禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

言葉に意味があるとは限らない

2019-12-16 11:50:04 | 哲学
 ある人がこんなことを言った。「神は二律背反を超える。そこで一つの事柄上に完全なAと完全な反Aを両立させ実現させる。」 例えば、テーブルの上に大福があるということと、テーブルの上に大福がないということを、同時に実現させることができるというのだ。
 
 しかし、どうだろう。いくら頑張ってみても、テーブルの上に大福が有り、そして同時に無いという事態を想像できるだろうか? 少なくともこの私にはそのような芸当はできない。おそらく神ならぬ人ならだれもできないはずだ。つまり、「神は二律背反を超える。」と言葉では簡単に言えるが、そういった事態を思い浮かべることはできない。
 
 ということは、「神は二律背反を超える。」という言葉は発することはできる、私たちは言葉を機械的に組み立てることもできるからだ。そして、組み上がった言葉には意味があるものと思い込む。が、決して我々は直観の伴わない言葉の意味を知ることはできない。つまり、その言葉を発した人は、その意味を知らないまま発しているのである。

 ある人が、「私は今嘘をついている。」と言ったとする。はたしてこの人の言っている言葉は嘘なのだろうか? もしその言葉が嘘であるとしたら、「私は今嘘をついている。」という言葉は本当のことだということになる。逆に、本当だとしたらその言葉は嘘だということにななってしまう。これがいわゆる「嘘つきのパラドックス」である。
 ウィトゲンシュタインはこのことについて、「真偽より前に言葉に意味があると思うことにより、パラドックスになるのだ。」と述べている。どういうことかと言うと、人はまず言葉に意味があって、その意味と現実を突き合せて一致しているならそれは「真」であり、現実と一致していなければ「偽」であると考える、というのである。しかし、ウィトゲンシュタインはそうではないという。その言葉の真偽条件そのものが言葉の意味だというのだ。例えば、「雪は白い」という言葉が真であるのは、雪が白い場合である。そして雪が白くない時、その言葉は偽でであることを私たちは知っている。どういう場合にその言葉が真でありまた偽であるという、その条件こそがその言葉の意味であるというのだ。

 そういう観点から見れば、「私は今嘘をついている。」という言葉は、真または偽となる条件をもたない。そもそも意味をもたない、ということになる。はじめから何を言いたいのか、伝えるべき内容のない空疎な言葉でしかない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「少年時代」と「長い道」 | トップ | ニワトリが先か卵が先か? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

哲学」カテゴリの最新記事