前回記事で私は「世界は本来無色無音である。」と述べたのですが、実はその舌の根も乾かないうちに、本日の私は真逆のことを言おうとしているのであります。科学というのは現象の背後の仕組みを探ることを目的としています。物と物の関係の中の整合性を追求することが未来予測には役立つからです。だから、科学は感覚抜きの無色無音の「物の世界」を扱うのです。物と物の関係性に着目すると、「ものごとには必ずそうなることの理由がある。」と考えるようになる。それを「充足理由律」と言います。現代人のほとんどは充足理由律を信仰する「必然のとらわれ人」でもあります。
しかし、忘れてはならないことは、「私たちは感覚の中に生きている」ということであります。例えば、目の前にリンゴが有ったとします。科学者は「そこにリンゴという『物』があるから、そこから反射した光で私達にリンゴがみえる。」と言いますが、実は話は逆で、まず赤くて丸いものが見えているから「そこにリンゴが有る」と考えているのです。この辺の事情を西田幾多郎は次のように表現しています。
≪少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。すでに意識現象の範囲を脱せぬ思惟の作用に、経験以上の実在を直覚する神秘的能力なきはいうまでもなく、これらの仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起こった抽象的概念である。≫ (「善の研究」第2編第2章)
とても難しい言葉の言い回しですが、一つずつじっくり読み解いていくと納得できます。ここで「意識現象すなわち直接経験の事実」というのは、「赤くて丸いもの(リンゴ)が見えている」という(感覚的)事実のことです。感覚でとらえたものだから意識現象と言っているわけです。ここでは「直接経験」としていますが、これを西田は「純粋経験」と言い換えるようになります。西田はこのことだけが(実在の)事実であると言っているのです。この経験以上の実在(の事実)というものを直に知る神秘的な能力は我々にはないと言っています。つまり、「そこにリンゴという『物体』があるから、そこから反射した光で私達にリンゴがみえる。」というようなことは、色んな純粋経験を整合的(系統的)に説明するための抽象概念だというのです。
科学では、感覚抜きの物的事実を真実としていますが、西田は感覚で直接とらえたもの(純粋経験)こそ実在の事実すなわち真実であると言います。逆に、科学における感覚抜きの物的事実というのは推論による解釈に過ぎないと言っているのです。このことは仏教における「あるがまま看よ」ということに通じていると思います。
現前するものをすべてそのまま現実として受け入れる。それが「あるがまま看よ」ということであります。それは別に科学を否定せよということではありません。生きていくためには科学的なものの見方考え方は必要であります。ただ、ものごとの解釈にとらわれ過ぎて現実の世界を見誤ってはならないということなのです。禅の書物には、坊さんがやたら「喝!」と怒鳴ったり、棒でたたいたりと結構乱暴なシーンがでてきますが、これは意表を突く大声や痛みによって、相手に今生きている世界を実感させるという意味があります。私たちは感覚の世界の中に生きていることを実感するということが、地に足を着けて生きるということなのでしょう。
(大雄山最乗寺)