私説はなんだろう。一個人としての学説とあるし、また、考えでもあるようだ。ほかの辞書では、個人的に唱える説のようで、私説古代史の例がある。私説はさきにくっつけるらしい。それでどうもこれをくっつけると、いかがわしいのかと思ったら、言葉を扱うことがいかがわしくて、そのことばで人をいいくるめているから、どうにもいかがわしいらしい、と言うようなことが文章にあった。天野祐吉『私説 広告五千年史』 - 新潮社 www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/603531.html にある広告の文。それでまたみていると、私説を偽説と並べて集めているのがあったりするので、これはあんまりなくて、私説私語というのがあって、私語となるとささやきだとか、さらに個人のぼそぼそとした説のことになる。日本語再建私説 - 愛知県立大学 外国語学部 www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf7/osada100.pdf というのがヒットして、これはいい。
日本語教育に携わってかれこれ35年になる。最初の5年は修業期のようなことだったかと思う。それは大変なことでもあった。しかしそれが日本語教育のわたしにとって怒涛の経験の始まりであり、基礎はすべてそこにある。怒涛疾風は思春期を表すにはいいが、大学教員になるスタートはまさに押し寄せる波の激しさである、ゆめ荒れ狂ったのではない。そのうちの2年を経て大阪の国立大学でその非常勤教師をしながら、東三河に日本語教育を遷したというのが、これもわたしの思いである。まさにそれを新幹線で運んだわが身は5年に及んだ。1978年である。
そこでまた日本語教育の研修教育を進修生向けにプログラムをして10年を経験する。進修生というのは中国大学での院生たちのことである。しかし実行されたのは中国教育部の意向で大学教員の研修となった。その地、豊橋では日本の中央などという意気がかったが、地方の私立大学に奉職し国文学国語学を講じるという、ごくふつうのうけとめ方で幸運にも培った、わずかのことではあるがその日本語教育を行うというスタイルを続けて専門は文学はまあいいとして中国語相手に国語でするというのはこのときは珍しかったであろう。1979年12月から迎え入れたのである。
さてすこしあしばやに、その10年のプログラムを実行して、すぐにまた留学生の別科を拵えようということでそのおわりの2年にはチャレンジがあった。日本語教育の別科を予備教育でするのは別段に目新しいことではないが、組織に組み込む過程では新たな動きを起こしたことになる。もっとも組織はひとまかせで専らカリキュラムと教科書を編集してオリジナル教育を目指した。考えれば中国大学教員のプログラムもまた独自のものであったから、一から始めることの苦労は感じない、初級、初中級、のちには中級へと、時間割から科目まで、年間スケジュールを入れたカリキュラムを実現すると毎年のように工夫を凝らし改善しては教材を投げ込んだ。
むしろ日本人学生の本業に対して行っていた留学生教育は、同様に最初の5年に経験したノウハウが時を経て実現した。その留学生教育は続く研修生教育を結実させた。これはその後にまた現代中国学部へと展開するのである。さかのぼる1988年に別科日本語教育を開設した。その地で13年続くことになる。また、わたしには1984年には中国語言文化大学、そのときは中国北京語言学院と言っていた、その出国部培訓班に交換教員として8月から翌年2月まで専家であった。
ここで時間が重なるが、国語国文学の教員と日本語教育の別科の教員と大学教員を1979年にはじめてついで国立大学の講座に移ることになり、さきの別科を後進にゆだねるような、そのような格好いいことではなくてそこにはそれから8年出講しつづけて、隣接する地で、日本語教育専門教官を兼ねた。語学センターでの日本語授業に院生、研究者たちの日本語を専門教育として行った。言うのはたやすいが、専門日本語は、いまにしておもえば、それ相当のことで、その学会が発足する前の状態にあって地方の国立大学が孤立無援のようなことで根を下ろし始めたのである。そこではまた10年を経過する。地方ではまだ一時、眠っていたようなのを起こして国際協力の大学間協定を結ぶことを行ったりもした。
そうこうして2000年のときから現在に及ぶ。研究留学生の日本語教育に始まって、日本語研究の博士指導を担当するいまは、現場に立つ生涯教師を目指す私には、院生の留学生たちが書く日本語の論文指導にかかわったので、いささかこの歩みでよかったろうかと思いつして、大学院博士教育でディグリーをあたえ、そして留学生に修士教育で実現したあまたの指導は日本人学生ももちろんいるのではあるけれど国に帰って大学での日本語教師をしたりもしている。また、学部においては日本語教師の資格取得の教育になっている状況である。
思えばボランティアの日本語講座にもパイオニアでかかわった1980年代後半から思い出すことどもがある。
日本語教育に携わってかれこれ35年になる。最初の5年は修業期のようなことだったかと思う。それは大変なことでもあった。しかしそれが日本語教育のわたしにとって怒涛の経験の始まりであり、基礎はすべてそこにある。怒涛疾風は思春期を表すにはいいが、大学教員になるスタートはまさに押し寄せる波の激しさである、ゆめ荒れ狂ったのではない。そのうちの2年を経て大阪の国立大学でその非常勤教師をしながら、東三河に日本語教育を遷したというのが、これもわたしの思いである。まさにそれを新幹線で運んだわが身は5年に及んだ。1978年である。
そこでまた日本語教育の研修教育を進修生向けにプログラムをして10年を経験する。進修生というのは中国大学での院生たちのことである。しかし実行されたのは中国教育部の意向で大学教員の研修となった。その地、豊橋では日本の中央などという意気がかったが、地方の私立大学に奉職し国文学国語学を講じるという、ごくふつうのうけとめ方で幸運にも培った、わずかのことではあるがその日本語教育を行うというスタイルを続けて専門は文学はまあいいとして中国語相手に国語でするというのはこのときは珍しかったであろう。1979年12月から迎え入れたのである。
さてすこしあしばやに、その10年のプログラムを実行して、すぐにまた留学生の別科を拵えようということでそのおわりの2年にはチャレンジがあった。日本語教育の別科を予備教育でするのは別段に目新しいことではないが、組織に組み込む過程では新たな動きを起こしたことになる。もっとも組織はひとまかせで専らカリキュラムと教科書を編集してオリジナル教育を目指した。考えれば中国大学教員のプログラムもまた独自のものであったから、一から始めることの苦労は感じない、初級、初中級、のちには中級へと、時間割から科目まで、年間スケジュールを入れたカリキュラムを実現すると毎年のように工夫を凝らし改善しては教材を投げ込んだ。
むしろ日本人学生の本業に対して行っていた留学生教育は、同様に最初の5年に経験したノウハウが時を経て実現した。その留学生教育は続く研修生教育を結実させた。これはその後にまた現代中国学部へと展開するのである。さかのぼる1988年に別科日本語教育を開設した。その地で13年続くことになる。また、わたしには1984年には中国語言文化大学、そのときは中国北京語言学院と言っていた、その出国部培訓班に交換教員として8月から翌年2月まで専家であった。
ここで時間が重なるが、国語国文学の教員と日本語教育の別科の教員と大学教員を1979年にはじめてついで国立大学の講座に移ることになり、さきの別科を後進にゆだねるような、そのような格好いいことではなくてそこにはそれから8年出講しつづけて、隣接する地で、日本語教育専門教官を兼ねた。語学センターでの日本語授業に院生、研究者たちの日本語を専門教育として行った。言うのはたやすいが、専門日本語は、いまにしておもえば、それ相当のことで、その学会が発足する前の状態にあって地方の国立大学が孤立無援のようなことで根を下ろし始めたのである。そこではまた10年を経過する。地方ではまだ一時、眠っていたようなのを起こして国際協力の大学間協定を結ぶことを行ったりもした。
そうこうして2000年のときから現在に及ぶ。研究留学生の日本語教育に始まって、日本語研究の博士指導を担当するいまは、現場に立つ生涯教師を目指す私には、院生の留学生たちが書く日本語の論文指導にかかわったので、いささかこの歩みでよかったろうかと思いつして、大学院博士教育でディグリーをあたえ、そして留学生に修士教育で実現したあまたの指導は日本人学生ももちろんいるのではあるけれど国に帰って大学での日本語教師をしたりもしている。また、学部においては日本語教師の資格取得の教育になっている状況である。
思えばボランティアの日本語講座にもパイオニアでかかわった1980年代後半から思い出すことどもがある。