「無常と空の関係」という記事で、「空」は決して神秘的な概念ではないということを説明した。「無」も「空」と同様に決して神秘的なものではない。ともすれば、感覚的に「こんなものだろう」とアバウトな想像をされがちだが、そういうのは大体的外れだと思って間違いない。ただ、「無」を理解するためには突き詰めることが必要で、そこにはかなり高い障害があることは間違いない。 私は高校生の時ある禅寺に通っていて、そこの老師に「無とは何ですか?」と単刀直入に訊ねたことがある。(「無とはなにか?(その5)」) その時の老師の答えが、「究極の主体性」 ということだった。「究極の」が突き詰めるという意味である。夾雑物を取り除いたぎりぎりの私、それが「無」であるというのである。
私の知る限り、この仏教的「無」に最も肉薄した西洋哲学者はカントである。デカルトは、私が考える限りにおいて、「考える私」があるのは確実であると考えた。しかし、カントはそうは考えなかった。
「『私は考える』ということは、私が心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなくてはならない。」(中山元訳「純粋理性批判」B132 )
「像」というのはかつては「表象」と訳されていたものである。要するに、自分の意識でとらえたものすべてについて、「私は考える」ということが伴い得るというのである。「伴い得る」というのは、いつもいつも私が前面に出ているわけではないからである。われわれを忘れて友人と殴りあいの喧嘩をしていたということがあるかもしれない。しかし、喧嘩をしていたのは自分であるということは分かっていて、それを反省することができる。それが「『私は考える』ということが伴い得る」という意味である。なにが重要かと言うと、「私は考える」ということを軸に人格の同一性ということが保たれると言っているのである。ここまではデカルトと同じである。しかし、デカルトと違ってカントは、ここで「私はある」という結論を出さない。「私は考える」という、この「私」という日常語で了解しているはずのものの直観がどうしても得られないというのである。
ここまでは、カントも仏教も同じである。ただ、仏教はあるはずと思っていたものがないから、それを「無」と呼んだのに対して、カントは経験を可能とするその形式的な主体を超越論的統括としたのである。カントは究極的な主体が空疎なものであることを見抜きながら、あくまで主観が客観を認識するという形式を捨てなかった。それに対し、仏教は「我」という空疎なものにとらわれることを執着であるとしたのである。我執にとらわれることなく、あるがままの世界を受け入れ、自然(じねん)のままに生きる、それが仏教的倫理の源泉である。
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