小学3年時の話です。
遠い過去の出来事ですが、様々な事情により、この話は3年生のときだったと断定できます。
海辺の村で育った少年ですが、村の奥まった山の上に、人の住んでいる家が一軒だけありました。
同級生のM岡T子の家です。
村では珍しく、まだ電気が引かれていない家でした(昭和30年代の初めです)。
考えてみるとどうってことのない距離です。
登り始めてT子の家までは30分ほどで着きますのでね。
でも当時は遠く思えました。
一言で小学生といっても、年少組と年長組には、微妙な差があります。
2~3年後の少年にとっては、すっかり馴染みの場所になり、日常的に行き来する遊び場になっておりました。
宿り木の実で鳥餅を作ったり、山栗、渋柿、1本だけ自生してた梨の木、楊梅、グミの実など、四季を通しての遊び場のひとつでした。
でも年少組の少年たちにとっては、日常を越えた距離でした。
家庭訪問の日です。9月か10月だったと思います。
村外れの同級生の家から始まり、順次回ったあと、最後がM岡の家です。
担任のN谷先生にくっついて、村の同級生たち全員もT子の家に向かいました。
家庭訪問という非日常の出来事は、少年たちのテンションをあげてしまいます。
少女たちは先生を取り囲み、少しでも側にいようと纏いつきます。
少年たちは前後を走り回り、ときに少女の誰かをからかい、先生にたしなめらりたりします。
秋の七草を憶え始めた頃だったのだと思われます。
先生の提案だったんでしょうか、7つの花を集めようということになりました。
誰が一番最初に7つ花を揃えることができるか、競争です。
少年たちは知ってました、このあたりに撫子は無いってことを。
村のなかで撫子を見つけられるのは、海岸近くだけだと知ってました。
(少年の村にはカワラナデシコはありません。ナデシコといえばハマナデシコのことでした)
この旨を先生に告げて、撫子は除外してもらいました。
残り6つの花を求めて、いっせいに野辺の花に向かいます。
簡単に手にすることが出来たのは、萩、薄、女郎花、藤袴です。
桔梗にはかなりてこずりましたが、何とか見つけました。
残るは葛です。
葛の花を最初に見つけた者が、その日のヒーローになることは約束されました。
でも同級生全員、葛の花のことを知りませんでした。
葛そのものはみんな知ってます。
道端を見渡せばすぐに見つけられますので、蔓を縄代わりにして、焚き付けの木切れを縛って持ち帰ったりしておりました。
でも、花は知りません。咲いているのを、見た憶えが無いのです。
覆い被さるように生い茂っている蔓をひっくりかえし、花をなんとか見つけようとしたのですが、どこにもありません。
形跡すらありません。
仲間たちのなかから、諦めの声があがってきます。
少年はムキになってました。是が非でも見つけると。
探し続けているうちに、いつしか仲間たちとの距離は大きくなるばかりです。
下から少年を呼び戻す声は聞こえていましたが、藪をかきわけ、前へ上へと登っていきました。
絶対見つけてやる。
必ず探しあてるんだという、その思いで突き進みました。
幻と化した葛の花に、執りつかれてしまっていたのです。
先生や仲間たちの呼び戻す声は、遠くなっていきました。
その日、葛の花を手にすることは出来ませんでした・・・
すっかり興味は失せ、萎れてしまった5つの花を傍らに、T子宅の家庭訪問を終えて帰ってくる先生や仲間たちを、道路脇の岩に座って待っておりました。
ひとり勝手な行動を先生から厳しく叱責されたのですが、少年の耳には届きません。
先生の叱責の理由は、見知らぬ場所に踏み込んで道に迷ったらどうするかうということでしたが、そんな心配など少年は端からしておりません。
ひとりで来たことはなかったけど、村の少年たちとは何度も足を踏み入れてきたところです。迷うはずはありません。
それよりも何よりも、葛の花が見つけられなかったこと、この挫折感のほうが、少年には大きな問題でした。
葛の花への少年の執念は、次の年に満たされました。
8月の夏の盛りに、折り重なった大きな葉っぱのかげに、身を隠すように赤紫の花は咲いておりました。
紹介いたします。
葛の花です。
後年の話です。
何故あの日に葛の花に出会えなかったのかを、自分なりに分析してみました。
答えは簡単でした。
他の七草の花たちとは、開花時期が違ってたということ、地理的条件の差が、そのまま植物の生育環境の差なんじゃないかということです。
中央(「秋の七草」という概念が生まれた当時は、京都ですね)の環境と、四国西南部の宇和島とでは、それなりに差がありますからね。
他の6つ、ハギ、ススキ、キキョウ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマと較べて、クズは花の咲いている期間が短いということも、わかってきました。
7つの花を同時に手にすることは、到底無理なことだと、そう理解するようになっています。