教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

日本の社会をデザインしなおすこと

2008年04月03日 | 「大人のフリースクール」公開講座

絞殺の男児、母の詩で入賞 おかあさんはやわらかい(共同通信) - goo ニュース 

日本の社会をデザインしなおすこと

 今日の新聞を見ると、読売の「編集手帳」にも朝日の「天声人語」にも、青森県八戸市の小学4年生、西山拓海君(9)が2年生のときに書いた「晩翠わかば賞」の佳作の詩の内容に触れている。ふくよかな母親への溢れるほどの愛情と信頼の表現がそこにある。

「編集手帳」では「小さな詩人が、大好きな、この世で一番大切な宝物から紡いだ言葉だろう」と言い、「天声人語」では「きっとふくよかであろう、優しい母の笑顔が浮かんでくる」「詩に溢れる濃厚なスキンシップ」と言う。その母親が電気コードで首を絞めて若い命を絶命させた。

この母親の場合もそうだが、正常な母親が我が子を殺めるはずがない。事件の陰には必ず「不如意な生活」がある。現実に翻弄される人の姿がある。だから、事件を起こしたのは本人に他ならず、それはいくら責めても済むというものではないが、事件を生み出す背景というものがある。事件はこの下部構造から生み出されるのだ。コラムという制限もあり、この二つのコラムからはそれへの言及がない。「なぜ」「悲しすぎる」では何も変わらない。むごすぎるこの現実との落差を誰がどう埋めるというのか

これは何も大人の場合に限らない。大人や教師たちは「外れた」子どもたちに様々な病名をつける。LD児だ、ADHDだ、自閉症だ、アスペルガーだ、発達障害だ…、一体どれが正しくどれが間違いなのか、勝手な命名なのか、分からなくなることがある。医師によって判断が違うこともある。

そういう子どもたちもフリースクールの門を叩いてくる。親たちの心配は「そういう子でも大丈夫でしょうか」というもの。中には、医師が言った通りに実践して、「ああ、そういう病名の扱いを受けてきたんだな」と一目で分かる子もいる。 でも、こういう子どもたちにも共通のことがある。それは「子どもといえども、自分が周りから受け入れられていると感じれば、無闇に暴れたりしない」ということである。だから、私どものところにやってきた子どもたちは、他所での評判が嘘のように大人しい。じっと座っているし、何かしながらでもこちらの話にも耳を傾けていることが多い。いわゆる「いい子」にしている。

やっぱり悪い子というレッテルは周りの大人が勝手につけるのだろう。「そうじゃない!」「僕の言うことを聞いて!」と子どもたちは暴れるのだ。

「同情をするなら金をくれ!」という言葉が一時流行ったことがあったが、幾つもの瘤に分かれた日本の社会の下部構造を何とかしない限り、この種の事件は今後、増えこそはすれ減ることはないのではなかろうか。米国の大統領予備選挙について「米国政治をデザインしなおすチャンス」とフィナンシャル・タイムズは言っていたが、その言葉はそっくりそのまま日本の社会にも当てはまるのではないか。 「日本の社会をデザインしなおさねばならない