禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

執着を断てるか?

2016-12-12 16:04:17 | 仏教

昨日横浜のみなとみらい21で、甲斐恵林寺のご住職である古川周賢老師のお話を聞きに行ってきました。この夏に恵林寺を訪れた縁(ref.>『青春18きっぷで行く小さな旅シリーズ 塩山編』)もあって、聴講を申し込んでいたのです。

古川老師は東大哲学科の博士課程まで行って、30歳で大徳寺僧堂に入門したという変わり種です。13年ほどで印可をいただき、平成23年に恵林寺の副住職になり、平成26年からは同寺の住職となって、現在49歳の将来を嘱望される老師です。

講演の方は、若いということもあってかなかなか軽妙なお話をする方で、愉快なひと時を過ごしたという満足感を得て帰ってまいりました。もちろん有益なことをたくさん聞かせていただいたのですが、その中の一つだけ印象に残ったことをお話ししたいと思います。

老師のお父さんは老師が僧堂で修行している頃亡くなられたんだそうです。その頃には僧としての修行も佳境で、「人間は生老病死を避けることができない、別れはいつか来る。」という仏教的諦観をわきまえていたので、涙を流すこともなく心を乱すこともなく、何年間か修行を続けていたんだそうです。ところがある日、食事のおかずにきゃらぶきが供された。きゃらぶきは少しクセのある香りと苦みで、子供などにはあまり好まれません。老師のお父さんは好物だったようですが、老師自身はあまり好きではなかったようです。ところが、それを口に入れたとたん、お父さんの笑顔、穏やかな声、手のぬくもりがフラッシュ・バックされて、嗚咽がこみ上げてきて涙が止まらなくなったんだそうです。30分間ぐらい動けなくなってしまったということです。いわゆるプルースト効果というやつです、きゃらぶきの独特の香りがこころの奥深い情動を揺り動かしたのでしょう。

老師はその時、生身の(老師は「タンパク質とカルシウムと表現します)人間である限り、いくら修行しても悲しみや苦しみを根絶することはできない、と悟ったのだそうです。執着と言えばそれは執着ですが、それをなくしてしまえば人間ではなくなるという意味に私は受け止めました。

釈尊は「執着を断て」と説きます。わが子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、「身内からひとりも死者を出したことのない家から白いけしの実をもらって飲ませなさい。そうすればその子は生き返るでしょう。」と言い、その女にわが子の死を受け入れさせました。

愛する肉親が死ねば悲しいのは当たり前のことで、釈尊だって決して涙を流すなというようなことを言ったりしません。キサー・ゴータミーはわが子の死を受け入れることができなかった。人は死んだら生き返らないという節理を受け入れることができなかった、それではだめだと言っているのです。人は誰でも死ぬ、そして死んだら生き返らないという事実は認めなければならないと言っているのであります。

ぼくも60代の後半まで生きてきていろいろ思うことがありますが、愛する人と別れて泣けるということは、実はすごく幸せなことではないかと思うのであります。親が死んだら悲しいというのは当たり前のようですが、それが当たり前でない親子関係というのも世間には少なからずあるのです。親が死んで子が泣くということは、その親子関係が健全であったことの証左でもあります。よくよく考えれば、それは感謝しなければならない境遇に自分があったことだと気付きます。それが妙ということでありましょう。幸せがあればそれに伴う悲しみもある、それが自然というものでしょう。

 公案「婆子焼庵」では、若い女性に抱き着かれた修行僧が、「枯木寒巖に依りて三冬暖気なし」と答えて、お婆さんにたたき出されました。なにがいけないかというと、そのお坊さんが仏教の修行を仙人になる修行と勘違いしていたからでしょう。欲望に左右されないことと、無感動な人間になることとを、混同しているのであります。

「枯木寒巖に依りて三冬暖気なし」と答えるような人は、親が死んでも泣けない人だと思うのです。仏弟子はやはり自然(じねん)ということを見失うべきではないでしょう。

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ワールド・ポーターズのパン屋さん ( 横浜 みなとみらい21 )

コメント (2)
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