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国語表現とコミュニケーション 2

2015-12-31 | しかじか
国語表現の特徴

国語表現とコミュニケーションは、これからの日本語を言語として、それはすこしおおげさですから、日常の言語としてどうなっていくのかと、ここで皆さんと予測をして見たいと思います。横書きをすることやカタカナ語の定義については、辞書を手がかりにして、ちょっと見てきました。これまで中国の文化を学んだように、英語の文化を学ぶことです。

国語の特徴をさらに強く表現して国語が日本語となっていく、日本語の表現はさらに場面性を得ていく、そして中国語と英語の世界が目の前に出現しようとしているから日本語文法を確かにしていく必要がある、というようなことが、この話の結論です。そして皆さんには、言語の指導者として、それぞれを身につけていただきたいと提案します。

日本語は中国から文字を取り入れ、それを言葉として学習し、約300年かけて国語としました。平仮名の使用はその典型となり、現在に至っているわけです。そして、一方で歴史的な事情もあって段階的にヨーロッパの言葉と接触してきました。そのなかで幕末からの英語の影響を考えますと、英語との深い接触は150年ぐらいになるでしょう。

コミュニケーションという語を調べた研究によりますと、1600年代にあった英国との通商条約に、この語の古い形が見えて、国語に流通と翻訳されたようです。三浦按針によると言います。この語はその後、明治の辞書に、それも仏和辞書に見えます。そこには現在も使っている意思の疎通、疎通となっています。流通は経済用語に、意義用法が転じます。

日本語への中国語の影響から考えると、ヨーロッパの言語の影響は、現在時点では、日本社会のエリートに浸透したころと言えるでしょうか。アメリカ英語との本格的な接触は、ここ50年あまりです。情報の伝播、教育での普及を思えば、もともとあやふやな根拠のない算出ですから、アメリカ英語は大きく言って10倍ぐらい、500年に相当しますか。

中国語は、この場合、古代漢語です、日本語の文字にあらわすようになって1400年前後、西洋の言語はは400年足らず、そのなかで英語は文法、語彙などの影響があって大体150年です。最近のアメリカ英語の教育もあって、やっと民衆に英語が行き渡ってきたのが今の状況だと言っていいでしょう。これからが日本語の変化のときだということになります。

それで考えて見ますと、国語の表現はこれまでのところ、次のような特徴を持っていました。そして、これはこれからも変わることはないでしょう。ここにいらっしゃる皆さんには、国語の科目で扱ってわかりきったことばかりです。大きくとらえて五つあげましょう。国語の表現の特徴を、わたしの考えるところで箇条にして、続けて言います。

一つ目は、国語が場面言語であること、場面に依存して成立する言語です。二つ目は、国語が1人称言語であること、話し手を主とした、人称で言えば1人称を主とした言語です。三つ目は、国語は膠着現象によって理解がなりたつ言語です。四つ目は、作用や動作の表現に主体が表される言語です。五つ目は、文章または談話によって結束する言語です。

お聞きになって大体、おわかりいただけるかと思います。はじめの三つは相互に関係します。人称をとらえましたのは、本来、わたしの独白が相手に向かうときに、話し手と聞き手の言語であって、そこに3人称が関与することをわかりやすくするためです。膠着現象は国語で言う助詞や助動詞のことを指します。ここに話し手の判断作用があります。

四つ目の特徴を、もう少し言えば体用の言語です。国語で一番わかりやすかった、そして残念ながら、わからなくしてしまった概念です。かの空海が言う、身口意を単純にとらえておけばよかったのです。宗教と思想を分別しなかったため、いまも理論の説がないどころか、批判されたままです。現代語文法の分析で形を変えて採用されているのですが。

もうひとつの特徴は、結束という語を使いました。完結しない言語のやりとりをそこでいったん完結すると見るとらえ方です。会話のやり取りを思っていただいて、どこで切れるか、やり取りを問答などでくくってもいいでしょう。単位で区切った要素は、双方が補完するのです。こんにちは、に始まって、さようなら、と終わるというのがぴったりです。

四つ目と五つ目を、単位で区切ろうとしますと、呼びかけや挨拶語に続いて、要素としては、時の副詞、人、そして現象の主体つまり作用や動作の表現が動詞によって表されたあとに、話しての叙述への判断として、時、肯定否定、断定、推量、予測、意思などが現れ、そして聞き手に向けた持ち込み表現か、話して自身への受け込み表現で結束します。

この体用の表現と、文章に結束するという二つの特徴は、国語表現が明らかにしてきた実用的な論理構造です。国語の1500年の歴史の中で、わたしたちの祖先はものを見て表現するのに、ものに即して現象を言いあらわそうとしました。そのものの存在を時間と空間の中にとらえて、動作作用に含めた物言いで、自分がどう見たかを言おうとしたのです。

もうすぐ終わります、と、わたくしが言えば、皆さんは、えっ、何がと思われる方もいらっしゃるでしょうし、時計をご覧になって、はやく終わるぞ、と歓迎の気持ちをもたれた方もいらっしゃるでしょう。何が、を言わなくてもいいのです。ここで休憩をします、と言えば、誰が何をしていて、これから何をするのかが、国語では諒解されます。

終わります、には、この講演が、この話が、といった体の表現が含まれているのです。もちろん、それを言うことで、どの場面のことであるのかをはっきりさせることができます。もし場面を共有していなければ、誤解が起きますから、何が、を言うことになります。あっ、落ちる、とだけ言えば、目をやって言えば、落ちるものがあるのです、鞄でしたが。

落ちている、と言えば、それは何かが落ちた状態です。落とされた、と言えば、勉強をわたしがたくさんしたにもかかわらず単位を不合格になって、これはある点数の基準に入ることができなくて、落ちたのではなくて落とされたのだ、わたしを落としたのは先生で、と言うわけです。このような表現は場面があって、時を進行させるなかで可能な方法です。

そして、物が落ちる、と言う表現から、わたしを落とす、そして、わたしが先生に科目の単位を落とされる、となります。形態文法では、落とす、落とされる、は同じ単語になりますが、文法的な関係を含意していて、使役動詞の受身形となり、国語だと一語で了解できます。さらに、語用において見れば、学生が使うと、ほぼ誤解なく理解できます。

落ちる、落ちます、落ちますよ、また、落とされる、落とされた、落とされました、落とされてしまった、と、表現を変えてみると、ここにいらっしゃる皆さんには、何のことか、おわかりになると思います。いや、経験がないので理解が不可能だいう方も見えるかもしれません。いま、経験と申しましたが、これも場面からわかる意味のことになります。

こうして考えて見ますと、国語の表現には空間と時間の要素が決まっていれば、そこに展開する出来事の表現は、一言ずつのやり取りで了解されます。落ちたヨ、何が、話しが、えっ、何が、落ちたんだよ、落語のこと、ちがうよ、すっと胸に落ちてきたヨ、わかんないなあ、というふうに、やりとりが話し手と聞き手の双方の間で成立していきます。

モバイルによるコミュニケーションは時間と空間を超えて、逆にいえば、いつでも時空を共有して国語の表現に特徴的です。したがってマルチメディアの言語表現に、このような国語の表現が、あらわされています。モバイルは場面そのものです。インターネットの言語が日本語である限り、国語が通用する場面を広げて日本語として捉えられるでしょう。

コミュニケーション

コミュニケーションについて、お話ししたいと思います。わたしは文学と語学の研究を専門に、日本語教育の研究分野を得て、なおその上に、機器を用いた応用言語学としての教育と研究で、コミュニケーションの課題にいきあたりました。文学と語学は継続して文化を追求していますが、教育を通してコミュニケーションの重要性に気づいたわけです。

いま、コミュニケーションを専門とする学部で、言語の学科に所属します。コミュニケーションとは何のことかよくわからなかった、いまもってそうですが、日本語でコミュニケーションをすることに置き換えて見ますと、22年間、携わってきている日本語教育が当てはまりますし、国語教育にも専門があったのですから、わかったような気もします。

考えてみると、そのコミュニケーションが言葉として難しいのです。発音もかなり無理をしています。マスコミ、ミニコミとか、次はフランス語からのようです、共同コミュニケとか、あるいはコミュニケートする、コミュニカティブと言ったりもします。日本語にとって、コミュニケーションという語は、どのような実態を意味しているのでしょうか。

すでにご承知のように、コミュニケーションは媒体としての通信手段です。マスコミュニケーションは、もっと言うと、いわばマスメディアを意味してきました。伝達、通信をさし、道具のことであったのです。とくに大衆伝達の時代になって、日本語でも使われ始めました。端的に見て、新聞紙や雑誌、テレビ、ラジオ放送など、伝達する手段です。

コミュニケーション学というのは、ものの本によりますと、1910年代から1920年代のころにその分析的な研究の萌芽があるようです。19世紀の半ばの電気電信の発明、そして映画の登場を受けてのことです。そのあと1950年代後半からコミュニケーションモデルの議論が盛んになって、電話機の双方向性がコミュニケーション学の理論化を進めました。

  つまり、コミュニケーションは日本でのコミュニケーション学の展開がそうであるように、社会科学のなかでマスコミの現象を取り上げるのが普通です。日本の大学では、情報科学と関連して、科目に、マスコミ教育が行われました。そこへ、異文化教育が取り入れられ、いまでは、国際コミュニケーションという枠で捉えられるようになってきました。

コミュニケーションを、さきにあげたカタカナ語辞典では次のように説明します。人間同士が、思想・感情などを伝え合う働き、その手段としては、ことば・身振り・文字・絵など、さまざまのものが使われる、とあります。ついで、伝達手段をいうこともある、とあります。思想・感情を伝え合う働きを第一に説明し、言語のほかの手段に意味を広げています。

この言葉の語源は、ラテン語で、他人とともにわかち合うの意です。英語ではcom-は、con-と同じで、ともに、の意味の接頭辞になりました。日本語で意思疎通となったのは、さきにも触れましたフランス語の用法からのようです。辞書を見ても、伝達する、伝え合うとあり、意思を疎通するのですから、思想・感情をわかりあうだけなのでしょうか。

それで、コミュニケーションが大事だ、とか、コミュニケーションが足らない、コミュニケーションが成立していない、などと使います。思想・感情が伝わらなければ、それは大変な場合もありますので、コミュニケーションと言うのはよほど大事なことです。もうすこし定義がないかと探して見ますと、E.Mロジャーズという人が、次のように言います。

ラテン語の語源comunisをもとにした説明だそうですが、コミュニケーションとは、相互理解のために参画者がたがいに情報をつくり、わかちあう過程、とあります。コミュニケーションという書物からの引用で、これは孫引きなのですが、その解説に、参画相互の共有という定義で定着した、とあります。情報を作り、共有することであるわけです。

 このように見ますと、わたしたちが使うコミュニケーションも、その意味合いが違ってきます。さきの説明に、さらに、情報を広義に解釈して、歴史・哲学・思想、文学・芸術・宗教などを含んでいて、人類の知的生産物を共有する過程、と考えることができる、社会科学を超えた広い人間科学だ、と規定しています。コミュニケーション学の可能性でしょう。

1980年代以降のアメリカでの動向です。その理論の広がりは1950年ころから30年にわたって、モデルの議論としてあるようですが、いまのわたしに負えるものではありません。しかし、コミュニケーションが双方向のものであり、相互作用に働くということは、ニューメディアやコンピュータ通信の実現とその影響が、研究の対象になってきています。

 いささか、端折ったところで申し訳ありませんが、コミュニケーションが必要だということは、情報をやり取りして、そこに共通する何かがある、それを作り出していくことだとしますと、伝達や伝え合うだけのものではないと思います。双方に同じ何かが実現しているのです。それがよくわかる、コミュニケーショを実現しようとした例を紹介します。

 メーカー名を具体的に言って恐縮です、日産自動車のカルロス・ゴーンさんは、コミュニケーションを非常に重要視しました。ご存知のように、会社の最高執行責任者となって、経営の建て直しに日本にやってきた人です。村上龍氏の、失われた10年を問う、放送内容をJMMで出版しました、それによると次のように、コミュニケーションをとらえています。

わたしたちには共通の言語がない、わたしは日本語をしゃべる会社を運営するところまでいっていない、そこで共通の言語として英語を使わなければならない、日本人と日本人でない人たちのあいだで、そのためには英語を使うことは、言葉や言葉の意味について高度の正確さが要求される、と述べ、会議でテーブルの上に出される語について指摘します。

コミットメント、アカウンタビリティー、コミュニケーション、ターゲットと言った新しい言葉が出て来るたびに、双方が同じことを理解しているということを確かなものにする必要がある、すべての重要な言葉は明確な定義をともなわなければならないという共通の理解、と述べています。すべてはコミュニケーションから始まるというわけです。

とてもわかりやすい話ですが、現実に実行するのは難しいことです。最初にコミュニケーションを実現しようとした例と申しましたが、実現した例となるでしょう。コミュニケーションはマネジメントの基本的なルールのひとつだ、最も重要なものだ、と言いきっています。業績を黒字にすると宣言していますから、ゴーンさんの活躍が注目されています。

次の言葉は、比喩的に興味深いものがあると思います。コミュニケーションは循環している血液であり、企業の体を生かし、協力にしていくものなのです、と言います。このほかにもゴーンさんは、コミュニケーションが双方向であること、コミュニケーションは自信と信頼の重要な要素であり、その要素として、それが透明性であることを言います。

発言に満ちたパワーには圧倒されますが、コミュニケーションが共通した理解を作り上げ、共有したものをやり取りしながら、掲げた目的に向かって進む姿が浮かびます。そこにはトップダウンと、ボトムアップのコミュニケーション、中央から周辺へだけでなく、周辺から中央へのコミュニケーションの、非常に重要であることがうかがえます。

ゴーンさんに、サッカーのパフォーマンスについての発言がありました。透明性は家庭やサッカーチームにも必要だ、と例をあげています。サッカーは、野球、相撲についでわたしは不熱心ですが、コミュニケーションの語例を採っているときに、こんなのがありました。サッカー日本監督として、その手腕が問われたのでしょうか。次のようです。

○ 複数のポジションを経験すれば、他のポジションのへの理解が深まり、選手同士のコミュニケーションの強化へとつながる。(日本経済新聞夕刊2000.9.11 コラム「人間発見」 ポジティブなエゴイスト サッカー日本監督代表 フィリップ・トルシェ氏) 複数のポジションをこなす「ポリバランス(フランス語で多機能性)」が、キーワードです。

このコミュニケーションの例には言葉とパフォーマンスの共有の問題があります。新聞記事などでコミュニケーションの用例をみていると、この例のように共通の理解と共有した行動で、キーワードにコミュニケーションを使っているのは、めずらしいでしょう。ちなみにほかの例です。言い換えをしていて、その用法にちょっと混乱があるものです。

○ 外食サービスなどでみられる“マニュアル敬語”ではなく、相手や状況を踏まえ、コミュニケーションを円滑にする機能を重視している。 (日本経済新聞朝刊2000.9.9) ○ 国語審は、敬意表現を「コミュニケーションを円滑にする重要な手段」として、学校教育の場などで指導するよう求める。(中日新聞朝刊2000.9.9)

あとの記事は括弧書きで、定義のように見えます。コミュニケーションを含む表現です。実際はどうなのでしょうか、これは中間報告ですから、あとの答申でどう表されているか、見守りましょう。また、どちらもコミュニケーションを円滑にする、と書きましたが、共有すべく、何かを共通するために、敬意表現でもって円滑にするとなります。

しかし、コミュニケーションを機能と見るか、手段と見るかでは、この二つの新聞記事の用法を見ただけでも、それぞれの記事に大きな違いがあるでしょう。前回の答申では、重要な事柄、としていました。国語審議会が、言わずもがな、の姿勢でいるように見えます。そこで新聞記事が推測して書きます。定義を定義として伝えないのが見えるようです。

コミュニケーションについて、言葉がもっている内容をお話ししてきて、皆さんの領域に近くなってきましたので、もう一つ、付け加えましょう。学習指導要領の国語の目標に、伝えあう力を高める、という文言が加えられました。この伝え合う力は、どうもコミュニケーションのことを指しています。さまざまな議論を呼んでいるでしょうか。

伝えあうの、あう、に議論があるものから、国語の伝えあう力は英語能力のコミュニケーションのことではない、国語独自のものだ、という議論まで、幅があるようです。もっとも多くを見たのでもありませんので、管見の限り、とも言えません。そのなかで、どうしても私に気なるのは、先生と生徒とで知識・知恵を共有すると言う視点がないことです。

どれも伝えあうことは言語を通して相手に適切に表現し、相手から伝達されたことを正しく理解すること、という説明が多いことです。そこには互いの立場や考えを尊重しながら、とあって、これは指導があってのことだろうと思うのですが、適切な表現も、正確な理解も、それが互いに実現したことを確かにすること、それが捉えられていないようです。

ただの伝達ではない、一方通行ではない、ということはそれでよしとしまして、伝達ができたことをフィードバックすることが、相手がどう理解したかを知ることが、わかりあうということです。そのために、伝えて、応えがあって、もう一度確認を伝えていくことが大事です。うざったくなること、カンケーネーことを、越えなければ実現しません。

コミュニケートは1.5往復のやり取りだと考えます。まず、これこれこうだよ、すると、そう、これこれこうだね、これで往復して、さらに、そうだよ、とか、わかったね、と0.5の往復となります。都合、三回行ったり来たりしているやり取りが連続すれば、それは往復の繰り返しでコミュニケーションが展開していることになります。

このやり取りはメールを使えばよく経験するところです。メールは即時性がありますので、そこで一言の確認を入れることが簡単です。また、日を置いて確認するときには実行を伴った伝達などの時です。なかには、何をわかりきったことをメールでしているのか、とばかりに、コミュニケーションを依然としたままの感覚でいらっしゃる方もあります。

伝えあうのが、コミュニケーションなのかどうか、国語と英語は違うので、そうではないという立場なら、伝達を双方で実現したときに、それは話しあうとどう違うのか、話しあうことは教育で重視して行ってきたのです。言語を通してなら、話しあえばいいわけです。理解しあうという言葉もあり、それはいま言う、伝えあうことをしてきたのでしょう。

伝えあうのが、ただ伝えるだけではない、伝わったことを表現し、理解したことを実行することであるなら、それはどのように表現するか、実行としてパフォーマンスがあるのか、ないのか、この場合のパフォーマンスは、言語運用のことです、はたして、お互いに一致が見られ、その内容に矛盾なく、さらにステップが踏めるかどうか、というものです。

コミュニケーションに、いままでの日本語になかった言葉の意味があるのですから、それは概念として新しいものです。わたしたちがこの語を用いて何かを進めていく時には、この語の定義や用法を確かめていくのは、当然のことでしょう。古典漢語を言葉として学んだときに、すでにそのようにしてきました。国語の枠は、漢字という言葉を離れます。

国語表現とコミュニケーションについて話をしてきました。コミュニケーションについて、カタカナの言葉の意味を定義して使うことが重要だとを付け加えました。カタカナ語のいくつかを見て、お手元に良質の小型の英和辞書を備えることをすすめます。国語と漢語と英語とが、日本語の常備辞書です。カタカナ語辞書があれば手助けになりましょう。

時間もだいぶたちました。お疲れであろうと思います。残りの時間に、最近、気がつくことを気楽に話したいと思います。国語の思想などと、大げさですから、話すほうは気楽でも、お聞きになるほうは構えてしまいますね。とりとめのないところから、コミュニケーションの語の使い方を、話しあうという語と対比して調べて、発見したことを話します。

コミュニケーションは16世紀に一度、日本に入ってきたわけです。古い形であったそうです。それが明治になって、フランス語辞典に見えたわけです。最初の訳語の、流通、が日葡辞書に採用されています。ただ、コミュニケーションとは記述していません。ルツウはその後、仏教の経典にあるルヅウと関係します。また、流布する、広める、の意味です。

そこで、明治になって経済の用語として貨幣の流通が定着して、一方ではコミュニケーションでなくて、意志の疎通が使われたのでしょう。これは言語の使用を超えた心理的なものを表したのでしょうか。そこへ、アメリカ英語の影響です。文明の機器の発明に伴ってできた語である、コミュニケーションは、やはり新しい概念となって使われたのです。

この概念は日本語にあっただろうかと思って、言葉をえらんで、伝える、語る、話す、をそれぞれ調べて分かったことがあります。古い発生から言えば、語る、がまずあって、次に、話す、ができます。伝える、は、ずっと使われて、コミュニケーションにも意味が一部、相当したのです。語り合う、話し合う、伝達する、という語で概念があるのです。

まず、語る、と、話す、という語は近世になって意義用法を交替しました。語り合う、は、男女の語らいを意味したことに注目します。近世も後期になって、遊女たちが、話し合う、を用いて、語り合うと交替させるように使っている時期があるのです。すでに、中世の早い時期に、はなす、が、はなつ、離ると語源を同じくして、成立していました。

すると、近世になるまで、話すと書く、この語はなかったことが分かります。なかったのではなくて、山内洋一郎氏が発見されたように、漢文の記録、日記に、談話する、として、ハナスがあり、禅の語にある、雑談が相当していました。少し解説が要ります。ハナスという語は、もとは放つの、離すであった、それが、どうも話すになって行くわけです。

語り部があって、古物語をするのであれば、室町期に登場したお抱えの御放し衆は、近隣諸国のようすや武芸談をしたかと思われます。語る、と、放す、では内容が異なっていたのです。御放し衆が職を失って、辻つじで武芸談をし、諸国話や落語となったようですから、放すとは、言葉を発する意味になります。話すが近代に使われるようになります。

そこで考えて見ますと、意思の疎通と言う点で、社会の歴史的状況を考慮してみて、上意下達の意味では、行われていたわけです。あえて、言挙げをしなかったのも、分かり合う、分かったということが前提であったのです。熟語では、同情、同士、そして同心ということばがあります。国語にも、分かり合っていた、という点では概念がありました。

国語での話し合いでは、コミュニケーションを意義として覆えないのは、媒体を用いて言葉をやり取りすること、つまり何かで伝えることが、近代になって新しく起こってきたからです。話し合う、という言葉が発生した当時には、耳で聞くか、手紙と言う手段しかなかった、話すのは、目の前の相手を意識してのこと、これが重要であったわけです。

コミュニケーションが日本語になって、新しい意味と用法を獲得します。国語の概念にひとつを加えるのです。言葉を使うから、話すことかといえばそうでもない、媒体があるので伝達することかと思えば、それだけでもない、国語が日本語の世界に広がって、新しい文明に対応して、作り出す、定義する言葉であり、新しい概念の世界です。

「国語」の思想  --おわりに

国語の思想と言うのは、漢字や仮名で表される概念を批判して見ると、歴史とともに展開してきた文明の影響を享受してきたわたしたちは、ようやく漢字文化の中から、近代になって日本の独自性があることを意識したけれど、その後の、新たな文明の影響もあって、かならずしもすべての概念を漢字では表しきれない思想である、ということです。

お話のはじめにに申しました、中国の滞在は、インターネットの実験をしてまいりました。中国が新しい文明に接するかのようにインターネットを通じて情報を得ていく様子は凄まじいものがあります。それで、英語を中国語に翻訳するのが大変です。資料に、英漢双解網絡詞典というのを購入してきましたが、略語などは、だいぶんローマ字のままです。

日本語はカタカナがあるからいい、日本語は賢い、とさかんに言ってくれるのです。漢字文化圏にいるわたしたちは、ソフトを日本語や中国語に変換していくらでも工夫をします。しかしハードに命令するためには、共通の言語が必要です。今のところ日本語でも中国語でもありません。実験はソフトの内容を日中双方で共有する方法を実験してきました。

話を戻して、日本語は、ある意味で国語の思想の限界を打ち破ってくれます。もちろん国語が発明した仮名文字で、わたしたちの文法の中核はできあがっていますから、日本語が国語であることに違いはないわけです。その学びの方法で、カタカナに採り入れた、あたらしい表現方法を用いて、さらに確かな文化文明を築いていけばよい思想です。

このような国語の思想という題目で、何の話しだろうかと思われた方が多いでしょう。それは、国語が何であるか、すこしたどれば先達の教えるところで分かります。国語は国字の代用でした。国字と言うのは和字のことであったのです。和字の和は、キリシタン文献で使われたように、その使い方で言えば、ポルトガル語のやわらげです。

一方で、ここに居られる方なら、和字正濫抄を思い浮かべていただけるかと思います。国語の実証学者、契沖が言葉の仮名遣いの乱れを正そうとした書物で、この場合の和字は文字使いのことです。また、和字を和語とも言いましたので、仮名文字で書こうとする和語は国語となるのです。そこには漢語、西洋の言葉を学んだ祖先の方法があったのです。

国語は近代になって、漢文による読み下し文をわが国の言葉として作られたものです。そこには、ひょっとして皆さんがこの話題に期待をされた、イデオロギーとしての国語があります。国語国字問題調査会が制定しようとした国家語があったのですが、言葉をそのように規制はできませんでした。国語によるイデオロギーは終わったかに見えます。

国語という語を見ていくと、必ずこの問題に突き当たるわけです。今は、そのほうに向かないで、とは申しましても、1930年代前後の国語の尊重精神と愛護の運動は1945年を超えて、現在の学習指導要領にもあります。単純な事実だけで判断するわけではありませんが、経済体制と同じく、文化行政は変わることなく続いて、国語はその延長にあります。

国語の思想を国語の表しうる言葉の概念ということで、とらえて見ました。言い足りないこともあって、思想が思想であるかどうか、お分かりにくかったかもしれませんが、時代の動きの中で国語が日本語の世界へと登場する状況をお話したつもりです。漢語で学んだわたしたちの言葉の使用は、かならずや、日本語を誕生させていくものだと信じます。

終わりに、日本をニホンとなぜ言うのか、それを明らかにできないわたしたちのことを言いましょう。わたしの見たところでは、これは中国の南方の発音、寧波に上陸して交流した人たちが確かめた発音だと推定したのです。古代に日本と書き、ヤマトを称しました。日本の呼称は中国の史書に登場して、しかし、発音は唐代でジーポンとなったでしょう。

いまのわたしたちが、国の名をどう呼んでいるのか、ニッポンか、ニホンか、漢字で書けば、日、にち、本、ほん、です。中国の人はリーベンと呼びます、と思えば、扶桑国という呼び方が話し言葉にあります。自分で、同じ自分の名前を二通りに発音し、表記すれば統一するという、それでアイデンティティーを確立できるのは、日本人だからです。

自分の名前を読み間違えられて憤然とするのが普通の場合ですから、それほどに、わたしたち日本人が特異なわけでもありません。ただ、ニホン、日本に加えて、JAPANであっても、扶桑でもかまわないのです。そう言うと実もふたもないわけですが、それが現実として取り巻く状況であり、自分たちの存在を認める手段であるわけです。

ニッポンと古代から言っていたかどうかは疑問ですが、まして、1934年に正式呼称とする臨時国語審議会の取り決めも、歴史的事情から有効性を持たないかのように見えます。それがたびたび、オリンピックのローマ字書きのために、あるいは内閣決定で外国への呼称の統一と国内の使用での許容とが採り沙汰されて、なお、決まらないままなのです。

それでよい、と言いたいわけです。国語が国語でなくなり、日本語となると言っても、漢字を用い、それを仮名で読み、ローマ字を用いても、それを日本語になまった発音のカタカナで書き、わたしたちの言葉の世界を広げているのですから、窮屈な思いをすることなく、これまでのように国語表現をしてコミュニケーションをはかりたいと思います。

ご清聴をありがとうございました。



国語表現とコミュニケーション  
平成12年度名瀬地区国語教育研究会
 2000年10月24日(火)  
於 ウィルあいち セミナールーム


はじめに
機械を扱うことのひとつ、ふたつ
インターネット・マルチメディア・モバイル
国語表現の特徴
コミュニケーション
国語と思想――おわりに


 


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