禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

独我論

2019-10-16 10:29:37 | 哲学
 前回記事では、他者にも自分と同じような意識があることを前提に間主観性というものが成立するというようなことを述べた。この間主観性というのはとても大切なもので、これがベースとなって客観的世界というものが構成されるのである。当然、客観的世界というものが成立するためには、すべての人々が私と同じような意識を持っているということが前提となる。
 
 しかし前回記事でも述べたことだが、この前提には厳密な論理的根拠というものがない。だから、疑おうと思えば疑うことができる。あまり大っぴらには言われないことだが、この世界は論理によってではなく信じることによって成立しているのである。
 
 とにかく、ほとんどの人が他人の意識を疑うことなく信じているのは、そのことについてはもう十分検証したと感じているからなのだろう。生まれたての頃は、おそらく何がなにやら分からない状態で生まれてきたはずである。不安から、ぎゃあぎゃあ泣いて、手足をばたつかせていると、柔らかな乳房が押し付けられて乳首を含ませられ、「てつー、おなかがすいたの? おっぱいあげまちゅね。」などと声を掛けてくる。そばに立っているもう一人の男の方は何やら変な顔をしていたかと思えば、いきなり目を丸くして「ばぁっ」とか言っている。そういうことを繰り返しているうちに、この二人の男女が私に対して何やら好意を持っているらしいと感じるようになる。
 
 両親だけではなく、成長するにつれ周囲の人間ともおびただしい数のコミュニケーションを交わすことになる。成人する頃には、他人の意識の存在を検証するためのパターンとしてはあらゆることをやりつくしているはずで、いまさらそれを疑ってもしょうがないレベルに到達しているはずである。もうそれ以上の検証をしようとすれば、他人の意識に直接入るしかないということになる。しかし、「他人の意識(クォリア)に直接触れる」という表現はナンセンスであるということはウィトゲンシュタインに指摘されてしまった。どんなクォリアであろうと自分が触れたものは「自分の」クォリアでしかないからである。つまり、私は他人の意識を信じるしかないはずなのである。
 
 しかし、それでも他人の意識を信じない人はいる。幼少の頃に幸福な両親との関係を築けなかった人は他人との共感関係をもちにくいということはあり得ることだと思う。もしかしたら、論理的根拠に執着する哲学者という人たちは不幸な幼少時代を過ごした人々なのかもしれない。
 
 「他者も自分と同等な意識を持つ」という論理的根拠というものは存在しない。しかし、「他者は自分と同等な意識を持たない」という論理的根拠もまた無いのである。前にも述べたが、この世界は論理によって成立しているのではなく信じることによって成立しているのである。さらに言えば、「他者も自分と同等な意識を持つ」と「他者は自分と同等な意識を持たない」という表現は一見正反対のことを述べているように見えるが、実は同じ事態について表現しようとしているのであって、ウィトゲンシュタイン流に言えば、どちらもナンセンスであるということになる。このことは、両者の違いというものについて言葉で説明しようと試みれば理解できるはずだ。「意識(の内容)」という私秘的なものについては公共の言語によって語ることは不可能だからである。
 
 一つ言えるのは、「他者は自分と同等な意識を持たない」と言いたくなる人にとって、この世界はとてつもなくグロテスクなものに見えているということだろう。
 
穂高連峰は私にはとても美しいが、グロテスクに見える人もいるかもしれない。
コメント
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