禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

純粋経験と実在

2019-10-29 10:07:45 | 哲学
 NHKのEテレで「100分de名著」という番組で「善の研究」が取り上げられていたが、その3回目の放送(10月21日放送)のテーマが「純粋経験と実在」であった。そのビデオを見て、いろいろ思いついたことを述べてみたい。

 哲学愛好家の中にはとても奇妙な言葉遣いをする人がままある。ある人とテーブルをはさんで会話していた時、その人が唐突に「哲君、このテーブルの上にリンゴとバナナが置いてあるけれど、これらは実は僕たちの頭の中にあるんだよね。」と言い出した。リンゴとバナナは「そこにある」ように見えるけれど、太陽から出た光がリンゴやバナナから反射してぼくたちの目の中の網膜から視神経を通って脳で映像となっている、いう訳である。しかし、「全部が頭の中」と言ってしまうと、一体その「中」とは何であるのかが分からなくなる。あくまで「外」があっての「中」ではないのか? すべてが頭の中だと言うなら、果たして頭の外はどこにあるのか?

 禅的視点からいうと、そのような考え方はナンセンスである。リンゴとバナナはあくまでそこにある。「そのように見えている」ということが原事実であって、西田幾多郎はこれに純粋経験と名付けたのである。光と視覚の関係云々というのは後から考えたもの、西田によれば「思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起こった抽象的概念である。」(「善の研究」第2編第2章より)ということになる。

 私たちが考えて言葉にすることはたいてい間違えているのである。「この世界は無常であり不定形であり常に流動している」にもかかわらず、言葉は強引に世界を固定化しようとするからである。現代言語学においては、たとえば「赤」という言葉が特定する意味というものはなく、単に赤と赤以外を分節する機能しか持たないとされている。「リンゴ」という語はリンゴとリンゴ以外を区別するだけである。だとすると、いきおい言葉はデジタル的かつ抽象的であらざるを得ない。テーブルの上にあるリンゴは、よく見てみれば、赤と黄のグラデーションにしても、少しいびつな形の具合にしても、世界に二つとない固有のものである。にもかかわらず、「赤いリンゴ」と言ったとたん、それはなんの変哲もない抽象的なリンゴ、一般的・普遍的なリンゴに仕立て上げられてしまうのである。言語によってこの世界を正確に切り取ることはできないのである。そのことは約1800年前に、大乗仏教の祖である龍樹によって指摘されたことである。

 光と視覚の関係云々という時、私たちはいわゆる物理学というものを架空の領域に組み立てているのである。それは現実にあるものではなくあくまで私たちの思考の中の仮説、説明のための方便であり、一種の虚構である。実在するのは、あくまでそこにあるリンゴとバナナのありのままの姿、原事実としての純粋経験である。


朝もやの中から現れた穂高連峰は実在であるる

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