「真理はない」などと軽々しく言うべきではないと思う。もともとないものであるなら「ない」とさえ言えない。少なくとも、「ない」と言えるためにはその対象が明確に定義されていなければならない。たいてい真理の存在有無を論じているところでは、「真理とは何か?」という問題が並行して行われているのが常である。それがなんであるかわからないものの存在について論じることは、空港へ名前も姿形も知らない人を迎えに行くのと同じである、その議論に出口はない。
もともとないものをないということの奇妙さというものを、もう少しわかりやすく説明してみよう。私があなたにいきなり、「ギカリメンテロチは存在しない」と言ったとする。あなたの反応は多分、「???」だろう。「ギカリメンテロチ」をあなたは実際に経験したことがない。そしてそれがどのようなものであるかも聞かされたことがない。「ギカリメンテロチは存在しない」という言表はあなたにとって何の意味もないのである。同様に、「真理」が何を意味するかも分からないまま、「真理はない」と言うなら、そして本当にそれがないのなら、その言表は意味を持たない。
以上のことを踏まえると、ウィリアム・ジェイムズの次の言葉が実に意義深いもののように私は感じる。
≪ずっと信じてきたもの、実際にそれに基づいて生きてきたのだが、それを表現することばを見つけることが出来なかったもの≫
哲学というのは、それを表現する言葉を模索し続ける行為なのだろう。
六国見山から横浜市街を望む