禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ゲシュタルト崩壊と空観、それから龍樹へ

2016-12-23 21:35:57 | 哲学

ゲシュタルトについてインターネットで検索していると、ゲシュタルト崩壊という言葉が頻繁に出てくる。その説明を読んでいるとどうも析空観の説明に似ていることに気がつきました。

空観というのは、仏教の「空」を言葉で説明したものです。例えば、≪机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。≫ というような見方です。つまり、机は人間の生活習慣の中における使用目的という観点から、机の構成要素全体を統合しなければ「机」たり得ないわけです。あくまで、現代の人間の「恣意的」な視点によらなければ「机」は見えてこない。そういう意味で「机」は普遍的ではないわけです。

ゲシュタルト崩壊についてWikipedia から引用しますと、≪全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。≫ となっております。たとえば「傷」という字をじっと凝視していると、「傷ってこんな字だったかなぁ」という感覚に陥るらしいのです。(試したい方はこちらをクリック==>「ゲシュタルト崩壊」) これは、机が木切れの寄せ集めにしか見えないのと同じようなことだと思います。

つまり、仏教でいう空観とは、概念のゲシュタルト崩壊と言ってもいいのではないかと思うのです。例えば「人間」という概念について考えてみましょう。自分の父親を思い浮かべてみる。ぼくにかなり似ています。やはり人間でしょう。それからお祖父ちゃん‥‥、曾祖父‥とだんだんさかのぼっていくうちに顔かたちがかなり変わってきます、北京原人に似た人やクロマニョン人に似た人とか出てきて、ついには全身毛むくじゃらのチンパンジーとゴリラの中間みたいのまで行くと、「あれっ人間ってどんなだったっけ?」となります。これってゲシュタルト崩壊ではありませんか。

プラトンは人間のイデアというものが存在すると考えていました。人間にはいろいろなバリエーションがあって、各個人個人は姿かたちが違います。しかし、どの人を見ても人間であるということが分かるのは、範型としての人間のイデアというものがあるからだというのです。それは「普遍的人間」であり、人間の概念を規定するものと言ってもいいでしょう。もしそんなものがあれば、人間と人間以外は厳密に識別できるはずです。しかしどうでしょうか、「ネアンデルタール人は人間か?」と問われたら、おそらく人によって判断は分かれると思います。

 

仏教では普遍的な人間のイデアというものを認めないどころか、各個人の同一性というものも認めません。御坊哲という個人について見ますと、幼稚園に行っていたころのぼくは、今の僕とは全然違います。このブログを書く前と書いた後の御坊もすでに変化しています。ぼくは毎日ご飯を食べ水を飲みそれを排泄しています。細胞も常に入れ替わっています。いわば台風のようなものです。台風はよく見てみれば空気が渦を巻いているだけで、その空気も常に入れ替わっています。一体台風そのものの本体は何なのでしょうか? ぼくたちは何を指して台風と呼んでいるのでしょう?
このように考えていくと、台風の全体性が失われてゲシュタルト崩壊しませんか?
御坊哲も台風みたいなものです。栄養を外から取り込んで、細胞を新陳代謝させ、老廃物を排泄する。この繰り返しです。台風よりは緩慢ですが、時間がたてばすべての細胞が入れ替わります。

仏教では、あらゆるものが常にダイナミックに変化していると見ます。その変化の中で比較的安定しているものが個物とみなされているのです。あくまで比較的安定であって絶対的ではありません。常に流動的ですから、すべては偶然的で完全なものは存在しません。イデア論とは真逆のものの見方をするわけです。

次回は龍樹の空観について述べたいと思います。 ( その2に続く )

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ゲシュタルトからの連想

2016-12-22 12:37:26 | 雑感

ゲシュタルトという言葉は以前から耳にしたことがあるが、どういうものか知らないままにすましてきました。心理学に詳しい人の言うには、ドイツ語の形とか状態の意味なんだそうです。絵画を眺めた時に、近接した部分に緑と茶色の部分があるとそれを一本の木として認識する、見ようによっては画布の上に緑と茶色の絵の具がおかれているだけかもしれないが、それらを統合された一本の木の形として見るときに、それをゲシュタルトというわけです。

生まれつき盲目であった人が、治療によって視力を獲得しても、その直後は何も見えないんだそうです。正確に言うと見えていても何が何だかわからないということらしいのです。人が視界の中に入ってもそれを人と認識することはできない。輪郭線が見えても、その内部と外部の区別がつかないのでゲシュタルトを構成できないということらしい。視界の中のパターンが読み取れない、いわゆるカオスになっているのでしょう。

ゲシュタルトというのは視覚における"概念"というべきもののような気がします。逆に言うならば、概念は思考空間におけるゲシュタルトと言えばよいでしょう。視覚の中でゲシュタルトを見出せなければ視的認識能力はなくなり、概念がなければ思考は不可能になるでしょう。そういうことから我々は無意識のうちに、視野の中のパターンを常にチェックしてゲシュタルトを模索しているはずです。時には間違ったゲシュタルトをでっちあげたりします。道端の縄が蛇に見えたりすることがあります。いわゆる錯視ですね。

星座について言いますと、星の分布のパターンからゲシュタルトを形成しているわけで、恋人同士が星座を見ながら語り合っているというのは、ロマンチックでなかなかいいものです。これは錯視というようなものではありませんが、星座を構成する各星々は我々地球人には近接しているようにも見えてもそれは見かけ上に過ぎません。いわば、潜在的なゲシュタルトへの志向が強引に作り上げた統合に過ぎない訳です。

思考における概念形成につても同じようなことが起こりえます。思考するためには概念形成がどうしても必要です。そのため我々の潜在的な、概念形成への志向性はとても強い。時には関係のない星を統合して星座を作ってしまうように、強引に概念を作ってしまうということも考えられます。いったん概念ができると思考は概念による道筋が出来てしまいます。ゲシュタルトができると視覚的な認識力が安定するのと同じことです。

私達の学生時代には、社会の動きを何でも階級闘争という言葉を使用して論じるということが流行っていました。近頃は心理学をかじった素人が、やたら「それはエディプス・コンプレックスだ」などと言い出す風潮もあります。
階級闘争とやエディプス・コンプレックスが間違っているというわけではありませんが、概念を乱用して楽な思考に流れるというのは感心しません。ときには、その概念がどのような要素を統合したものであるかを良く分析し反省せねばならないと思うのです。

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自然〈じねん〉について

2016-12-21 11:37:40 | 仏教

以前、「仏教は道徳法則を導出する原理を持たない」という記事を書きました。「一切皆空」が根本原理であるから、他の宗教のようにロゴス(言葉)による倫理規定というものを立てるわけにはいかないのです。しかし、倫理の伴わない宗教というものは「いのちのない生き物」というのと同じような意味です。では仏教における倫理の源泉は何か?

釈尊の教えは非常にシンプルです。それは「執着してはならない」という一言に集約されるのではないかと思います。色即是空であるならば、自我さえも仮象に過ぎない。すべての邪悪なものは、自我を実体であると誤認して我欲に執着するところから生まれる、と釈尊は考えたのです。

坐禅というのは自己が無自性であることを確認する作業であります。無自性であればそこに執着すべきなにものもないということを知るのです。執着すべきなにものもなければ、そこになんらかのはからいや私心というものもない。このような心の状態を自然(じねん)と言います。

自然(じねん)はもともと仏教用語で「はからいのない」という意味です。本来は山川草木の意味は含まれていませんでした。明治時代に、nature の訳語とされた時に、現在の自然(しぜん)の意味になったのです。

仏教諸派は例えば禅宗と浄土教のように、形態的には実に多様ですが、この自然(じねん)というところで一致しているはずなのです。以下に親鸞聖人の言葉を引用します。

≪弥陀仏は自然のやうをしらせむれう(料)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること。)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。≫ (自然法爾章より)

「弥陀仏は自然(じねん)のありようを知らせる料である。」 ぼくには古文解読の能力はあまりないので間違っているかもしれないけれど、ここの「料」という言葉遣いは「道具」とか単なる「媒介」のようなニュアンスがして、門徒の方には叱られるかもしれないけれど、親鸞は既に阿弥陀信仰から逸脱していて、ここで述べていることはほとんど禅宗と変わらないような印象を受けてしまいます。

阿弥陀信仰が一神教に例えられて、浄土真宗はキリスト教によく似ていると言われるけれど、ぼくはやはりそれは違う、浄土真宗は正真正銘の仏教であると言いたいと思います。

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心はどうやって生まれるのか

2016-12-20 17:32:51 | 哲学

先日、NHK-ELのサイエンス・ゼロという番組を見たんですが、心を人工的に造り出すという試みにチャレンジしている人たちがいるそうです。科学によって意識というものも少しずつ解明されているということも言っていました。

しかし、この「心はどうやって生まれるのか」というタイトルには少し違和感を感じるんですね。もし科学がもっと進んでいけば、神経細胞がこのような状態になった時このようなことを人は考えている、ということが正確にわかるようになるかもしれません。そうなれば、本当に人間のように価値観を持ち、主体的に施行する人工頭脳をつくることができるかもしれない。

それでも、はたして心を造ったと言えるのか?という疑問は依然として残るような気がします。それは、ただ単にそのように反応し、そのように作動する機械を造っただけのことではないのか、という思いは消えないような気がするんです。

例えば、その機械が空を見て、「ああ、空が青いなぁ」と言ったとします。その時その機械の中には本当に青のクォリアが生じているのかどうかは確かめようがありません。その機械を作った人間から見れば、青い空を見たら「ああ、空が青いなぁ」と発言するメカニズムは既に分かっています。しかし、そのメカニズムは初めから最後まで物理現象によるメカニズムです。その機械の網膜に相当する部分に映る像は確かに青い色をしています。しかし、それは第三者としてのぼくがその網膜に映った像を見れば確かに青く見えるのですが、その機械の中では電気信号になって脳に送られます。そしてそのプロセスの中のどこをさがしても、電気的な作用があるだけでどこにもぼくが実際に見ている青い色あいそのものが見当たらないのです。

これがいわゆる心身問題です「意識のハードプロブレム」とも言います。が、特定の波長の光が視神経を刺激すればぼくたちには青く見える、ということは現在でも既に分かっていることです。しかし、物理現象がどうして意識上の青い色になるのかがどうしても説明できない。これ以上科学が進んでもより精密なメカニズムが分かるだけのことで、根本的に心身問題が解明されることはないように思えます。

そこで気づくのですが、物理現象から意識現象を説明する、ということがそもそも逆転した発想ではないかとぼくは思うのです。あえて主客二元的な構図で説明しますと、通常は客体があってそれを主観がとらえるというふうにぼくたちは考える。つまり、リンゴという客体があるから、ぼくという主観に赤くて丸いものが見える、と思いがちです。しかし、現象学的な表現でいえば実はこれは逆で、赤くて丸いものが見えるから、そこにリンゴがあると確信するわけです。つまり因果でいうと、客観が因で主観に果が生じるのではなく、主観が因で客観に果を想定しているわけです。

ここで、エルンスト・マッハの科学についての見方をご紹介しましょう。

≪科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ≫(Wikipediaより)

感覚諸要素とは我々が直接見聞きする現象のことです。いわば「空が青い」というようなことです。「関数的関係を記述する」とは、光の波長や視神経パルスというような概念を使用して「空が青く」見えていることのメカニズムを明らかにすることです。「思考経済の原理に沿って」というのは、出来るだけ余分な概念を使わないでシンプルに説明する、ということでしょう。マッハにとっては、光だとか波長というのも、それを想定すればもっとも簡単に説明できるという、構成された概念であるということです。あくまで実在するものは「感覚諸要素(現象)」であります。

もう一つ、西田幾多郎の「善の研究」から引用します。

≪我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を抽象したのにすぎない。≫

明確に意識現象だけが実在で、物体現象というのは各人に共通で普遍的関係を抽象したものである、と述べております。マッハと西田について共通に言えることは、我々が実在している物理的世界というのは「構成された」一種のモデルであるということです。本当に実在するのは、「空が青い」という我々の意識がとらえた現象のみであるということです。

「空が青い」という我々の意識がとらえた事実から、「青く見えるときの光の波長は‥‥」であるという物理学的対応を導き出しているわけです。すなわち、「主」から「客」を導いている。

ところが、何事にも理由を知りたがる現代人はここで、「光の波長が‥‥だと、どうして青く見えるのだろう?」と問うのです。私にはこの問いがナンセンスなように思えます。そのように問いたくなるのは、物理的世界が実在であって、それが原因となり我々の意識が結果として生まれてくるという発想があるからでしょう。どうしても、「客」から「主」を導き出したがるわけです。

事実は逆であります。実は「空が青い」ということがまず何より第一義的な事実なのです。このような見方は禅仏教における真理観とも符合します。禅仏教においては実存的視点から見える光景がそのまま真実であり、その背後に隠れている真実など無いのであります。「柳は緑、花は紅」というのは端的にそのことを表す言葉です。

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執着を断てるか?

2016-12-12 16:04:17 | 仏教

昨日横浜のみなとみらい21で、甲斐恵林寺のご住職である古川周賢老師のお話を聞きに行ってきました。この夏に恵林寺を訪れた縁(ref.>『青春18きっぷで行く小さな旅シリーズ 塩山編』)もあって、聴講を申し込んでいたのです。

古川老師は東大哲学科の博士課程まで行って、30歳で大徳寺僧堂に入門したという変わり種です。13年ほどで印可をいただき、平成23年に恵林寺の副住職になり、平成26年からは同寺の住職となって、現在49歳の将来を嘱望される老師です。

講演の方は、若いということもあってかなかなか軽妙なお話をする方で、愉快なひと時を過ごしたという満足感を得て帰ってまいりました。もちろん有益なことをたくさん聞かせていただいたのですが、その中の一つだけ印象に残ったことをお話ししたいと思います。

老師のお父さんは老師が僧堂で修行している頃亡くなられたんだそうです。その頃には僧としての修行も佳境で、「人間は生老病死を避けることができない、別れはいつか来る。」という仏教的諦観をわきまえていたので、涙を流すこともなく心を乱すこともなく、何年間か修行を続けていたんだそうです。ところがある日、食事のおかずにきゃらぶきが供された。きゃらぶきは少しクセのある香りと苦みで、子供などにはあまり好まれません。老師のお父さんは好物だったようですが、老師自身はあまり好きではなかったようです。ところが、それを口に入れたとたん、お父さんの笑顔、穏やかな声、手のぬくもりがフラッシュ・バックされて、嗚咽がこみ上げてきて涙が止まらなくなったんだそうです。30分間ぐらい動けなくなってしまったということです。いわゆるプルースト効果というやつです、きゃらぶきの独特の香りがこころの奥深い情動を揺り動かしたのでしょう。

老師はその時、生身の(老師は「タンパク質とカルシウムと表現します)人間である限り、いくら修行しても悲しみや苦しみを根絶することはできない、と悟ったのだそうです。執着と言えばそれは執着ですが、それをなくしてしまえば人間ではなくなるという意味に私は受け止めました。

釈尊は「執着を断て」と説きます。わが子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、「身内からひとりも死者を出したことのない家から白いけしの実をもらって飲ませなさい。そうすればその子は生き返るでしょう。」と言い、その女にわが子の死を受け入れさせました。

愛する肉親が死ねば悲しいのは当たり前のことで、釈尊だって決して涙を流すなというようなことを言ったりしません。キサー・ゴータミーはわが子の死を受け入れることができなかった。人は死んだら生き返らないという節理を受け入れることができなかった、それではだめだと言っているのです。人は誰でも死ぬ、そして死んだら生き返らないという事実は認めなければならないと言っているのであります。

ぼくも60代の後半まで生きてきていろいろ思うことがありますが、愛する人と別れて泣けるということは、実はすごく幸せなことではないかと思うのであります。親が死んだら悲しいというのは当たり前のようですが、それが当たり前でない親子関係というのも世間には少なからずあるのです。親が死んで子が泣くということは、その親子関係が健全であったことの証左でもあります。よくよく考えれば、それは感謝しなければならない境遇に自分があったことだと気付きます。それが妙ということでありましょう。幸せがあればそれに伴う悲しみもある、それが自然というものでしょう。

 公案「婆子焼庵」では、若い女性に抱き着かれた修行僧が、「枯木寒巖に依りて三冬暖気なし」と答えて、お婆さんにたたき出されました。なにがいけないかというと、そのお坊さんが仏教の修行を仙人になる修行と勘違いしていたからでしょう。欲望に左右されないことと、無感動な人間になることとを、混同しているのであります。

「枯木寒巖に依りて三冬暖気なし」と答えるような人は、親が死んでも泣けない人だと思うのです。仏弟子はやはり自然(じねん)ということを見失うべきではないでしょう。

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ワールド・ポーターズのパン屋さん ( 横浜 みなとみらい21 )

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