恐山の住職代理である南直哉さんは曹洞宗のお坊さんで、哲学にも造詣が深く多くの著書を著している。私も彼の一ファンとして彼のブログである「恐山あれこれ日記」を愛読している。彼の哲学は私のような我流ではなく、私も教えられることが多いのですが、たまに披露する独自の公案解釈については違和感を感じることもある。
「イタイ話」(<=クリック)という記事の中で、碧巌録第53則「百丈野鴨子」(<=クリック)の公案を中論の「去る者は去らず」の理論とを結び付けているのだが、これにはかなり無理がある。そもそも中論は哲学者同士の論争の書なのだから、不立文字を旨とする禅にはなじまないような気がするのである。当該記事の中の気になる部分をピックアップしてみよう。
≪ 「去るものは去らない」という、ほとんど詭弁のごとき言い方の要点は、たとえば、「彼は歩く」と言葉で表現される事象に関する我々の了解の、原理的な不備を突くことにあります。 ≫
私が思うに、「彼は歩く」と言葉で表現される事象に関する我々の了解には、原理的な不備はない。龍樹もそんなことはみじんも言っていない。龍樹は「去るものは去らない」というような神秘的な表現を肯定しているわけでは決してない。前回記事でも述べたが、説一切有部のように、去る主体と「去る」ということの範型がそれぞれ実在のものであるとするならば、「去るものは去らない」といった矛盾を招来すると言っているだけである。あくまで「去るものが去る」ということは龍樹も認めているのである。
≪ すなわち、この理屈は、言語によって概念化することで成り立つ我々の認識は、縁起する事象そのものを、原理的・不可避的に誤解すると主張しているのです。
野鴨をめぐる師匠と弟子の問答は、まさにそれです。弟子の言う「野鴨」は、その時まさに「飛んでいる」ことにおいて実存しています。そして二人が見ている「飛んでいった」と了解された運動は、当の「野鴨」の実存の仕方なのです。飛ばない「野鴨」と、それ自体として存在する「飛ぶ」運動がなんとなく結合して、「野鴨が飛ぶ」わけではありません。 ≫
ほとんどの人々は通常は「恁麼」の世界に住んでいて、『縁起する事象そのものを、原理的・不可避的に誤解』したりしてはいない。人々は、「飛ばない『野鴨』と、それ自体として存在する『飛ぶ』運動がなんとなく結合して、『野鴨が飛ぶ』」と考えたりしていない。言語によって日常を過剰に反省する哲学者の方が誤解しているだけだ。言葉は日常的に使われているように使うべきである。
禅僧は哲学者同士の論争に一般の人々を導くようなことを述べてはならないと思う。当該記事に寄せられた一般の方々のコメントを読むと、(私の見るところ、)ほとんどの人が南さんの言ってることを理解できていないというかはっきりと誤解しているように見受けられる。
私は実は、禅仏教の部外者であり、また趣味としての哲学を勉強しているに過ぎないものであります。もし専門家の方がこの記事を読んで不都合な点があれば、ビシビシご指摘していただきたいと思います。
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