禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

コロナと共生と言ったら言い過ぎかもしれないが‥

2020-04-14 05:06:23 | 政治・社会
 これほど感染力が強くてしかも気候条件などによる弱点がない、そんなウィルスがあるとは今でも信じられない。正直なところ、梅雨になればウィルスの勢いも治まる、という根拠のない希望的観測を頭から払しょくすることはできないでいる。しかし、現に熱帯の地方でも猛威を振るっている。新型ウィルスがそのような弱点のないものならば、私達は遅かれ早かれ感染する。理論的にそうなるはずなのだという諦観は必要である。今、人との接触を70~80%減と言われているのは、医療崩壊させないために、感染拡大のスピードをコントロール可能なレベルに落とさなければならないという話である。実際には80%減なんて不可能だから、現状維持が精一杯で同じレベルの自粛状態をこれから先もずっと強いられる公算がかなり大きい。だから、安倍さんや小池さんが最初に「この一二週間が瀬戸際」と言った時はとても大きな違和感を覚えた。

 日本人はとても几帳面な部分があるが、それが形式的に流れるとうまくいかない。新型コロナを水際で食い止めるということにこだわり過ぎた。PCR検査で陽性が検出されれば完全隔離しなければならないという方針をとる限り、現場では空きベッド数をにらみながら検査数をコントロールするしか仕方がなくなるのは目に見えていた。結局他国に比べて検査数が極端に少なすぎるという結果になり、みすみす感染者を野放しにしてしまった。不必要に感染者数を増やしてしまう結果になってしまった。それでもイタリアやアメリカのように悲惨な状況になっていないのは、元々清潔好きの国民性で手洗いやマスク着用が浸透していること、キスやハグのような身体的接触が少ないこと、もしかしたらBCG接種、というような好条件が幸いしたのだろう。インフルエンザの罹患率が昨シーズンに比べて激減していることからみても、手洗いとマスクの成果は着実に出ている。

 繰り返して言うが、ワクチンを接種しない限り、どれ程用心しようとも我々はほぼ確実に新型ウィルスに罹患する。理論的に考える限りそうなる。それが遅いか早いかだけの違いである。現段階ではできる限り感染速度を遅くして、医療崩壊を食い止めながら、なんとか日常生活を取り戻すという困難を乗り越えなくてはならない。容易なことではない、それなりの覚悟はしておかなければならない。難儀が続くと不平不満が吹き出し易い、ここにきてDVが増加しているとも聞く、流言飛語の類も増えてくるかもしれない。私たちの品格が問われる時でもある。

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