禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

残念な岡江久美子さんの死去

2020-04-23 17:17:33 | 政治・社会
 日本におけるコロナによる死者数が少ないことについて、軽症者の検査数を抑えて、重篤者に対して重点的に医療資源を振り向けているやり方が一定程度功を奏している、と考えてもよいかも知れない。しかし、岡江久美子さんの死去のニュースを聞いて、とても残念な気がする。症状が出てから三、四日経過を見てから判断するなどと悠長なことを言ってないで、患者の状態によってはもっと積極的にPCR検査をする、という姿勢があっても良かったのではないかと思う。現状で精一杯の現場を非難することはできないが、もっと早い段階に検査と医療を分離し、陽性者の症状による分別の体制を早く整備して他国並みの検査数をこなすべきではなかったかと思う。思考停止の政策決定者は非難されてしかるべきだと思う。
 もしかしたら、岡江さんは死ななくても良かったかもしれないのだ。高熱が出ていたのなら三、四日待つ必要などない、PCR検査するしないの判断は状態を最もよく知る主治医に任せるべきである。すぐ検査してアビガンを投与していればと思う。家族にとっては無念の思いを捨てきれまい。とても残念の一言ではすまされない。
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「世界」は仏教語

2020-04-23 16:41:27 | どうでもいいこと
 私達が日常で使っている言葉には仏教語が多いということは知っていたけれど、「世界」という言葉も仏教語だったということは全然知らなかった。もともと中国にもこの言葉は無かったらしく、インドから中国にもたらされた時につくられた翻訳語だったらしい。「世」が時間、「界」が空間の意味だという。言われてみれば、世は「世代」、「世紀」とか時間に関する熟語が多い。そして、「境界」、「電界」、「文学界」、‥、と、こちらの方は領域に関する熟語が多い。
 
 よく似た意味の言葉として「宇宙」があるが、こちらの方は「宇」が空間で、「宙」が時間だということらしい。どちらも、あらゆるものを含む概念であるが、少しニュアンスが違う。
 
「必ずしも人の存在を含まない『宇宙』に対して、『世界』は人をはじめとする生物の業によって生滅するものであり、人間を不可分の存在として含む。」 (「近世仏教論」p.329)
 
 天文学で扱うのは宇宙で、人文学で扱うのは世界ということになる。
 
 ところで、近世までの日本の庶民には「世界」はお経に出てくる文言程度の認識しかなかったのではないだろうか、時代劇で「世界」という言葉が出てくるのは江戸末期のものぐらいしか思い浮かばない。「世界」は出てこないが、代わりに「三国一の〇〇」というフレーズはよく出てくる。三国とは、インド、中国、日本のことである。昔の日本では、この三国が「世界」だったのだろう。
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