名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

歴史的大発見 その2 太安万侶様の子孫との対面

2024-04-21 | 思う事


日本史に於ける、歴史的大発見
太安萬侶(おおのやすまろ)の墓は、1979年(昭和54 年)

その時、私は15歳だった。

当時は、連日テレビのニュースで
続報が流されていた。



NHKでは特別に奈良からの中継が流された。

たしか、夕方のニュー番組の時だったと記憶する。

当時15歳の私は、
学校から帰るとすぐにテレビの前で釘付けになった。



その番組は、史跡・平城京跡からの中継だった。

この中継の出演者を見て、驚いた・・・



なんと!!!! 
太安万侶様の子孫がゲストとして登場したのだ・・・

太安万侶の墓誌には、
養老七年(西暦723年)と刻印されている。

私は思った・・
そんな!!! 信じられない!!!

約1300年前に亡くなった、
太安万侶様の子孫が存在している??



平城京跡の原野には、NHKのアナウンサーと、
ゲストの男性が二人が立っていた。

アナウンサーが紹介した
「太安万侶様のご子孫、
多栄平(おお・しげひら)さんに来ていただきました」

そんなバカな???と思いつつ、
多さんのお姿を直視した・・

神々しいお姿であった・・
言葉では表現できないが、
凡人は離れした品性と風格を感じた。

多さんの姿を見ただけで感動した。



インタビューの中で、
多さんも、この発見に驚いていた。



このとき、私は思った・・・

多栄平氏に、いつか必ずお会いたい



その後、太安万侶様の子孫と言われている、
多氏とは、どんなん御方なのか大いに興味を持った。

当時は今のようにインターネットで
何でも分かる時代ではなかった。
色々な文献を読んで追跡した。



5年後・・・1984年
多氏の所在を突き止めることができました。



多栄平氏は
多坐彌志理都比古神社
(おお にます みしりつひこじんじゃ)
の宮司様でした。

奈良県磯城郡田原本町多
にある神社で、
略称「多神社」と呼ばれている。

「多」という地名に住む「多神社」の宮司の
「多」という姓を名乗る御方であった。

このことからしても、
多宮司様が、多一族の末裔であることを物語っている。



「古事記」「日本書紀」の記述によれば、
多氏の祖は神武天皇の皇子である
神八井耳命(かむやいみみのみこと)、
その15代目が安万侶にあたります。



太安万侶様の子孫の存在は、
古事記と日本書紀の記述
に寄るものであることが分かりました。



当時、20歳の歴史オタクの私は、
大いに感動しました???



太安万侶様の墓の場所は、
1300年の月日を経て忘れ去られて
しまったにも関わらず。

古事記・日本書記の記述・伝承は
現在至るまで、
 生き続けていた・・・

思わず・・身震いしてしまった・・・



20歳のとき、
多神社に行き、
多氏と対面することができた・・・



もし、仮に、多栄平氏のDNAを
太安万侶様遺骨から採取したDNAと対比、
分析したとしたら、

ひょっとしたら・・
一致しない可能性もある。

(個人レベルで、
1300年前の人物との血の繋がり判定する事は
技術的に不可能かもしれない)



されど・・・・

多神社宮司様以外に、
太安万侶様の子孫は存在しない。

その頃から私は思っていた・・・

 「事実」と「真実」は別物・・



科学的解析は「事実」を語る。

答えは3つ・・
正か?? 否か?? 不明か??



多氏が太安万侶様の子孫であること、

これは「真実」

正・否・不明・・・この3つの枠外となる。

なぜなら・・・
太安万侶様末裔であることを自覚して、
誇りをもち、
その立場を貫き、
責任を果たしている人物は、

多坐彌志理都比古神社の宮司、
多栄平氏・・以外、この世に存在しない。

現に・・多栄平氏は、その立場に相応する
高貴な風格と品性を発しておられた。



多神社も後世に残すために必要な
経費確保に
苦慮してお見えのごようすとは拝察しました。

多、宮司様のご苦労が気配として、
私には伝わって来ました。



多神社に参拝すると、
太安万侶様の超人的な
頭脳の功徳が得られるかも知れません。

「古事記」「日本書記」は日本の正式な歴史書です、
これを「正史」と呼びます。






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