
高崎の古代蓮が咲き始めたと聞いて早速探訪。場所は高崎市吉井町池の「いしぶみの里公園」。
ここは著名な多胡碑記念館のある公園、城南大橋を南進し中山峠を越えて
多胡橋で鏑川を渡った最初の信号で左折すると0.9kで大きな駐車場。
ここは吉井・池地区で付近は河川敷に完璧に整備された運動公園が広がっている。
道標に従って車道を跨ぐと目の前が公園の東の入り口。

僅かの距離でその池が現れるが予想に反して頗る小振りなのに吃驚と同時にやや落胆。

確かに蓮池だが花の様子は未だ少ないが、唯この蓮は只者ではなく
その名の「大賀蓮」が示すとおり由緒正しい?古代蓮なのだ。
1951年に大賀一郎博士のグループによって千葉県で発見された推定2千年前の
一粒の蓮の実はグループの努力の末、翌年に発芽・開花して「奇跡の花」と
言われたがやがて日本国内は元より海外にまで広められた。ここの蓮は
この古代蓮を1997年の多胡碑記念館完成を記念して園内に株分けしたものなのだ。
池の上部から流水、ドロ田のイメージがあったのだが極めて清潔感がある。

蓮の花の一生はまことに短くてたったの四日間、解説には次の様に説明されている。
「第一日目ーーー早朝、ゆっくりと1-2センチほど蕾を開く「とっくり型」と
成るが午前八時には閉じてしまう。
第二日目ーーー夜中の一時頃から開き始め九時ごろまでに「おわん型」となるが
昼頃には完全に閉じてしまう。
第三日目ーーー二日目と同じで開くが午前六時には「おわん型」になり
九時には最大に開いて「さら型」、午後には半閉。
第四日目ーーー咲き始めは同じだが朝の六時には完全開きの「さら型」になり
少し散り始め、午後には一片も残さずに散ってしまい「花托」のみとなる。
そこで時間帯を変えて二日間に亘って訪問した写真を成長に沿って並べてみた。
この後、折角だから多胡碑に移動、大きな記念館の横を通過して歩くと

多胡碑に関連した歌碑が三基。
「万代も いかでつきせじ 名にしあう ほまれぞのこる 多胡の碑」
藤原 寛一(1801-1882)

「深草の うちに埋もれし 名文の 世にめでらるる 時は来たれり」
楫取素彦(1829-1912)
大河ドラマで再認識された群馬の初代県令 多胡碑の保管管理に力を尽くした事でも知られる。

「玉かしは 書き残したる かみつけに うずもれぬ名ぞ いまもかがやく」
前中納言有長

蛇足ながらこの歌の始めを「むかしはーー」と解説した驚くべき錯誤のサイトがある。
確かに「玉かしは」の「玉」が崩してあるから一見すると「むかしはー」と読んだかな?
「玉かしは」は「玉柏」で見事な綺麗な柏の葉の事。新古今和歌集に
「玉がしは 茂りにけりな さみだれに 葉守の神の しめはふるまで」
(藤原基俊1060- 1142)や「金葉和歌集」には大納言経信(1016年 - 1097)の歌で
「玉かしは 庭もはひろに 成りにけり こやゆふしてて 神まつる此」などがある。
平安時代、「カシハ」を食器として使用した後、その「カシハ」に和歌を書き付ける習慣が
ありそれだけ広く大きく、筆で書きやすい表面をしている葉である。また、大切な食物の
器として用いるのであるから、「カシハ」は美しく清浄でなければならなかった。
柏に書くと云う事が「書き残したる」にも掛かるのかな?
これが本体を格納してあるお堂。

扉が閉まっているのでガラス越しに中を一枚。

記念館にあるレプリカ。

多胡碑に関しては説明音声を録音してみた。
MVI 5468
未だ、時間が早かったので近道で富岡睡蓮の里とその近くの蓮池に行ってみたが
蓮池は草茫々で壊滅状態なので睡蓮の里へ。
相変わらず門が閉まっていて荒廃が続いているらしい。

中に入るとこんな感じで永年手入れがされていないと思うが実に勿体無い話だ。

それでも僅かに覗ける二面の池には健気にも数輪が認められた。浮き葉であること、
葉に切れ込みがあるから蓮ではなく睡蓮。七月下旬にはもう少し咲くかもしれない。
ここは著名な多胡碑記念館のある公園、城南大橋を南進し中山峠を越えて
多胡橋で鏑川を渡った最初の信号で左折すると0.9kで大きな駐車場。
ここは吉井・池地区で付近は河川敷に完璧に整備された運動公園が広がっている。
道標に従って車道を跨ぐと目の前が公園の東の入り口。

僅かの距離でその池が現れるが予想に反して頗る小振りなのに吃驚と同時にやや落胆。

確かに蓮池だが花の様子は未だ少ないが、唯この蓮は只者ではなく
その名の「大賀蓮」が示すとおり由緒正しい?古代蓮なのだ。
1951年に大賀一郎博士のグループによって千葉県で発見された推定2千年前の
一粒の蓮の実はグループの努力の末、翌年に発芽・開花して「奇跡の花」と
言われたがやがて日本国内は元より海外にまで広められた。ここの蓮は
この古代蓮を1997年の多胡碑記念館完成を記念して園内に株分けしたものなのだ。
池の上部から流水、ドロ田のイメージがあったのだが極めて清潔感がある。

蓮の花の一生はまことに短くてたったの四日間、解説には次の様に説明されている。
「第一日目ーーー早朝、ゆっくりと1-2センチほど蕾を開く「とっくり型」と
成るが午前八時には閉じてしまう。
第二日目ーーー夜中の一時頃から開き始め九時ごろまでに「おわん型」となるが
昼頃には完全に閉じてしまう。
第三日目ーーー二日目と同じで開くが午前六時には「おわん型」になり
九時には最大に開いて「さら型」、午後には半閉。
第四日目ーーー咲き始めは同じだが朝の六時には完全開きの「さら型」になり
少し散り始め、午後には一片も残さずに散ってしまい「花托」のみとなる。
そこで時間帯を変えて二日間に亘って訪問した写真を成長に沿って並べてみた。























この後、折角だから多胡碑に移動、大きな記念館の横を通過して歩くと

多胡碑に関連した歌碑が三基。
「万代も いかでつきせじ 名にしあう ほまれぞのこる 多胡の碑」
藤原 寛一(1801-1882)

「深草の うちに埋もれし 名文の 世にめでらるる 時は来たれり」
楫取素彦(1829-1912)
大河ドラマで再認識された群馬の初代県令 多胡碑の保管管理に力を尽くした事でも知られる。

「玉かしは 書き残したる かみつけに うずもれぬ名ぞ いまもかがやく」
前中納言有長

蛇足ながらこの歌の始めを「むかしはーー」と解説した驚くべき錯誤のサイトがある。
確かに「玉かしは」の「玉」が崩してあるから一見すると「むかしはー」と読んだかな?
「玉かしは」は「玉柏」で見事な綺麗な柏の葉の事。新古今和歌集に
「玉がしは 茂りにけりな さみだれに 葉守の神の しめはふるまで」
(藤原基俊1060- 1142)や「金葉和歌集」には大納言経信(1016年 - 1097)の歌で
「玉かしは 庭もはひろに 成りにけり こやゆふしてて 神まつる此」などがある。
平安時代、「カシハ」を食器として使用した後、その「カシハ」に和歌を書き付ける習慣が
ありそれだけ広く大きく、筆で書きやすい表面をしている葉である。また、大切な食物の
器として用いるのであるから、「カシハ」は美しく清浄でなければならなかった。
柏に書くと云う事が「書き残したる」にも掛かるのかな?
これが本体を格納してあるお堂。

扉が閉まっているのでガラス越しに中を一枚。

記念館にあるレプリカ。

多胡碑に関しては説明音声を録音してみた。
MVI 5468
未だ、時間が早かったので近道で富岡睡蓮の里とその近くの蓮池に行ってみたが
蓮池は草茫々で壊滅状態なので睡蓮の里へ。
相変わらず門が閉まっていて荒廃が続いているらしい。

中に入るとこんな感じで永年手入れがされていないと思うが実に勿体無い話だ。

それでも僅かに覗ける二面の池には健気にも数輪が認められた。浮き葉であること、
葉に切れ込みがあるから蓮ではなく睡蓮。七月下旬にはもう少し咲くかもしれない。



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