところが、同じ被害国として、この組織が認定した国。オランダ。
インドネシアを植民地にしていた関係で、
オランダ人も、「慰安婦」として、被害にあっていた。
同じく、個人レベルの被害者への救済として、国家間賠償が終了したといえども
根深い個人賠償の火種がくすぶっていた。

ところが、
 「オランダでの償いは、おおむね被害者から評価され、深い満足感をもって
  受け入れられた。」
オランダ政府も、支援団体も、非常に協力的で、
もちろん、アジア女性基金のスタッフの、心からの償いの労を、
どうあれ、深い感謝で受け入れ、どうあれ、許す。
そういう「交流」ができた。

実は、ここで、この本の意義を見てしまって、この先、どうしようか、
考えてしまった。
もちろん、中国は戦火になり、朝鮮半島では、日本人として、戦火に駆り出され、
オランダと内容が違うといえば、かなり違う。

ところが、様々な国家賠償を取り決め、履行し、国家間で条約も締結し、
さらに、資金も、援助も行い、謝罪についても繰り返し行う中で、
なぜか、ある2カ国だけが、この「負の連鎖」を超えられない。
生産的に、将来を見据えた、相互の「交流」ができない。

我々でも、仮に、謝罪し、償いをすることに関しては、
できる範囲ですることはやぶさかではない。
そして、完全とはいえないかもしれないが、「感謝と満足」を表明していただければ
思ってはいけないかもしれないが、こちらも深い「癒し」が得られる。
そして、多分、深い信頼が築かれ、2度と間違いは犯さない、
そういう「更生」の場を与えてくれる。

のに、どうもあの2カ国。
とことん、食らいついてくる感じなのだ。
どんな冷静な表現を考えても、もはや「いじめ」にも似た感覚を覚える。
絶対にこの負の連鎖を断ち切ろうと、思っても見ない方々。
そういう絶望感すら感じる時点で、
この先、どういう生産的な「処理」ができるといえるのだろうか?

そう思った時点で、この慰安婦問題。
もう、どんな手を尽くしてもこの2カ国と交流が出来ない。
こちらも「更生」できえない。
乞う考えたら、まるで不毛な問題に思えて、
この本ですら、もう、読もうという気力がなくなってきてしまったのだ。



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2 コメント

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Unknown (しゅ)
2007-07-04 11:37:57
大沼氏の本を書店で見かけてさっそく読みました。
大沼氏は、慰安婦の大半は看護婦、家政婦などの
募集と騙されて(誰に?)慰安所に連れてこられ、
性的奉仕を強制され(誰に?)、長期間自由が
拘束される状態におかれた、と考えています
(p.84)。騙し、強制した主体が日本政府や軍
であるならば、日本の法的責任は免れないはずで
すが、秦氏、西岡氏らの調査によって、日本政府・
軍による強制は疑問視されています。けれども、
大沼氏は、p.143-144に次のように書いています。

「慰安婦」制度を法的な観点からみた場合、それ
は、それが設置され、運営された当時の国際法
と日本の国内法に反する制度であった。この点
については、わたしを含む多くの法の専門家が
同意するだろう。大日本帝国は、「慰安婦」制度
の設置、運営について、たしかに国際法と日本自身の法に反したのである。

いったいどんな法に反したというのでしょうか。
法の専門家として話すのならば、論拠をしっかり
書いて欲しいものです。さらに、大沼氏は、「慰
安婦」制度の責任者を法的に処罰して欲しい、と
いう元「慰安婦」の願いに同情しつつ、次のよう
にこれをしりぞけているのです。

責任者の処罰は、事後法による処罰の禁止という
近代法の根本原則に反する可能性が高い。〔…〕
人に刑罰を科すのは行為時の法律に定められた
規定によらなければならず、行為時に犯罪とされ
ていなかった行為を事後的に処罰することはでき
ないという事後法の禁止は、人類が長年かけて
獲得した、もっとも重要な近代法の根本原則の
ひとつである。(p.174-175)

ということは、大沼氏は、「慰安婦」制度は、
当時の法には違反していなかった、と考えて
いるのではないのでしょうか。

全体として、「何」がいかなる根拠によって、
日本の罪を構成しているのかを、おそらくは
意図的に曖昧にしたまま、元「慰安婦」への
同情に強く動かされて書かれた本であると思い
ました。著者の姿勢に悪意は感じませんが、
人間的にも、学問的にも「甘い」と思います。
返信する
Unknown (しゅさんへ)
2007-07-05 14:39:20
コメントありがとうございます。
ご返信を差し上げる前に、一応、全部読んでおこうと、返信が遅れてしまいました。

この作者は、くどいくらい、国家的な法の責任と道義的な責任を繰り返し述べています。
その際に、法の責任では、この慰安婦の問題をリンクさせる、適当な海外の事例がないこと。その為に、ナチスドイツの戦後補償、アメリカの収容所を例に持ち出してまいりますが、

自分としては、理解がいきません。

要するに、この組織が、かなり限定した範囲において、やっているとしか、思えないのです。
というには、平和を希求する。2度と過ちを起こさないためにと、世界に「普遍性」を勝ち得る運動につなげるための、何かが、全く見えないのです。

国が、そういった施設を運営している。この事実が、不適当であり、それこそが、原因だという。
確かに、その為に、不幸にも、事情がわからず、関わった被害者もいるのは事実でしょう。
また、身売りにもにた状態で、つれてこられた方もいるでしょう。

その施設を運営しなければ、こういったことが、無かった、というのも事実であって、これによって、事情はどうあれ、潔く、日本国が総括し、世界に向けて発信すればよかった気もします。

その中で、原発と同じではないんですが、核を持たない、持ち込ませないなど、同じ要領で、世界に、女性に対する尊厳を含めた、風俗の否定まで、ムーブメントとして高めるのであれば、整合性がとれるのではないかと、そう考えもします。

ただ、諸外国には、国営にも似た許可制で、そういった施設があるのもまた、事実で、日本にも、まだあります。韓国でも、風俗の取り締まりが行われた際、専従している方々の大掛かりなデモもありました。規制をするなと。

そう考えると、作者が行っていることが、どうも、戦争と切り離されて、仰るように、同情に強く動かされて書かれた本というご指摘に頷かざるを得ません。自分が理解できる範囲は、まだまだ甘いかもしれませんが、うらみつらみが延々と記された本だという印象をぬぐえません。

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