禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教的倫理について

2017-02-23 10:18:55 | 哲学

仏教には究極的な意味において善悪というものはありません。一切皆空を旨とする仏教においては、善悪というのもその時々の恣意的な視点から見た仮象に過ぎないからです。親鸞聖人は次のように言います。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄第13条)

どんなにいい人でも場合によっては人を殺してしまうこともある。性悪な人間でも条件が整わなければ悪事を働くこともないし、時には善行をすることもある。善人悪人と言っても所詮相対的なものに過ぎない、人間はすべて不完全だからです。「人間が生身である限り完全であることはできない。」このことは親鸞が生涯抱き続けた絶望的な感慨であります。

究極的な善というものがなければ、善に対するロゴス的な規定もない、これがカント倫理との大きな違いでしょう。しかし、最も根本的なところでカントとは共通しています。それは純粋な精神の主体性というものを信じているということです。カントでは純粋実践理性と言い、仏教では無我と言います。

どちらも私心を排除するという意味においては全く同じなのですが、そこから出てくる倫理観は全然違います。その理由は仏教は心の働きを全体的にとらえるのに対し、カントは心の働きを理性・感性・知性(悟性)の三つに分けて考えるからです。カントは心の3つの働きの内の理性のみが、人間を他の動物とは違う至高の存在にしているとして、理性に基づく行為のみを道徳的であるとしているからです。

ある老婆が瀕死の状態に陥っていて、もってあと2、3日の命であるとします。その息子がその年のノーベル賞受賞者に選ばれたのですが、ストックホルムへの飛行の途中飛行機が墜落して彼は死んでしまいました。あなたはその老婆のベッドの傍らに居て、彼女に「息子のノーベル賞の授賞式での様子はどうだった?」と尋ねられます。ちょうどその日が授賞式の日だったのです。あなたは何と答えますか?

たぶんあなたは、「とても立派な授賞式だったよ。息子さんも堂々として立派でしたよ。」ぐらいなことを言ってあげるのではないでしょうか。しかし、カントはこんな時でさえ、うそをつくべきではないと言います。仏教的な観点からすれば、このような状況においては、むしろ積極的にうそをついてお婆さんを喜ばせてあげたい、というのが倫理にかなっていると考えるべきです。

仏教では、慈悲や思いやりといったものを倫理の源泉として重要視しますが、カント倫理ではそれらは感性的なものとして道徳的なものとはみなされません。それは感性的な欲求に従っているだけ、つまり自然法則に従っているだけのこととみなされるのです。カントによれば、自立した理性が自ら決定した道徳法則にしたがうことだけが道徳的であるとされるのです。

母親が子を慈しむ、それはライオンの母子にも同じことが言えるわけで、確かにカントの言うようにそれは「自然法則」に従っているだけのことと云えます。しかし、仏教においては、この「自然(じねん)」に到達することこそが目標なのであります。したがって、仏教者の視点から見れば、ライオンの母が子をかわいがる姿も道徳的であり美しいことである、ということになります。

再び親鸞の言葉を引用します。

≪弥陀仏は自然のやうをしらせむれう(料)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること。)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。≫ (自然法爾章より)

はからいを捨て、すべてを弥陀仏に託したとき自然(じねん)は現れる。それが絶対他力ということでありましょう。その時、私心は打ち捨てられ、他者への共感のみが残る。そういうことではないかと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする