禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

私は私の世界である

2019-10-17 10:48:13 | 哲学
 従来の独我論というのは前回記事で取り上げたような、自分以外の人間はすべてゾンビではないかという懐疑が解消できないという、いわば神経症的なものであった。しかし、ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」によって、新たなタイプの独我論を提示してきたのである。「論理哲学論考」

 5.63   私は私の世界である。(ミクロコスモス)
 5.631 思考し表象する主体なるものは存在しない。
    「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは
    私の身体についても報告し、また、どの部分が私の意思に従
    い、どの部分が従わないか等も語られなければならないだ
    ろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりも
    むしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す
    方法なのである。すなわち、この書物の中で論じることのでき
    ない唯一のもの、それが主体なのである。
 5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界なのである。
 
 客観的な世界というのは、誰にとっても同一でかつそこにはあらゆるものが存在するという、そういう世界をコスモスと表現するなら、ウィトゲンシュタインの提示している世界は「ミクロコスモス」と呼ぶのが相応しいのかもしれない。上田閑照先生は「坐禅をすると自分と自分以外の境界がなくなっていく。」と述べている。虚心坦懐に反省すれば、「自分」 というものが視野の中のどこにもないことに気がつくのである。見ることができるもの、考えることができるもの、語ることができるもの、それらはすべて対象化されうるものである。しかし、主体は決して対象化されることはない。つまり、自分と自分以外の境界は世界の果てまで後退する。主体(私)は視野の限界、思考の限界、言語の限界である。主体(私)は世界の限界なのである。「私は私の世界」とはそういう意味である。ウィトゲンシュタインの独我論は、梵我論であるとも無我論であるとも受け取れる。

 ウィトゲンシュタインに言わせれば、あらゆるものが自分と切り離されてそこに存在するという、そういう「客観的世界」というものは幻想に違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独我論

2019-10-16 10:29:37 | 哲学
 前回記事では、他者にも自分と同じような意識があることを前提に間主観性というものが成立するというようなことを述べた。この間主観性というのはとても大切なもので、これがベースとなって客観的世界というものが構成されるのである。当然、客観的世界というものが成立するためには、すべての人々が私と同じような意識を持っているということが前提となる。
 
 しかし前回記事でも述べたことだが、この前提には厳密な論理的根拠というものがない。だから、疑おうと思えば疑うことができる。あまり大っぴらには言われないことだが、この世界は論理によってではなく信じることによって成立しているのである。
 
 とにかく、ほとんどの人が他人の意識を疑うことなく信じているのは、そのことについてはもう十分検証したと感じているからなのだろう。生まれたての頃は、おそらく何がなにやら分からない状態で生まれてきたはずである。不安から、ぎゃあぎゃあ泣いて、手足をばたつかせていると、柔らかな乳房が押し付けられて乳首を含ませられ、「てつー、おなかがすいたの? おっぱいあげまちゅね。」などと声を掛けてくる。そばに立っているもう一人の男の方は何やら変な顔をしていたかと思えば、いきなり目を丸くして「ばぁっ」とか言っている。そういうことを繰り返しているうちに、この二人の男女が私に対して何やら好意を持っているらしいと感じるようになる。
 
 両親だけではなく、成長するにつれ周囲の人間ともおびただしい数のコミュニケーションを交わすことになる。成人する頃には、他人の意識の存在を検証するためのパターンとしてはあらゆることをやりつくしているはずで、いまさらそれを疑ってもしょうがないレベルに到達しているはずである。もうそれ以上の検証をしようとすれば、他人の意識に直接入るしかないということになる。しかし、「他人の意識(クォリア)に直接触れる」という表現はナンセンスであるということはウィトゲンシュタインに指摘されてしまった。どんなクォリアであろうと自分が触れたものは「自分の」クォリアでしかないからである。つまり、私は他人の意識を信じるしかないはずなのである。
 
 しかし、それでも他人の意識を信じない人はいる。幼少の頃に幸福な両親との関係を築けなかった人は他人との共感関係をもちにくいということはあり得ることだと思う。もしかしたら、論理的根拠に執着する哲学者という人たちは不幸な幼少時代を過ごした人々なのかもしれない。
 
 「他者も自分と同等な意識を持つ」という論理的根拠というものは存在しない。しかし、「他者は自分と同等な意識を持たない」という論理的根拠もまた無いのである。前にも述べたが、この世界は論理によって成立しているのではなく信じることによって成立しているのである。さらに言えば、「他者も自分と同等な意識を持つ」と「他者は自分と同等な意識を持たない」という表現は一見正反対のことを述べているように見えるが、実は同じ事態について表現しようとしているのであって、ウィトゲンシュタイン流に言えば、どちらもナンセンスであるということになる。このことは、両者の違いというものについて言葉で説明しようと試みれば理解できるはずだ。「意識(の内容)」という私秘的なものについては公共の言語によって語ることは不可能だからである。
 
 一つ言えるのは、「他者は自分と同等な意識を持たない」と言いたくなる人にとって、この世界はとてつもなくグロテスクなものに見えているということだろう。
 
穂高連峰は私にはとても美しいが、グロテスクに見える人もいるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識とクォリア

2019-10-15 13:04:14 | 哲学
 私は恋人と夕暮れの浜辺を歩いていた。私は「夕焼けがきれいだね。」と言う。彼女は「本当、とても赤くてきれい。」と答える。この時、私と彼女の間には「間主観性が成立している」と言う。間主観性とは、二人はお互いに同じ世界にいて、同じ月を見ていることをお互いに確信しあっている、ということである。
 
 この時私たちは、お互いに同等の意識を持っているという前提に立っているはずだ。その前提がなければ、私もこのような文章を他人様に読んでいただこうなどという動機も失せてしまう。永井均さんが「なぜ意識は存在しないのか」などという逆説的なタイトルの本を書くのも、実は、彼自身が他者には彼と同じような意識があると信じているからである。

 しかし、お互いに同等の意識を持っているという前提に立つと、それはそれで一つの難問が立ち上がる。本当にそれが「同等」の意識かどうかを確認する方法が言葉でしかないからである。すると、私と彼女は夕日をともに「赤い」と言うが、彼女が見ている夕日の色はもしかしたら私が「青い」と表現している色ではないか、という想定が成立する。

 そこでクォリアという概念が生まれてくる。私の意識の中に生じている「本当の」質感というような意味である。問題は、私のクォリアと彼女のクォリアが同じであるかどうかを検証する方法がないということである。夕陽を見ている彼女の視神経を、切断した私の視神経の脳に近い側に直接つないでみたらどうか? 眼と神経の構造はみんな同じだから、やはり赤い夕陽が見えるに違いない。というか、どのような手段を講じて、そしてどのように見えようとも、私が見る限りはあくまでそれは「私のクォリア」であって「彼女の」ではないということが決定的に重要である。

 ウィトゲンシュタインはクォリアについてなにかを述べるということはナンセンスであると主張する。「私の赤と彼女の赤は違う」という言葉が、どういう事態を指しているかを誰も理解することができない、と彼は言うのである。(哲学探究293節)  クォリアの内容が人によって「違う」ということがどういうことであるかということを、私たちが持つ公共の言語ではどうしても表現できないからである。

私と彼女は同じ夕陽を見て、「それは赤い」と確認しあった。確かにそれは言葉上だけのことであるが、言葉としての「赤い」はもともとそういう意味なのである。「夕日は誰にとっても赤い。」 それは間違いのないことである。

あなたには梓川の美しい水色が見えている。このありありとした質感をクォリアと言う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィトゲンシュタインと禅

2019-10-02 09:48:11 | 哲学
 ウィトゲンシュタインの哲学と禅が近しいということはよく言われることである。彼の人物像というのは禅者からは程遠いのだが、その思考から出てくる言葉がまるで禅者が語っているのではないかと思えるようなことが多いのである。

  思考し表象する主体は存在しない。 (「論理哲学論考」5.631)

 上記の文言については過去記事にても紹介したので説明は省略する。
                     ( 参照==> 「思考し表象する主体は存在しない」 )

 今回は「哲学的探究」という書物の中から二つの言葉を紹介したい。

  哲学はすべてをあるがままにしておく。 (第124節)

      哲学はすべてをただ提示するだけであり、何事も推論しない。----
 すべてわれわれの眼前にあるのだから、説明すべき何事もない。
 なぜならば、たとえば、隠されているものには、われわれの関心は
 ないからである。  (第126節)

 ウィトゲンシュタインと言う人が従来の西洋哲学者とはかなり違った哲学観をもった人物だとうかがえる。元来、西洋思想にとって真理は探究探求するものであった。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、現前しているものこそ真理であり、それをゆがめることなく受け入れることこそが哲学であると考えたのである。この「現前しているものこそ真理」という態度は禅と同じだと言ってもよい。人は言語によって思考する。そこにドクサ(憶見)の入り込む余地がある。ウィトゲンシュタインは、言語というものについて徹底的に追及した人でもあった。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする