明日の春分の日は東京からのお客や地元の親戚筋たちと墓参り・会食などをする日なのでその前に
甘楽方面のハイキングをやろうとR-18に乗り出す。だが、走行中に周辺の眺めの異状に気付く。
予報では数日間は晴天の筈だったが近くの低山までもが濃い霧に包まれて見えないのだ。早くも
気乗り薄の気分のまま、r-10の下黒岩を経て甘楽町に向かう。
街中の桜並木は未だ芽生えも僅かだが来月5日の桜祭りまでには何とかなるかも知れない。
宝積寺前から林道に入って2.4k、何時もの菊が池分岐の道標前に駐車。今日のルートは
二年ほど前のaninecoさんを真似して天狗山・小柏峠・熊倉山・お菊の祠の積り。--いや
正確には「筈だった」が相変わらず霧が濃くて何となく歩く前から意欲喪失気味(9.50)。
好天の日以外にはハイクをしない習慣の爺イにはこんな霧は苦手だ。
ダンプの道になっている林道を暫く登ると右側にすっかり山容まで変えた廃土の処理場所、その脇の
道標下に南に向かう作業道があったので今日はこの道の探検だとばかりに入り込む。
この道を南進してから左(東)の山塊を乗り越せば小柏・無名峠道に達すると確信していた。
作業道は林間に開かれて歩き易かったが結果的にはこのルート採りが失敗の元。
次第に幅は狭くなり獣道程度に変わったので斜め上部に登っていく。方向は南。
やっと着いた尾根に来てびっくり、見渡す限り伐採されていて完全な幅広のハゲ尾根。縦横に作業道が
造られているがキャタピラ車がこね回した様な泥濘でどうにもならないし、周辺は霧で
50m先も見えない。それでも乗り越してウロウロと峠道を探したが見つからずに諦めて出直し。
兎に角、伐採跡の幅広尾根を北に進み細道を辿って元の林道に滑り降り。位置はさっきの入り口から
僅かに北寄り(10.53)。
改めて林道を北に登っていく。
そして天狗と峠道の分岐に達して峠道に入っていく。ここからハイクのやり直しだ。
だが、100mも行かないうちに立ち往生、膨大な枝おろし材の残骸が峠道を埋め尽くしていて
とても歩ける気配ではなかった。ここで完全に今日のハイクは断念してあっさりと甘楽町の見物に
切り替えて天狗分岐に戻ることにした(11.03)。
左下にも伐採材搬出用と思われる新しい林道が見える。もう天狗山塊は白倉神社経由以外は
登山用にはならないな。
分岐から天狗山はずっと左に見える。正面に小突起があるのそれを乗り越して行く事にした。
踏み跡も無い植林地の斜面を適当にジグザク登りで右の鞍部へ。
稜線に達して北に向かって小突起を乗り越える。
頂点から天狗を見て唖然。天狗山は脇の雑木林を残して完全な禿山と化していた。勿論この突起にも
右の僅かな雑木を除くと植林の樹木は残っていない。
鞍部に下りて近くで見ると何とも情けない姿。
白倉神社への乗り越えには道標があり、かっては林間の風情あった西への下山路はハゲ地の中に
延びていた。
降りてきた突起の振り返り。
山頂には666mの道標。現在の表示板はこの一基のみだが
かってはこんなのが山頂を賑わしていた。これは初期に大木に釘打ちされていて
何かと批判されていたもの。
数年後には文字が擦れてきて
今では釘穴跡が残るのみ
今は見当たらないかっての標識。
少し、北に下がって図根点
その先に三角点。四等で点名は「白倉」666.98m。
本日の爺イ。もう正午に近いので軽食と休憩。
一呼吸置いて旧神社への急坂を下る。この坂の凍結時には軽アイゼンでもないと滑って
登りに苦労する。
入り口に全く傷みの無い道標(12.28)。
旧本殿は未ださして傷んではいない。
中を覗くとこんな具合に中扉があるので仔細は不明。
本殿裏には連れて新社殿に連れて行ってもらえずに残されたのか?石宮が一基。
神楽殿の前を過ぎて
朱塗りの二の鳥居を潜って振り返り
両脇に天狗像とカラス天狗の石像。
脇に古い石柱、「二里二十八丁」の文字だけしか見えないが多分「道しるべ」だろう。
再び稜線に戻って作業道で下山開始。
途中の脇道は整備完備で伐採材の集積場所。
ブラブラ歩きで駐車場所着は13.05、直ぐに宝積寺に向かう。
寺の入り口で目立つのは1768年建立と伝わる「みがわり地蔵」、名前の由来説明板
よると子宝安産や病気平癒の地蔵として信仰されて来たとか。
背中に大きな切込みがある。説明によると病に苦しむ人が地蔵を削りそれを飲んで
快癒を願ったと伝わるのが「身代わり」と云われる由縁。
本堂とその前に菊女観世音菩薩の巨大像。
小幡家菩提寺でもあるこの宝積寺はお菊伝説との関連は深い寺なのだ。
何回もこのブログに載せているお菊伝説を再び再現すれば
「小幡上総介信貞殿、菊という女を召し使ひ給ひけるが、或る時、この女
信貞殿への御膳を据ゑけるに何とかしたるけん、御食椀の内へ針を
取り落としけるを知らずして御膳を据ゑければ菊が運命の尽くる時か。
信貞殿(おのれ我に針を呑ませ殺害せんとしたる曲者なり。言語道断
の奴、身を寸々に切り裂きても飽きたらぬ)と下部共に申付けられ
蛇を数多く取り集め大なる桶に菊を裸にして押しこめ、蓋の穴から
蛇を入れ塞ぐ。
蛇共中にて上になり下になり?合ひ潜合ひ夫より菊が身の内に喰い入る。
其の桶を宝積寺山の奥なる池に沈めける。懸かる所へ小柏源六という
侍、猪狩りに立出て其処を通りけるが、女の泣き叫ぶ声聞えければ池の邊に
立ち寄りて見てあれば桶一つ浮かび女の首計り出してあり。源六不便に
思い弓の弭にて掻き寄せ桶の蓋を打ち破れば蛇共夥しく出でにけり。
女喜びて誰様にておわしますと問いければ小柏源六なりと答う。
女申すよう、このご恩には今より後、御家の中へ蛇参りても怨を致させ
申すまじ、御心安かれと云う声と共に死にけり」
実際には信貞か北条方に付いて、秀吉の小田原攻めに備えて小田原城に
詰めている時、城主留守の国峰城で説話に似たような事件が起きていたらしい。
説話に出てくる小柏源六は長篠の戦いで奮戦の末に戦死した実在の人物だが
長篠は1575年、小田原は1590年だから?だな。
少し進むと「天狗の腹切り石」。伝説によると
小幡氏の内紛により起こった宝積寺合戦の時と言うから同族の景澄に国峰城を追われていた
信貞が武田の支援の下に城を奪還した争いの事であろう。城から落ち延びてきた武士たちと
寺の僧たち約90人は、その何倍という敵兵 (武田軍)と戦った。その中に巌空坊覚禅
という巨体の僧が薙刀や丸太を振り回し、多くの敵兵をなぎ倒し応戦する。しかし敵兵に
裏から火矢を放たれ、諸堂は焼失し、巌空坊も力尽き本堂裏の大石に登り、その石の上で
切腹して果てましたと伝わるもの。
墓地の最奥にお菊母娘の墓。多分、供養塔の類なんだろうが悲しい伝説に細かい詮索は無用。
小幡氏歴代の墓。但し、解説板によると塔身部の欠損や風化が甚だしく13代顕高以外は
確認不能とある。顕高とは信貞の祖父。小幡は武田に属していたが武田が織田に滅ぼされてから
後北条に従う。しかし、1590年の小田原攻めで北条が滅びると国峰城は廃城、小幡氏は
旧知の真田昌幸を頼って信州に身を寄せ、信貞もその地で蟄居の後に1592年に没している。
宝積寺を辞して今度は織田七代の墓のある崇福寺を訪問(13.41)。
小幡氏が滅んだこの地は関が原合戦翌年の1601年からの1年間は、奥平信昌の四男で徳川家康の養子となった
松平忠明が領主。
1602年から1615年までの13年間は、水野忠清が小幡1万石。
この間の1610年から1615年までの5年間は、箕輪城12万石の領主井伊直政の二男直孝が、福島に陣屋を
築き甘楽郡東部の地1万石を支配。
更に1616年には永井直勝が小幡1万石を加賜されているので小幡の地は、この25年間で5度領主が
入れ替わっている事になる。
1615年7月、織田信長の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられ、翌1616年に信雄の
子の信良が福島の御殿に入り、織田氏による小幡支配が開始されたのである。
これからすると信雄は小幡の地には来ていない?
だが、第8代信邦治世の明和3年(1766)に藩政立て直しをめぐって重臣間で内紛が勃発して
幕府の表沙汰となり、その上に幕政を批判した山県大弐など小幡藩と係りがあった多数の者が処罰された
明和事件が起こった。1767年に信邦は蟄居となり、信邦の弟信浮は養子として認められ、
出羽高畠2万石を与えられ移封となった。こうして織田氏は8代152年にわたる小幡藩
統治は終焉した。
二代信良は領内の織田家の菩提寺を宝積寺と定めたのに、四代信久は崇福寺を再興して菩提寺をこの寺に変更している。
宝積寺の住職交代の儀式に際しての織田家の席次に不満を持ったのが原因らしい。
石像・聖観音坐像が出迎え。
三体の内、中央が町指定文化財。左手に未開放蓮華を持ち右手の掌を胸前で蓮華に向け
衆生が本来持っている菩提心を開かせようとしているのだそうだ。
位牌堂には二代と七代が抜けているが四代の実父・高長のものが含まれているという。
畑地を進むと広域の墓地群が遠望できる。
初代・信雄(ノブカツ) 1558-1630
1615年7月、織田信長の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられた。
これで織田と小幡の繋がりが始まった。墓石は一際大きい。
二代・信良 織田信雄の四男 1584-1626
三代・信昌 信良二男 福島陣屋から小幡に移転。1625-1650
四代・信久 高長(大和宇陀松山藩主)四男で養子 1643-1714
五代・信就(ノブナリ) 信久二男 1661-1731
六代・信右(ノブスケ) 信就四男 1713-1762
七代・信富(ノブヨシ) 信就七男・信右養子 1723-1764
八代・信邦は出羽・高畠藩移風のため墓石は無い。1745-1783
織田家移封の後、明和4年(1767)9月に小幡2万石に封ぜられたのは、奥平家とも
縁続きの親藩で、陸奥・上野・伊豆の約2万5千石を領し、若年寄を勤めていた
松平忠恒である。
3代忠恵は、50年にわたり藩主や幕府の奏者番・若年寄の要職を勤めた功績により嘉永3年
(1850)に「城主格」を拝命し、以後小幡陣屋は「小幡城」と呼ばれた。
4代忠恕は、小幡藩最後の藩主。明治2年(1869)版籍奉還するまで続いた。
ーーーと言うわけで甘楽町観光は終了(14.02)、このリベンジは後日に回す。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
甘楽方面のハイキングをやろうとR-18に乗り出す。だが、走行中に周辺の眺めの異状に気付く。
予報では数日間は晴天の筈だったが近くの低山までもが濃い霧に包まれて見えないのだ。早くも
気乗り薄の気分のまま、r-10の下黒岩を経て甘楽町に向かう。
街中の桜並木は未だ芽生えも僅かだが来月5日の桜祭りまでには何とかなるかも知れない。
宝積寺前から林道に入って2.4k、何時もの菊が池分岐の道標前に駐車。今日のルートは
二年ほど前のaninecoさんを真似して天狗山・小柏峠・熊倉山・お菊の祠の積り。--いや
正確には「筈だった」が相変わらず霧が濃くて何となく歩く前から意欲喪失気味(9.50)。
好天の日以外にはハイクをしない習慣の爺イにはこんな霧は苦手だ。
ダンプの道になっている林道を暫く登ると右側にすっかり山容まで変えた廃土の処理場所、その脇の
道標下に南に向かう作業道があったので今日はこの道の探検だとばかりに入り込む。
この道を南進してから左(東)の山塊を乗り越せば小柏・無名峠道に達すると確信していた。
作業道は林間に開かれて歩き易かったが結果的にはこのルート採りが失敗の元。
次第に幅は狭くなり獣道程度に変わったので斜め上部に登っていく。方向は南。
やっと着いた尾根に来てびっくり、見渡す限り伐採されていて完全な幅広のハゲ尾根。縦横に作業道が
造られているがキャタピラ車がこね回した様な泥濘でどうにもならないし、周辺は霧で
50m先も見えない。それでも乗り越してウロウロと峠道を探したが見つからずに諦めて出直し。
兎に角、伐採跡の幅広尾根を北に進み細道を辿って元の林道に滑り降り。位置はさっきの入り口から
僅かに北寄り(10.53)。
改めて林道を北に登っていく。
そして天狗と峠道の分岐に達して峠道に入っていく。ここからハイクのやり直しだ。
だが、100mも行かないうちに立ち往生、膨大な枝おろし材の残骸が峠道を埋め尽くしていて
とても歩ける気配ではなかった。ここで完全に今日のハイクは断念してあっさりと甘楽町の見物に
切り替えて天狗分岐に戻ることにした(11.03)。
左下にも伐採材搬出用と思われる新しい林道が見える。もう天狗山塊は白倉神社経由以外は
登山用にはならないな。
分岐から天狗山はずっと左に見える。正面に小突起があるのそれを乗り越して行く事にした。
踏み跡も無い植林地の斜面を適当にジグザク登りで右の鞍部へ。
稜線に達して北に向かって小突起を乗り越える。
頂点から天狗を見て唖然。天狗山は脇の雑木林を残して完全な禿山と化していた。勿論この突起にも
右の僅かな雑木を除くと植林の樹木は残っていない。
鞍部に下りて近くで見ると何とも情けない姿。
白倉神社への乗り越えには道標があり、かっては林間の風情あった西への下山路はハゲ地の中に
延びていた。
降りてきた突起の振り返り。
山頂には666mの道標。現在の表示板はこの一基のみだが
かってはこんなのが山頂を賑わしていた。これは初期に大木に釘打ちされていて
何かと批判されていたもの。
数年後には文字が擦れてきて
今では釘穴跡が残るのみ
今は見当たらないかっての標識。
少し、北に下がって図根点
その先に三角点。四等で点名は「白倉」666.98m。
本日の爺イ。もう正午に近いので軽食と休憩。
一呼吸置いて旧神社への急坂を下る。この坂の凍結時には軽アイゼンでもないと滑って
登りに苦労する。
入り口に全く傷みの無い道標(12.28)。
旧本殿は未ださして傷んではいない。
中を覗くとこんな具合に中扉があるので仔細は不明。
本殿裏には連れて新社殿に連れて行ってもらえずに残されたのか?石宮が一基。
神楽殿の前を過ぎて
朱塗りの二の鳥居を潜って振り返り
両脇に天狗像とカラス天狗の石像。
脇に古い石柱、「二里二十八丁」の文字だけしか見えないが多分「道しるべ」だろう。
再び稜線に戻って作業道で下山開始。
途中の脇道は整備完備で伐採材の集積場所。
ブラブラ歩きで駐車場所着は13.05、直ぐに宝積寺に向かう。
寺の入り口で目立つのは1768年建立と伝わる「みがわり地蔵」、名前の由来説明板
よると子宝安産や病気平癒の地蔵として信仰されて来たとか。
背中に大きな切込みがある。説明によると病に苦しむ人が地蔵を削りそれを飲んで
快癒を願ったと伝わるのが「身代わり」と云われる由縁。
本堂とその前に菊女観世音菩薩の巨大像。
小幡家菩提寺でもあるこの宝積寺はお菊伝説との関連は深い寺なのだ。
何回もこのブログに載せているお菊伝説を再び再現すれば
「小幡上総介信貞殿、菊という女を召し使ひ給ひけるが、或る時、この女
信貞殿への御膳を据ゑけるに何とかしたるけん、御食椀の内へ針を
取り落としけるを知らずして御膳を据ゑければ菊が運命の尽くる時か。
信貞殿(おのれ我に針を呑ませ殺害せんとしたる曲者なり。言語道断
の奴、身を寸々に切り裂きても飽きたらぬ)と下部共に申付けられ
蛇を数多く取り集め大なる桶に菊を裸にして押しこめ、蓋の穴から
蛇を入れ塞ぐ。
蛇共中にて上になり下になり?合ひ潜合ひ夫より菊が身の内に喰い入る。
其の桶を宝積寺山の奥なる池に沈めける。懸かる所へ小柏源六という
侍、猪狩りに立出て其処を通りけるが、女の泣き叫ぶ声聞えければ池の邊に
立ち寄りて見てあれば桶一つ浮かび女の首計り出してあり。源六不便に
思い弓の弭にて掻き寄せ桶の蓋を打ち破れば蛇共夥しく出でにけり。
女喜びて誰様にておわしますと問いければ小柏源六なりと答う。
女申すよう、このご恩には今より後、御家の中へ蛇参りても怨を致させ
申すまじ、御心安かれと云う声と共に死にけり」
実際には信貞か北条方に付いて、秀吉の小田原攻めに備えて小田原城に
詰めている時、城主留守の国峰城で説話に似たような事件が起きていたらしい。
説話に出てくる小柏源六は長篠の戦いで奮戦の末に戦死した実在の人物だが
長篠は1575年、小田原は1590年だから?だな。
少し進むと「天狗の腹切り石」。伝説によると
小幡氏の内紛により起こった宝積寺合戦の時と言うから同族の景澄に国峰城を追われていた
信貞が武田の支援の下に城を奪還した争いの事であろう。城から落ち延びてきた武士たちと
寺の僧たち約90人は、その何倍という敵兵 (武田軍)と戦った。その中に巌空坊覚禅
という巨体の僧が薙刀や丸太を振り回し、多くの敵兵をなぎ倒し応戦する。しかし敵兵に
裏から火矢を放たれ、諸堂は焼失し、巌空坊も力尽き本堂裏の大石に登り、その石の上で
切腹して果てましたと伝わるもの。
墓地の最奥にお菊母娘の墓。多分、供養塔の類なんだろうが悲しい伝説に細かい詮索は無用。
小幡氏歴代の墓。但し、解説板によると塔身部の欠損や風化が甚だしく13代顕高以外は
確認不能とある。顕高とは信貞の祖父。小幡は武田に属していたが武田が織田に滅ぼされてから
後北条に従う。しかし、1590年の小田原攻めで北条が滅びると国峰城は廃城、小幡氏は
旧知の真田昌幸を頼って信州に身を寄せ、信貞もその地で蟄居の後に1592年に没している。
宝積寺を辞して今度は織田七代の墓のある崇福寺を訪問(13.41)。
小幡氏が滅んだこの地は関が原合戦翌年の1601年からの1年間は、奥平信昌の四男で徳川家康の養子となった
松平忠明が領主。
1602年から1615年までの13年間は、水野忠清が小幡1万石。
この間の1610年から1615年までの5年間は、箕輪城12万石の領主井伊直政の二男直孝が、福島に陣屋を
築き甘楽郡東部の地1万石を支配。
更に1616年には永井直勝が小幡1万石を加賜されているので小幡の地は、この25年間で5度領主が
入れ替わっている事になる。
1615年7月、織田信長の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられ、翌1616年に信雄の
子の信良が福島の御殿に入り、織田氏による小幡支配が開始されたのである。
これからすると信雄は小幡の地には来ていない?
だが、第8代信邦治世の明和3年(1766)に藩政立て直しをめぐって重臣間で内紛が勃発して
幕府の表沙汰となり、その上に幕政を批判した山県大弐など小幡藩と係りがあった多数の者が処罰された
明和事件が起こった。1767年に信邦は蟄居となり、信邦の弟信浮は養子として認められ、
出羽高畠2万石を与えられ移封となった。こうして織田氏は8代152年にわたる小幡藩
統治は終焉した。
二代信良は領内の織田家の菩提寺を宝積寺と定めたのに、四代信久は崇福寺を再興して菩提寺をこの寺に変更している。
宝積寺の住職交代の儀式に際しての織田家の席次に不満を持ったのが原因らしい。
石像・聖観音坐像が出迎え。
三体の内、中央が町指定文化財。左手に未開放蓮華を持ち右手の掌を胸前で蓮華に向け
衆生が本来持っている菩提心を開かせようとしているのだそうだ。
位牌堂には二代と七代が抜けているが四代の実父・高長のものが含まれているという。
畑地を進むと広域の墓地群が遠望できる。
初代・信雄(ノブカツ) 1558-1630
1615年7月、織田信長の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられた。
これで織田と小幡の繋がりが始まった。墓石は一際大きい。
二代・信良 織田信雄の四男 1584-1626
三代・信昌 信良二男 福島陣屋から小幡に移転。1625-1650
四代・信久 高長(大和宇陀松山藩主)四男で養子 1643-1714
五代・信就(ノブナリ) 信久二男 1661-1731
六代・信右(ノブスケ) 信就四男 1713-1762
七代・信富(ノブヨシ) 信就七男・信右養子 1723-1764
八代・信邦は出羽・高畠藩移風のため墓石は無い。1745-1783
織田家移封の後、明和4年(1767)9月に小幡2万石に封ぜられたのは、奥平家とも
縁続きの親藩で、陸奥・上野・伊豆の約2万5千石を領し、若年寄を勤めていた
松平忠恒である。
3代忠恵は、50年にわたり藩主や幕府の奏者番・若年寄の要職を勤めた功績により嘉永3年
(1850)に「城主格」を拝命し、以後小幡陣屋は「小幡城」と呼ばれた。
4代忠恕は、小幡藩最後の藩主。明治2年(1869)版籍奉還するまで続いた。
ーーーと言うわけで甘楽町観光は終了(14.02)、このリベンジは後日に回す。
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医光寺は堤が岡小の近くでしたね!
今年の桜は一気に来るとの噂ですので
近いうちに行って見ます。
子育て中でしたか?するとちぃさんは丁度
爺イの孫の世代です。
我が家でも50数年前には上の子の次が
三つ違いで双子でしたから4歳・1歳を
育てる大変さは想像出来ます。
頑張っている人にガンバッテと言うのも
変ですがヤッパリ「ガンバレ」。