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現代日本語百科   けふも  お元気ですか

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のお てんき

2019-07-21 | ほんとうのところは
昼下がり、定番のテレビ視聴で・・・ ――なんか、あんたの話は胡散臭いんだよ。こう切り込んだ闇の経済評論家と称される、ご仁に、わたしのほうこそアンタにそう言われたくない。ノープロブレム、エンディングの幕が出たところで、そこまでいっていいんかい、となった。テーマは郵政民営化の話にキャッシュレスの政策に、GAFAのもうけに言及して、なんだか政策推進者であった人の頭の良さには、視聴者がついていけないような、いわば、とんちんかん。民営化は失策だったんだろうと、聞いていて、そう思ってしまう。さてと話題は続く。アマゾンの節税にFBのリブラコイン発行と、それはもうとてつもなく頭がよい人たちの集まりのように言って見せて、その奉る人達にはどうしようもないなどと、その頭の良さで言ってのけるのであるから、やはり冒頭のような印象がある。そもそもビッグデータがmarketingに応用出来て、それに遅れた日本経済の動きを指摘して、その先見性を持ったような、いわくつきで、かの大国、アリババの会社をたずねて、それでどうだったのか、編集でカットされたか、情報の蓄積が国家管理で行われる国の、それを新たに社会主義経済で実現して見せる隣国を、もっと素朴に見ていたら、どういうことなのか、その恐ろしさを想像するに果てしがないのが凡人なのである。 . . . 本文を読む

両の手に力がない

2019-07-20 | 木瓜日記
左腕を傷めて6週間と思っていたら、待てよ、6月14日の金曜か、筋を伸ばしたように、力が入らなくなって、それを回復するのに時間がかかっている。さらに指の関節が曲がらなくなる。人差し指の第1関節が痛む。関節炎とリウマチ症状を気にして、この月初めに専門医に診てもらっている。腕の曲げ伸ばしの関節痛とは違うので、関係するかどうか、右手のしびれと左手の曲げ伸ばしと、だんだんと重いものを持ち上げられなくなっていく。 . . . 本文を読む

暗号資産、仮想通貨には

2019-07-18 | ニューストピック
FBの利用者は世界で27億人と言われる。地球上の人口、およそ3分の一、その情報を持つ人々に、暗号資産が作られるというニュースで、その名称であるリブラコインが、キーワードとなる。リブラはステーブルコインである、といった説明を始めに、それは何、というわけである。価格が安定したコイン、別名ペッグ通貨と呼ばれる、とかとか。価格変動、ボラティリティが大きいと、決済に向かない、そして、通貨バスケット制である、ふむふーむ、暗号資産は仮想通貨の安定性を持ったものということらしい。 . . . 本文を読む

日本語文法の説38 文法の論理⑧

2019-07-18 | 日本語文法
日本語文法において目的語と補語の実質的概念を議論する。日本語文法は文の要素に目的語と補語を持たない、あるいは文法範疇として文の成分には別の分析があったとすべきである。すなわち国語の文法では修飾語を要素とし、それを分ければ連用修飾と連体修飾とした。その修飾被修飾の関係は格助詞また語の変化によって明らかであった。あるいは補語と目的語となる格助詞を分類すれば、あとは動詞に応じて意味内容が成立する。目的格をとる目的語によって他動詞となったのは、翻訳文法における概念であるが、それはまた、目的語とは何かを説明しようとすると、他動詞と語順における名詞がとる格によって、英語文法の概念にもそうであるように、文の成立には動詞に必須の語としてとらえられていた。自動詞による、また他動詞による表現は言語現象に共通するものがみられて、まだ理解が得やすい。しかし補語となると、それは主格補語、目的格補語という用法で。日本語と英語では違ってくるように、補語の概念は説明が困難となる。したがって日本語の補語を部分としては、状況語に分類する捉え方がある。 . . . 本文を読む

日本語文法の説37 文法の論理⑦

2019-07-17 | 日本語文法
日本語を外国語と修得するには話しことばについて文体を選べば、基本は自明のことである、と思われるが、ここでは問いとするところ、文法形式の基本であろうから、果たして叙法を考えることになる。教授ステップをもって、この説明を取り出すことかどうか、教育方法、教授経験においては、話し言葉の丁寧による終止形と、文における連体形による修飾は、動詞で語形が異なるから、さまざま話しことば、書きことばの文体というゆえんである。叙法を参照して、ていねい体にはその前に基本があるとする、つまり、ふつう体がある。それには、日本語を習得する話しことばの基本というときにはていねい体があって、文法議論での基本となればふつう体がとらえられる。これは表現法と考えれば、日本語の文法現象、言語の基本を整理してふつう体を捉えることになる。丁寧語を用いた、ていねい体は、敬体という表現法として常体と区別する。 . . . 本文を読む

超越主義的、transcendental

2019-07-17 | ニューストピック
もと東京新聞、論説主幹をして、コラムに名文を多く残した、長谷川さんがNP委員会で発言をするときに、左翼政治家と表現していたし、もと駐韓大使の武藤さんが、いまの大統領が政策をとる限りだめだと言い続ける、韓国の文大統領の、目指す方向がわからないのdえ、ネット検索をして、その姿勢を超越主義と書く文章にでがあった。見ると記事は、2年前、20170518である。筆者の経歴が書かせるものは、正鵠を得て、その意見を採集する取材は興味深い。プロフィールに、次のようである。>政治経済学者、アジア歴史研究者、作家。韓国ソウル市生まれ。米国マサチューセッツ工科大学で比較政治経済論を専攻して博士号(Ph.D)取得。香港科学技術大学助教授、中国人民銀行研究生部客員教授、上海同済大学客員教授、一橋大学客員研究員、国際日本文化研究センター外国人研究員、京都産業大学客員研究員など  正義感でぐれて見せても勉学はトップでいて政治犯としての活動歴から表に出ない実務派だとする弁護士稼業に、いまは政治のトップにいるという、文大統領は何を目指しているか。 . . . 本文を読む

日本語文法の説36 文法の論理⑥

2019-07-16 | 日本語文法
文末の述語を品詞から捉えて分析する日本語文は、動詞述語に述べ立てるという表し方を議論してきている。それはまた文を成立させる、文をまとめる働きをどう認めるかを明らかにする。文を単位とするのは、そこで表された表現にある意味内容で言葉として終止する形式を持つことであったから、文の終止はそれではっきりとする。日本語教育は話しことばを文法として入門時期から始めるので、名詞による述語の表現には文の終止を表す丁寧な表現をまず導入するから、名詞述語を表現にする。漢語を入れて普通名詞にした、様々な品詞の語性がある漢字熟語を、表現上において言い表すこととしてとらえることができるようにしたものである。 . . . 本文を読む

格助詞、が格

2019-07-16 | 国語と日本語
2016年4月の刊行、日本語の歴史6、主格助詞「ガ」の千年紀 という1冊がある。書店のサイトに見えるブログによると、>7年間かけた全6巻7冊が完結、第6巻は4月15日刊行予定で、追い込みに入って  とあって、この1年後、2017年5月に補巻が出ている。書店のサイトにまた目次が公開されていて、その第9章にあたる、9 主格助詞「ガ」の確立  に、詳細な節が見えるので、採録する。 日本語文 . . . 本文を読む

言葉か、語か

2019-07-15 | まさごと
太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。と、よく知られた名言になる。これをわたしたちに、教義書の解釈は別にして、日本語の太初においてどうであるかと考える。言葉の始まりは神とともにあったか、この信仰によれば日本にも例外なく当てはまることになる。しかし、その神はいかがか。新約聖書に神の言葉が記録されて、それを福音の書物とする。日本語にもそのような神がいたかと、そうなると、日本の神はことばを遺すことがなかった。福音書はない。だから予言のこともない、奇跡を語らない、神が語らないのはなぜだったろうかと、ないものはないから、それより詮索することはできない。日本語は、すると、どう始まったのか、いずれ記録をすることを、文字を詞と捉えて、日本語の始まる経緯は、その文字に漢字を重ねて学習したことに始まる。これは古事記神話に語られることになるし、古代の日本語を文字にする経緯が、碑文、銘、歌謡などに見られる。ここで、大事なことは、日本の神がいなかったというわけでなく、神がいたことである。いわば唯一に神をいただくことがなかった、神々がいたのである。 . . . 本文を読む

日本語文法の説35 文法の論理⑤

2019-07-15 | 日本語文法
前を受けると、 Sを考える、何々は、何々が、いずれかと、文法形式は一つであるとすることか、この文のことは日本語教育の基本文型にかかわっている。編集した講座は、1989年のころのこと、いまから30年前のものに著されたので、それからはどうなったかと、その経緯を見ることになる。が、文を考える主張はかわりない。主語の定義について、30年この方か、戦後教育の影響ということは、日本語文法が明確にしてないというのはいまもそのままである。主題「は」、主語「が」について、主題の文、主語の文としてのことは、文の呼称として題述文、主述文となるから、「何々は」「何々が」をともに文と認めることである。つまり、主語を要素とする文の規定に、主格があると認めることである。明示された格と明示されない、その格となる主語を文章から求めるのは、なんら、読み手のことだけではない。書き手にその用意がない文は、文章を見て主語がない文、すなわち名文なのか、明文なのか、ということになる。 . . . 本文を読む