クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

梅雨時は道しるべ探訪 H-20-6-10

2008-06-11 13:14:50 | 双神道祖神・磨崖仏・道しるべ
今年の梅雨時は「道しるべ」の探訪をする事にした。切っ掛けは萩原進著の
「道しるべ」との出会い。だが、この本は40年以上前のもの、附地図も無く
表現も「辻」とか「分され」、字名なので当時とは道路事情が全く変わっている
現在の生活地図との照合が難しい個所も多い。
取敢えず第一回目は中山道・信州街道(途中まで草津街道と同じ)関連の
道しるべが多い高崎旧市内西部地区。
(1)下豊岡・中山道と信州道の分岐


君が代橋を渡って右折し豊岡に入ると自動車教習所先に二又がある。
右は旧道、左は戦時中には既に存在した当時のバイパス自動車道。
かってここに高さ1.8mの頂部角錐の30㌢角の江戸時代の道しるべが
あり、正面に草津を含む吾妻温泉郷、右側面に草津街道の宿場、左側面に
中山道の宿場が彫られていたというが、今は見当らない。但し、ここは
昭和時代の新旧分岐であり昔の街道の分岐ではないから良かったかも。
が、あの大きな石柱は今何処に?
ここから100㍍程先に再び二又、ここが本当の街道の分岐て゛道しるべ。
丸いずんぐり型の自然石に「右」との上書き、「はるなみち」「くさつみち」。
本道は直進の旧山道で右が信州街道(草津街道)の起点。


この信州街道は神山(現里見)・室田・三の倉・大戸を通り須賀尾で万騎峠を
越える信州街道と須賀尾峠を行く草津道と別れる。須賀尾の里にその分岐
道標がある。「右くさつみち」「左しん州道」(H16撮影)


草津街道は八代吉宗が草津の湯を江戸に運ぶために開いたとの伝承があるが
古来からの温泉への湯治客の通り道だったのだろう。

(2)上豊岡・藤川の道しるべ


旧中山道を西進し常安寺西を抜けて豊岡中学東門前。ここから東への道筋を
探すが住宅街に変貌していてウロウロ。約100㍍の角に道祖神。


その反対側に横倒しになって転がされている 自然石の道しるべ発見。酷い扱い。


「右」という上書きの下に「室田・はるな・神山」と三行。神山とは里見地域に相当。
この左側面にも後年に刻まれた「野道・中山道・下台」の文字がある筈であるが
重くて引き起こしが出来ずに断念。


(3)金井淵の二つの道しるべ


さて、ここから北に回り環状線を突っ切って406号線、最初の信号「剣崎町」を
右折して道なりで住宅地の中に道祖神、ここが昔の金井淵集落の入り口。


少し行くと右側に「金淵寺」の山門、今は無住で形だけのものが公民館脇。


その隣が「諏訪神社」、


社殿も無く奥の広場に石宮が三つだけ。明治初年の廃仏で迫害され八幡神社に
吸収されたり疫病が流行ると元に戻されたりで流転の末の今の姿。


更に進んで金井淵信号から町屋に抜ける道を突っ切って市営住宅地域に進む。
入組んだ団地の中を捜すと三叉路に新旧二つの道しるべ発見。
左は「右町屋へ通ス」「左下大島ヘ通ス」とあり比較的新しいもの。


右側の右側面「右しらいわ みつさわ」


右側の左側面「左むろた くさつ」 何れも変体仮名らしく読みにくい。


(4)町屋のみちしるべ


西進して「町屋町」信号で10号線に合流、町屋橋に向かって大きく右折する
角に道しるべ発見。三叉路でガードレールの陰になり見逃し勝ちの場所。


「右板ハナ町」と彫字で裏に寛政十二年(1800年)。


この角を西へ50m程で細い道で十字路、ここが金井淵から来た草津道で
四つ角に古い常夜燈もある。


常夜燈の右脇に小さな道祖神、この台石の正面に「左いたはな」とある筈だが
台石も埋まっていて確認不能。


(5)沖町の念仏道しるべ


町屋橋を渡って二つ続く信号のうち二番目の「沖町」信号左に北西に行く
細道がある。長野堰を渡ると右側に「正観世音菩薩」をまつった観音堂。


この広場に2㍍を越す大石、


真中に南無阿弥陀仏とあるのは読めるが
その両脇にあるとされている「右みずさハミち 左しわいわみち」の刻字は
全く判読不能。


(6)我峰の道祖神道しるべ


10号線に戻って東に向かって「我峰信号」、その先僅かで烏川寄りの細道へ。
間も無く我峰の鎮守・八幡宮、ここに駐車。我峰の名は吾が森―吾が森―
我峰と変遷したらしい。この八幡の森の別名は「シャケの森」、昔烏川を遡上する
鮭はこの近辺の淵で行き止まったと伝わる。
細道をくねくねと進むと観音堂、入り口に数基の石仏と供養搭。
更に道なりに堤防近くに向うと土手の裾に道祖神発見。


明和5年(1756年)の銘で「左むろた しらいわ」


(7)下小塙のみちしるべ
県道に戻って東進、環状線を突っ切って経大前から上小塙方面に左折。
北部小学校南の北野神社付近で道しるべ探し。
道路整備の時、かき集められた道祖神は並んでコンクリートの台に纏められて
いるが肝心の道しるべは公民館の石垣に組み込まれて哀れな姿。
これだから群馬は文化意識が低いと侮蔑されるのだろう。


(7)並榎の道しるべ道陸神


市街地に近く県道から両水に向かう道に入り、長野堰と信越線がぶつかる所に
道陸神、明和八年(1771年)の銘。道陸神は基本的には道祖神と同じ神。
中央下部に「左志らいわ はるな」と刻まれている筈だが判読不能。


その脇に欠けた石柱、「道」という文字が残っているからこれも道標だった?


(8)板鼻・陸橋下で道しるべ


時間も早いので18号線で安中、岩井信号で10号線ヘ右折。板鼻信号で
171号線に突き当り右折、左側の称名寺に駐車。ここの鐘楼が文化財に成って
いるので見学に。撞座の模様組み合わせや文様下帯が見物なのに鐘楼へは
登れない。理由は階段のある内部が何かの部品倉庫になっていて満杯だから。
何とも安中の文化程度が低くて呆れかえる。


がっかりして県道を板鼻陸橋下に向かう。ここは実に複雑に道路が入組んでいたが
その路傍に複数の石仏発見。


双神道祖神は保存が良くホッとする。


一番左の自然石が道しるべ。中央に南無阿弥陀仏、中みずさわ
その横に「宝永五子天 右 やわたみち」「左はるなみち」


此の辺にはあとニ体ある筈なので探したが見つからなかった。大幅に整備された
ガード周辺では整理されたか?移設されたのだろう
本日はこれで終了。天気予報が急に好転したのでゴルフ練習場へ。
第二回は三国街道関連とする予定だが何時になるかは判らない。





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3 コメント

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金井渕の道しるべ (こば)
2008-06-13 09:17:20
小生は金井渕市営住宅に住んでいますが、八幡小学生時代(まだ西部小はなかった)遠い学校道の寄り道の一つに、あの石がありました。当時はそんな由緒ある物とは知らず、蹴っとばしたり、上に立ってみたり、はたまた小学生にはちょうどよい高さなので、立○便の目標になりそうだったり、今思うと、かなりバチ当たりだったと反省しております。
あの石は何百年も前から、またこれからも何百年もこの辺の住民を見守るんだなぁと思います。
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道しるべ (爺イ)
2008-06-13 16:43:01
こばさん
お久しぶりです。実は金井淵にはもう一つ高さ90㌢、
巾30自然石に「右くさつ 左やわた いたはな」と刻まれたものが在る筈ですが、昔の記録には「金井淵十字路」とあるだけなので見付りませんでした。
もし、ご近所さんで知っている人がいたら教えて下さい。
返信する
古地図 (egiko-ike)
2008-06-13 20:28:07
爺先輩、こんばんは。

手許に明治18年発行の陸軍省地形測量図というのがあります。 2万分の1の地図です。 我が家(高崎江木町)の横の道が江戸時代から続く道と聞いて、この古地図を見つけて調べました。確かに高砂町の5本辻から長野堰を渡って高崎工業高の南を通っている道は100年前に存在していました。

ついでなので旧市内を含む周辺の古地図6枚を持っています。
豊岡を通る旧中仙道や室田街道の当時の様子がよく解ります。
ご関心があるようであれば、カラーコピーしたものをお渡ししますのでご一報ください。

連絡先 090-3242-0414
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