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国語表現とコミュニケーション 1

2015-12-31 | 斯く書く
はじめに――

皆さんこんにちは、ご紹介をいただきました山内と申します。こちらは名古屋・瀬戸地区の研究大会だとお聞きしました。はじめてお会いする方ばかりでしょうか。このような機会を与えられましたことに、高いところからですが、感謝を申します。国語表現とコミュニケーションについて、少し時間をいただき、お話をしたいと思います。

この話の依頼を受けたきっかけをうかがいました。実はホームページだそうです。驚きました。研究集会の運営の先生たちにいろいろと人選についての議論があったと思います。そんななかで、ウェッブサイトに開いているわたくしのホームページを見つけた方がいらっしゃって、そのことでお話を持って見えたそうです。大変なことになりました。

自己紹介を兼ねて、ウェッブページをご覧いただきます。特に変わったところはない、好きに任せて作ったHPです。勤務している関係から、URLは所属の大学に一応、リンクしています。一応と言うのは、なかには民間のプロバイダーにあるサーバーにコンテンツをおいているものがあります。動かすプログラムとこれを作った時の状況からです。

機械のこと、ひとつ、ふたつ

ハイテクと称する、このような不安定で無責任とも見える、その一方で、情報革命だとか、なくては経済が立ち行かなくなるような錯覚を売り物にする、怪しげな電子の箱に、皆さん方の中には興味と関心の少ない方が見えるかもしれません。国語表現とコミュニケーションに、どんな関係があるのか、いぶかしむ方々もいらっしゃると思います。

ふだん、もし避けておられたら、これからの話にどうか少しの忍耐を、いや、もっと詳しいソフトやテクノロジーを知りたい、と言われる方は、これもやはり少しの忍耐をください。国語と国文学を専攻しただけのわたくしの、とりわけ電子機器にマニアックでもない、新し物好きの、さして上手でもないウェッブサイトとご覧いただければ結構です

先ほどのサイトはMSのウィンドウズでこの4月に作りました。それまではマックのOSでネットスケープを5年、動かしていました。3月までのページはこれです。いま、デザインが変わっています。ハイパーカードの仕組みを学習して、その練習にHTMLを書いていました。といっても、便利なコンピュータは苦労をしないで、わたくしにもできました。

インターネットエクスプローラーはブラウザ-として使いやすく情報の加工がすぐにできます。Win98とあわせて、4月になって、このホームページの作成のために動かしてみました。ホームページビルダーというのをアカデミックパックで買って作りました。とにかく、それまでMacだったわけですからどうなるかと、大急ぎでした。

ウェッブサイト、単にサイトとも言い、わたしにはウェッブページと呼びます、ホームページとして皆さんが使っている電子情報は瞬く間に日常の中に入り込んできました。サイバーユニバーシティー、サイバーコミュニティ、あるいは、インターネット市場、インターネット取引などとわけがわからなくなりそうです。情報の氾濫があります。

そもそもウェッブとは何が可能となったのか。中国語では「網」の訳語をそのまま使っています。蜘蛛の巣状の網に何がひっかかっているのでしょうか。ウェッブの一部が切れても破れてもそのままに、網の上に引っかかったものは落ちることなく電子情報として流れつづける、その正体は何でしょうか。少し、わたくしに見る情報を考えてみます。

この情報は確かに存在するのですが、電気のないところ、いったん電気がなくなると存在しないのです。当たり前のことを言って申し訳ありませんが、電気なるものがわたしには正体不明で、信用できない、いや、電気や電子は、まあ、わからないままに存在を認めても、扱う人間とそれが入った箱、機械の箱ですが、それが信用ならないんでしょうか。

ワープロを用いて原稿を書いていてバックアップを取らなければ、そう思っているときにコンセントが抜けて一瞬にして消えるという経験がおありでしょうか。ワープロの機種によって、初期のものには書き込みがテープレコーダーという時代があり、ピーピーガーガーと音を出して記録をしたりしましたが、不安定そのものでした。

先日といっても少し前のことですが、文法大辞典の原稿を書いていて、フロッピーに入れて書き溜めたのですが、項目のいくつかを上書きのところで、慌てたボタン操作であっという間に消してしまいました。そういうときにバックアップコピーを取っていない、限って、プリントアウトを取っていないものです。それで、いつのまにか紙くずの山です。

恥ずかしい話ですが、つい1ヶ月前にも失敗をしました。だから機械は、いや自分の操作は信用できないとあきらめるだけです。それは事故でした。ノートパソコンをクラッシュさせてしまったのです。ふだんから機械ものには用心していますから、ショックの大きさの割には、ただ人間の能力を再認識して、記憶を頼りにやり直しただけです。

実は、このお話の原稿を中国で書いてまいりました。先月の15日から29日まで研究交流と調査実験のために中国、天津市に滞在をしました。今回は身の回り用品だけで、パソコンをひとつ持って出かけようと準備をして、していて、し過ぎました。出かける前にソフトとデータを入れすぎて、バンです。そのせいで重いバッグの荷物がひとつ増えました。

中国へは何をしに言ったかと申しますと、インターネットの実験に出かけました。隣国であっても、なかなか難しかった通信がやっとできるようになってきました。回線の問題、表示するフォントの問題、そして何より中国の一般的なパソコンの普及の問題が大きく通信を阻んでいたのですが、最近の情勢で解決できるようになりました。

こちらの研究室と向こうの研究室とそれぞれ同じパソコンを置けばよいと、単純な結論になって、2年がかりのプロジェクトを終えようとしています。成果は、日本語教育の情報交換がリアルタイムでできるようになったことと、授業にマルチメディアを実現することが可能となることです。これは、素人が扱えるMSのグローバルIMEのおかげです。

電機を扱いなれない、電子情報の入った箱についてしくじりをした恥ずかしいお話を申しました。便利な道具ほど、単純な使い方がいちばんよいと考えます。パソコンはインターネット、メールのやりとりと、あとはワープロの機能、成績の集計でしょうか。携帯用の通信と情報機器が広がっていますので、メールはそちらが主流になるかもしれません。

携帯用となりますと、ハンディフォンが高校生に1台ずつとか、回線加入電話を数の割合で超えてしまったとか、その情報にはパケット通信という手段でさまざまなサイトができているようです。そこに見られる内容は、いかに短く、かつ、わかりやすく情報を表示するかという工夫でしょう。日本語の様子がどうなっているのか、気になるところです。

さて、わたしたちを取り巻く環境で、電子による情報についての変化を見てまいりますと、コミュニケーションの手段と日本語にかかわることが少なくない、という点では、どなたにも異論はないと思います。網の目に張り巡らされた電子情報は好むと好まないとにかかわらず、流れつづけ、時に応じて取り込むことができるのです。

取り込むだけでなく、こちらから発信することが、また実に簡単にできるようになったということがあります。情報を発信する、それも多数を相手に宣伝し、お互いの情報交換を可能にしているのです。これは驚くべきことです。HPを作るなどとは、また,本当に恥ずかしい話です。そう言いながらつくっておりますので、怪しげなことですが。

インターネット

この電子の箱による情報の実現は国語表現にどのように影響していくでしょうか。これを考えるためのキーワードは、インターネット、マルチメディア、モバイルです。特徴的であるのは記録する媒体が紙ではないことです。プリントすれば紙になります。たとえばHDに入ったメモリーに言語の信号があるわけです。それを変換して表示します。

表示画面は、横書きです。縦書きにするソフトもあります。表示する場合にも、縦読みにする電子ブックがあるわけですが、MSが開発したIEでは市場性がないと見込んだために、縦書きは優勢ではないという判断で、つけなかった、それだけのようです。縦と決めたわけでもないのですけれど、国語のデファクトスタンダードが変えられているのです。

次に、横書きですからローマ字を入れ易く、いたるところに書きます。カタカナも当然のように多くなっています。先のキーワードはカタカナばかりです。表示した国語はふつうに漢字かな混じりに変換して見られますので、特に変わったように見えるわけではないのですが、実はこの変化には漢字の視認性と表現性の交代があるようです。

どう言うことかと申しますと、先のカタカナを国語にして見ます。言いようがないのでためして、インターネットは、ネットワーク相互接続を実現した網の目状組織、マルチメディアは、音声映像双方向媒体または複合媒体、そして、モバイルは移動通信計算機器となるでしょうか。最後のモバイルはあらわせたようでいて、何の事かわからないでしょう。

漢字を用いて表現できるものはそのままに、国語のわかりよさを用いています。しかし、簡潔に端的にあらわせるはずの漢字があっても、その一方で漢字では表現できない語句が増えてきたのです。計算機用語などがその代表的なものでした。国語となるにはカタカナのままに使うわけです。もっと言えばローマ字のままです。国語の限界状況です。

キーワードという語もカタカナで、使いやすいようですが、どうでしょう。普通には重要な語、鍵となる語句のことです。しかし、コンピュータでは情報検索の見出し語と言う意味で使います。このようにカタカナ語は概念が定義されて、意味用法があって説明がなければ、国語の表現となり得ないのです。漢字のように訓読みの分解が困難です。

漢字学習をして、見てわかる、理解できるというのではないのです。漢字に置き換えて理解すると言う操作は、ある意味で限界が来たのです。中国語もコンピュータ用語の翻訳は間に合わないらしく、いろいろと苦心があるようです。ところが面白いことに、中国語に訳した漢字を見て、わたしたちはそこに漢字の概念を求めて何とか理解しようとします。

漢字訳を見て、国語にとりいれればどうでしょう。ありうることですが、そうはしません。言葉の意味を説明するのに、カタカナで書かれた語を漢字と仮名で表すことが難しくなった、だから、カタカナ語ができてきたんだ、ということもあったのですが、このように電子情報が生み出す用語をとって見ても、それぞれには文化的背景の問題があります。

そこでもう一度、キーワードをみてみますと、インターネットはthe internet であって、よくご存知の方がいらっしゃるように、プロトコルの世界です。HPのアドレスをうつときにhttp:// と打ち始めますが、このなかにhyper text transfer protocol と使われています。ただ、約束事をあらわす、と考えていればよいのですが、この語の意味が重要です。

辞書的に見ますと、プロトコルは、外交交渉の公式報告または国際会議の文書、それも署名をしたもので、有効なものを意味します。これをまた、コンピュータでは、データをコンピュータ同士で取り交わすときの規約、プログラムをするときの共通項目です。わかったようなことを言っていますが、実際はどうなっているのか、みたことがありません。

この約束事を使いますよ、ということで、ftpという、つまりfile transfer protocolを選んでいる、あるいは、そのひとつにハイパーテキストですよと、その約束事の上でURLを、インターネット上のウェッブサイトの住所を知らせます。インターネットでつながる世界は約束事で成り立っている、いわばひとつの新しい社会であることがわかります。

その世界はコンピュータ同士の約束事であったわけです。いろいろなプログラム言語で開発されたネットのそれぞれが、集約されて、ひとつのものとなった、ここにあるパソコンを使う、そこにあるパソコンを使う、どれもそれぞれに自由な使い方があった、そのパソコン同士でやり取りをするネットワークを組めるようにプロトコルを開発しました。

こう見てきますと、パソコンはデータの通信に必要な最低の要件を満たすことになったわけです。そのネットに信号を変換した言語を載せてやりとりをする、つまり自然言語と呼ぶわたしたちの言語です。開発者たちが共通にしたのが英語ですから、フランス語でもドイツ語でもよかったのですが、とにかく英語の世界があっという間に広まったのです。

日本語は漢字変換と言う作業、そこで言語処理をするワードプロセッサーの開発が進み、漢字辞書の記憶も容量が大きくなって、タイプライターのように使うことができますから、インターネットに電子情報で日本語がつかえます。漢字モードの統一ができていませんから、日本と中国で、あるいは韓国で残念ながら共通しません。文字化けします。

中国語のホームページを開いたときに、画像では文字が読めると言うことを経験すると思います。文字が化けて読めないのを、MSのIEではエンコードに中国の簡体字を表示できるようにしましたから、容易に文字を変換します。ネットスケープも同様ですし、ホームページ上で、サイトを英語から中国語に翻訳するバージョンも配布されています。

ここでお話したいことは、インターネットは開発されてきた趨勢から、英語の世界であって、言語を表示したり、やり取りをしたりするのは横書きのローマ字の社会だと言うことです。日本語でも中国語でもない、言語を変換することは可能となりましたが、文化的背景にあるのはわたしたちが、ここ300年以上、学んできた英語の世界だと言うことです。

ホームページをご覧になれば、すぐにわかることを申しました。見ようと見まいと、コンピュータのひとつの使い方がそこにあって、日常的に英語の世界とつながっているのですから、それを日本語に訳して見るソフトもありますし、英語であらわされた文化を何がしか受け取ることになります。しかもそれを受け取るのは、わたしたち民衆なのです。

考えようとしたことは、ディスプレー上に現れた国語のようすです。横書きであること、ローマ字が多くなること、それと一方で、カタカナで表した語を漢字では表記しにくいことでした。ホームページのアドレスをユー・アール・エルとローマ字をきって申しますが、ユニフォーム・リソース・ロケーターと略語を戻してみて、どれほど理解できるでしょう。

HPを開けると、そこにウェッブサイトがあり、いろいろな情報を手に入れます。わたしたちに身近な書籍を求めるために、インターネット書店で買わなくてはならなくなる、それだけ書物の流通にはコストがかかっていたのですから、その仕組みについての理解はなくとも、のぞむものを手に入れる手段が新しくなり、利用することになります。

国語でホームページを見ることができますから、のぞむ本が買える便利な道具だ、さしあたって気にすることもない、というようなことですが、カタカナであらわされた語彙の内容が変化してきていること、それを漢字で表すことが難しくなったこと、使うためには言葉の定義をしなければならないことがわかった、として話を進めてよろしいでしょうか。

思い起こせば、と言いましても、わたしの記憶にあるのではなくて、わたしたちの祖先の時代に、中国から文物を輸入して、一度それを取りやめたりしますが、それも限られたことではあったのですが、漢字ばかりの文献を摂取し、大体300年近く、時間をかけて国語にしました。民衆のレベルになるには、さらにもう700年ほどかかったかと思います。

いま申しましたのは格別の根拠があってのことではないのですが、中国の隋に交渉を求めたとき、ひらがなで書かれた和歌集の誕生のとき、教養ある貴族の社会での、その中央語の規範が崩れ始め、合戦の混乱期を経て国語が国内を交流し、話し言葉がポルトガル語表記のローマ字で記録されたころをとらえて見ました。それから現在まで約400年です。

漢字ばかりを学習して、それを文字だと思った祖先がいて、つまり漢字そのものを言葉だと考えたわけです、漢語はもともと、一字が一語であった、と思うのですが、その考えのままに祖先は学習して国語としたわけです。ほかになかったから、漢字と言う文字を省文にしたカタカナを学習用の文字に用いました。カタカナは漢字の主要な道具でした。

縦の書きものを見ていたから縦書きになり、横のものばかりを見ていると横書きになる、と言う単純なこともあるでしょう。書きよい、見よいと言うことになれば、漢字はどちらにも並びます。現代中国語では現に、日常的には横書きです。日本語の文化とかかわりますから、これからも縦書きがなくなることはあり得ないと思います。

平仮名は、平仮名と呼ばれるまでに時日を経て、それこそ民衆の言葉の文字使いとなるような経過をたどるのですが、草仮名は女子の教育用に使われました。何の教育かといいますと、歌を読むこと、手習いをすること、そして仏教の経文を知ることです。平仮名はその流れを受けて、文芸の表記に用いられたりして、明治になって文学書に一般化します。

国語の現象は、いま教育用だと申しました平仮名を例にすると、漢字かな混じりに平仮名を主とするようになったのは、敗戦後の教育の影響がおおきいことは否めません。漢字カタカナは、どちらかと言えば書き言葉であったのに対して、平仮名は庶民的に用いた、表音仮名であったのです。かつて、仮名文字会が進めたのはカタカナの表音表記でした。

そこで、皆さん方とともにここでいま考えなければならないことが、国語を横書きにすることです。もちろん伝統的な文章はは縦書きがよいでしょう。国語の科目に言語と文芸の内容を考えるなら、日本語を横書きにすることでしょうか。ただ、杓子定規に国語は縦書きで、日本語が横書きだと言うものではありませんから、まず実行して見ることです。

そして国語の語彙を改めて見なおします。カタカナ語はその名称からして形式的な扱いです。ここでカタカナ語を日本語と規定してはいかがでしょうか。カタカナ語は今まで外来語の扱いでした。従来の国語にある語彙をすべて日本語として、カタカナ語を加えた日本語を捉えなおしてみようと思うのです。難しいことを言っているつもりはありません。

次の日本語を説明して見てください。コミュニケーション、インフォメーション、インセンティブ、アカウンタビリティー、モラルハザード。いかがでしょうか。日常的に目にする、あるいは使われた言葉のようです。言いかえると、伝達、情報、刺激また誘因、説明責任、倫理道徳的危険と漢字になりますが、はたしてどう言う意味でしょうか。

マルチメディア

次のキーワード、マルチメディアに付いて話しましょう。マルチは、接頭語として、multi-と使われる語です。国語では、マルチ商法、マルチタレントなど、和製語で使いました。マルチプル、多数の、たくさんの、とするとわかりよいと思います。ただ、マルチプル広告となると、混種語としての用法の概念規定が必要です。それで辞書を見ます。

手元にある辞書は、コンサイスのカタカナ語辞典、箱の帯によると43,000語を収録、アルファベットの略語7,000語、あわせて50,000語の辞書です。1995年第6刷り。カタカナ語辞典で、国語辞典と同じぐらいの語数があります。マルチの項目ところを見ますと、マルチ何々で50語以上を数えます。マルチメディアの説明を見てみます。次のようです。

複合媒体、映像、音声、文字など多数の媒体を複合させるもの、媒体の複合は人間の感覚すべてに働きかけ、従来の単一の媒体によるものとは異なった効果を得ることができるという、と説明があります。辞典の端書に、百科的な解説で外来語辞典の定本として愛用された、と銘打つだけにわかりよいと思います。項目に、昭和21年以後の語としています。

ところがよく読んでみると、わかったようでわからないことがあります。単一の媒体とは、音声では電話でしょうか。映像となると、テレビです。しかし、テレビは音声がありますし、文字となるとファクシミリをあげますが、テレビもやはりそうです。お分かりのように、これは媒体としての展開で、このメディアにニューメディアの内容があります。

ニューメディアはいつまでもニュー、とはなりませんが、最近の様相を一言でとらえて、集積回路による情報技術の革新をさしています。伝達においては光ファイバーの登場でしょうか。ADSLなどというものもあります。専門外になり、わかったようなことで恐縮です。そこでメディアが出現させたものは何か。双方向性です。インタラクティブ通信です。

マルチメディアがインタラクティブになったことによって、新しい状況が展開していること、それはパソコンです。それまでに、Interactive CATV、つまりケーブルテレビで、コミュニティーにネットワークを作ろうとしたことがあります。テレビが手軽になったわけです。通信のインフラに莫大な投資がいりますから、実験的に進行しました。

コンピュータのインタラクティブは対話型であること、つまりインターフェースの技術によって、コンピュータ同士の対話ができる、データのやり取りが通信できるようになったことを意味します。そしてインターネットが実現しているのです。それまでのコンピュータは同じ言語で同じ方式なら、互いに対話型としてネットワークを組みました。

それをマルチにする、モザイクを用いて違う方式のコンピュータも、違う言語であっても、と言うのです。結果として、民衆が使いますから、デファクトスタンダードができて、コンピュータで音楽と映像とわたしたちの言葉とを送ったり受け取ったりすることが一気にできるようになったわけです。日本ではこの9月から、また急速に展開しています。

さて、ここまでの話はマルチメディアがインタラクティブであることについての確認であったわけです。こうなると、国語にどのように変化があるでしょうか。先と同様、ホームページを開いて、音楽配信をより楽しく受信し、ビデオのムービーなどをメールでやり取りすることができるようになるわけですから、使い方が便利になるだけでしょう。

インターネットショッピングや掲示板への書きこみ、議論するニューズグループ、オンラインで行うチャットなど、さまざまな利用がこれまでと同じく行われて、パソコン通信が展開します。メッセンジャーと呼ばれる特定の間柄でのメールも、同時性、即時性を帯びます。いま、彼か彼女かが、パソコンにスイッチを入れているかどうかもわかります。

そこで考えて見ると、パソコンでやりとりをする双方向性とは、音声で通信をしても、ビデオ映像を送っても、わたしたちの日常がそのまま相手に持ち込まれることだと、気がつきます。オンラインにしたままだと、双方がカメラの前で対面できます。かつて、さかんになったビデオレターの交換が簡単にできるようになったものと考えてよいでしょう。

言葉でやり取りをするのも、距離と時間をなくした日常会話そのものになるわけです。気をつけるのは機械の操作を間違わないこと、距離がなくなるので時間のずれを意識することです。マルチメディアがインタラクティブであるということは、コミュニケーションがそこに実現するのです。国語のコミュニケーションを考えることになります。

コミュニケーションは双方向のものです。E-mailをかわすのも、画像を送って近況を知らせあうのも、音声ファイルを使って送信するのも、そこにはコミュニケーションを実現するためのやり取りがあります。HPはそもそも、公開するためのものですから、ブラウジングする、立ち読みだけではない、発信も行うという、双方向を前提にしています。

HPを公開する、と言いましたが、これは重要なポイントです。ウエッブサイトに載せますと、そこには自分の属するサイバーコミュニティーがあり、コミュニティーがつながってインターネットの社会があります。それがワールドワイドウエッブとなって、一度、登場しますと、それは全世界へ向けての発信です。どこからでもアクセスして、見えます。

この単純な事実がまた、国語を変えることになるでしょう。なぜかと申しますと、国語はひとり、国語でいられなくなるからです。国語が、国語でなくなる日、ということがあるとすれば、インターネット上で世界中の人が日本語を使う日です。いまの国際共通語、英語のようなものです。国にとどまってはいられないのです。ネット上では、日本語です。

ただこれも、そうすぐにと言うわけではないにしても、まったく可能性がないことではないでしょう。インターネットがインタラクティブで、コミュニケーションが行われると言うのは、それが実現した瞬間に、翻訳として使った場合でも、日本語を使うのです。日本国の日本人だけが使うものではなくなる、という意味で、国語ではなくなるのです。

日本語が国語である、という日が来ます。わたしたちの意識が変わります。それはインターネットを実現した社会で、どの国も、どの言語も、コミュニケーションをすることで変わるのです。いままで、国語で諒解をしていたことがコミュニケーションをすることで、どのように変わるでしょうか。答えは、言葉を一つ一つ確かめていくことになるでしょう。

何が言いたいのか、それはEnglishが英語であるように、多分、英語をわたしたちは英国語としてとらえていたはずですが、歴史的な事情もあって英語を英国だけで話す言語だとは、いまや思っていません。アメリカは米語でしょうか、米国英語でしょうか、英米語と言ったりしますが、ひとつの言語だけで割り切るのは、実際は困難なようです。

 インタラクティブと言うのは、コンピュータでは双方向方式として発展させたことでした。こちらのコンピュータとそちらのコンピュータを結んで双方に計算をさせるということです。また、インタラクティブな処理とは人間がコンピュータと会話をする、つまり確認して作業を進めると言うことです。それがコミュニケーションに具体化します。

アクトは行動する、アクティブは行動的、インターは相互に、です。インタラクション、またはインターアクションとなります。こんにちは、と聞けば、こんにちは、と答えることです。いい天気ですね、といえば、いい天気ですね、と返事があります。この話は面白いですかね、と問えば、この話は面白くないですね、と答えることです。

おりしも、国語審議会の中間答申が先ごろ発表されて、敬意表現を進めることをうたいましたね。ただいまの話の中でわからないことがありました、説明をしてください、と講演者に尋ねることは敬意の表れで、説明不足を責めているのではないそうです。デパートで、いらっしゃいませ、といわれたら、ええ、来ましたよ、と店員に答えるようですよ。

このようなやり取りに、相互反応とでも言う、インタラクションは、どうだったのか、国語表現はどのように教えてきたか、国語には特有のインタラクション、講演者に質問することは自分の理解不足を示す謙虚な姿勢である、というふうに教えたらよいのか、マニュアル的な挨拶には感情が感じられないので無視をするように教えてきたのでしょうか。

それではなぜ、コンピュータの通信がインタラクティブであると、国語の表現が変わるのでしょうか。すでに、その表れはE-mailを実践されている方は経験がおありでしょう。あるいは、議論のページに参加したり、掲示板に投稿したりして、フレームウォーがおこって、パソコン通信ではバトルと言って、大変な事態に遭遇したことがあるでしょう。

メールは必要があってやり取りします。必ず答えを要求します。ところが、メールを無視する、無視しなければならないようなウイルスを持っているのもありますし、ただ一方的な宣伝や告知があって、メールの対処法が生まれますが、問題はそのようなメールではなくて、答えなければならないメールにどのように書くか、ということです。

普通に書けばよいのです。拝啓には、拝復と。しかし、横書きですから末尾に相手の名前を書くわけには行きませんし、なぜなら縦書きでは一番奥の所定の書き方です。横になったとたんに、それも便箋ならいい、縦のもが横になっただけでしょうから。メールでは最後に署名というのがあって、相手の名前をその場所には書くとおかしくなります。

そうなると、拝啓の前に書くか、拝啓何々様、と書くか、中にはハンドルネームを用いて実名は使わない場合もあります。手紙の形式がメールのスタイルになると、季節を早い目に挨拶する習慣もなくなります。瞬時に届くわけですから、即興的な挨拶が一番よい、ということになってきます。むしろ、用件で始めるのがよいとされて来ました。

恐らくここにいらっしゃる方は、すでに経験済みのことだと思います。そして、実際にご自分のスタイルを作って見えるでしょう。便利な手段として即時性をあげることができますから、返事をすぐに出します。一日も二日も置くことは考えられませんから、形式と内容をねって、おもむろに筆を取るようなものではない、と考えておられるでしょう。

日本語表現の授業のことです。学生の作文の時間に、手紙を形式で書く、というのを設けます。なぜかと申しますと、いままでに習っていないと言うのです。メールが来たときに、手紙の形式ぐらい守りなさいよ、と注意をします。手紙ですから自由であっていいものがあります。しかし、ペンを取って書くということをはじめ、あまりに書き方を知らないのです。

マルチメディアが双方向であるとは、むずかしいことではありません。技術が展開していくだけです。そして、その間に国語を日本語として読み、使う人が出てくる、受信だけでなく発信するメールを例にとって見ても、書き言葉と話し言葉の区別を持たないわたしたちの日常語が広がっています。それを加速させるのはモバイルと言うことでしょう。

モバイル

次のキーワードはモバイルです。これもカタカナにすると、もとはモビリティーと言う語があり、移動をあらわす言葉でした。それがコンピュータと結びついたmobile computingの略語となって、いわばホストコンピュータに対してのモバイル、つまり移動計算技術となるでしょう。わかったような言葉です。そのままではモバイルコンピュータでしょうか。

ラップトップがあり、これはひざの上に載せられるぐらいの大きさのコンピュータのこと、あるいはデスクトップのパソコンがあるのに対して、モバイルが、より小型の軽いコンピュータとして登場しました。Notebook computerを思えばよいでしょう。そして、それがさらに小型になって機能を特化させたwireless communicatingを実現しています。

モバイルはコンピュータの周辺機器として、実は携帯電話の無線技術と結びつき、非常な進化を遂げています。モバイルコンピュータの便利な機能をそのまま、携帯電話が無線で行いますから、コンピュータの利用が場所を問わなくなった、正確に申しますと、携帯電話の無線がつながるところであれば、どこでもコミュニケーションができるわけです。

NTTのiModeを想像いただければいいと思います。あるいは韓国へ、ハワイへと旅行をして、自分が使っている携帯電話がそのまま日本へかけて通じるAUのグローバルフォンを例にすることができるでしょう。いずれも、わたしにはその利用の経験がありませんが、技術の展開に、モバイルをそのような機器まで広げて考えて見たいと思います。

機器としては可能性を持った、これからの時代のツールでしょうから、将来的にどこまで技術が展開していくのか、想像がつきません。携帯の機器のことを中国では手机といいます。机は機械の機です。あるいは移動電話、そのままです。国語表現の特徴を実現しているモバイルをキーワードにして、コミュニケーションを考えてみたいと思います。

インターネット、マルチメディア、モバイルとカタカナばかりを並べた話で、忍耐をしていただき、恐縮です。このキーワードを通して、日本語社会がネット上でうまれていること、音声も映像もコンピュータで容易に受信できるようになって、こちらからの発信を考える時代になったこと、そして場所を選ばない通信と国語表現との関わりを話します。

恐らくこれから話したいことは、皆さんがたが日常的に見たり聞いたりしている、あるいは接している生徒たちに起こっている事柄だろうと思います。モバイルを携帯電話に広げて見ましたから、その携帯にまつわる現象だと捉えていただければそれでよい、と申しましても、とてもお困りのことばかりだろうと、想像しますが、いかがでしょうか。

モバイルは言語の、とりわけ文字のツールだけにおもしろい、そこで交わされているメールはどんな日本語なのか、話されている日本語はどんな言語か、書き方や話し方に将来の日本語がある、とこの話を考えました。データ収集に興味津津なのですが、通信の守秘という限界があり、談話の研究には残念ながら踏み込めません。

皆さん方の周囲で国語が、日本語として使われるようになっている、と、わたしは見ています。家庭での電話が子供たちによってコミュニケーションのツールとなり、さらにそれが携帯電話の普及とともに予想できなかった現象が進んでいるわけです。そう思うのですがいかがでしょう。実際のところはわかりませんが、たぶん変化しているでしょう。

  ―続く― 国語表現とコミュニケーション 2


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