禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

私達は絶えず何かを信じている

2020-12-22 11:41:20 | 哲学
 私たちは常に何かを信じて生きている、それも確実な根拠もないままに。それは間違いのないことである。幼い頃は両親の言うことを信じていたはずだ。学齢期になれば先生の言うことを信じていたはずだ。もちろん皆が皆そういう訳ではなかっただろう、中にはでたらめな親もいればトンデモな教師もいる、しかし信ずべき人が信じられない子供は息苦しい時代を生きなければならない。大抵の人は人それぞれにある種の権威をよりどころとして信用するのである。
 どんな民族にも科学が未発達な時代にはシャーマンがいた。子供が病気になればシャーマンに見てもらう。日照りの時はシャーマンに雨乞いの祈りをささげてもらう。そうすれば、実際に子供の病気は治るし雨も降るのである。現代の人は、子どもの病気が治ったのはプラシーボ効果だと言い、晴れが続けばいつかは雨が降るなどと言うが、昔は本当に呪術の力というものは存在したのである。信じたとおりのことが起こればそれは真実と言うしかない。強大な自然の中でちっぽけな人間が力強く生きていくためには、そういう信念が必要だったに違いない。そういう意味で、シャーマニズムは人間にとっては普遍的である。
 そうはいっても、何でもかんでも信じて良いというものではない。現代において、シャーマンを名乗るような人は大抵は詐欺師の類と考えた方が良いと思う。ウィリアム・ジェイムスは「人は確実な根拠なしに信念を持つ権利がある」と言うが、それはその人にとって重要で切迫した問題において有用な選択に資するものでなくてはならない。古代においてシャーマニズムは人間が自信をもって力強く生きていくために無くてはならなかったものであったが、現代ではそれは科学にとってかわられたからである。シャーマニズムは子供の病気を治した(こともある)、雨を降らせた(こともある)というような実績の上に信じられたわけだが、科学はより緻密で広範な信憑構造の上に成り立っている。現代人は科学を信用すべきだろう。
 では、科学は確実な根拠を持っているのだろうか? 哲学的にはなかなかそうも言えないのである。18世紀のイギリスの哲学者ディヴィド・ヒュームが「人間本性論」という論文の中で、「確実な知に人間本性が達することが原理的に保証されていない 。」というショッキングなことを表明した。つまり、人間は絶対的な真の知識に到達できないということである。これには当時の哲学者は皆衝撃を受けてしまった。カントもその一人で、「純粋理性批判」を著したきっかけはヒュームの「人間本性論」であることを表明している。しかし、カントを含め今までにこの「ヒュームの問題」を正面から乗り越えた哲学者はいないのである。
 たいていの人は科学は絶対正しいのではないかと思っているのではないだろうか。しかし、哲学者の言う「絶対」の条件はとても厳しい。科学は「自然斉一説」というものを前提としている。同じ環境で同じ条件を与えれば同じ現象が起こるというのが自然斉一説である。だから、ある法則について実験の再現性が確認できればその法則は正しいとされる。が、ヒュームはこの自然斉一説には論理的根拠がないというのである。例え1万回実験を繰り返し同じ結果を得られたとしても、1万と1回目に違う結果が出ないとどうして言えるのか? と言うのである。言われてみればその通りである。過去の実績をもとに未来を予測するという意味では、シャーマニズムも科学も同じ原理に基づいている。科学を信じるということは原理的にはシャーマニズムを信じるということと同じなのである。
 1万と1回目に違う結果がでる可能性はある。論理的にはその通りである。しかし、ここで1万回の実績のある法則を捨ててしまうのは明らかにばかげている。どのみち、私たちは「確実な」知に到達することは原理的に不可能なのである。ここでは、その法則を信じる権利がわれわれにあると考えるべきだろう。明らかにそれを信じることは、我々が力強く生きていくうえで有用だからである。


御宿海岸(記事とは関係ありません。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする