論集を合冊した。合冊にしたのは、その一 源氏物語テクスト論 附「日本国名考」、その二 日本霊異記と法談物 附「白居易の詩想」、その三 ことわりの語義と文化、その四 日本語教育など、そして別冊、日本語文法大辞典 抜粋である。平成二十年三月から、二四年、二六年、二七年と編んできた。通しページで、七二九を数えている。
それで、論集合冊のタイトルを雑文集としようと思った。昭和四八年に国語学雑談会に加わって八八回の研究会を主宰くださった恩師に、ざつだん、ぞうたんで十分、との思い出があって雑文は気に入る響きである。合冊の編集にあたってそれまでにオンデマンド印刷をしてくださった業者の方にパンダ王国など、お世話になっていたので、名をかりて、まさこと にしようと話していたら、匡の字を、まさ と読むことに、キョウ の音があるが、コウ の音はないという話に展開して、調べたら、そうでもない、反切の組み合わせで、去王とあるところ、これはまた、コウ の音で伝わっているから、匡太は、コウタ と言うのは正しい、ということだよと話して、それから、あれこれということなく、匡言にしようと決まった。まさこと を読みやすく、まさごと とする。 . . . 本文を読む
それは国語学だから日本語学の研究ではどうなるかをとらえなければならない、という言葉を耳にして、聞きなれたことではあるが、その立場を表明しての言及は事実の解明には役に立っていない。国語学が果たしてきた分析と、日本語学が果たしてきた、かどうか、じつはまだ、それは分明ではないのだけれど、日本語研究というのなら、日本語教育研究から進められてきたことというなら、それはそれで、理のあるところであるけれど、いくつか思い出すようなことである。国語研究で和文と漢文を区別して、和語のこと、漢語のことと闡明にしての議論を、国語学ではやっていた。漢文訓読による日本語研究であったろうに、訓点語学会は和語でない日本語という、いまにして思っても、おかしな立場を表明して研究を分けようとしていた。あれはなんだったのだろう。国語の祖語を追求しようとして、日本語の系統を論じようとしたら、国語は文献研究の証拠を求めて、祖語の探求を仮設としてするわけではない、とか何とか、学会の会場が凍り付いたものだった。国語学に和語漢語外来語があっても国語の現象であるとするならどれにも言葉としての、日本語であることには変わらない。国語の偏見にはしからしめるところがあるにしても、いまの時代は、いってみると外来語と和語漢語の拮抗である。日本語学ではというときに、かつて国語が持っていたらしい、国語をとらえる料簡があって、それ以外を国語としないような、そんな雰囲気を日本語研究と称して日本語の分析をのみよしとするのは、議論者がそれを、国語分析を理解しない、しようとしないのではなくて、斥けて良しとする偏見のほかなにものでもない。どこへいっても日本語である。 . . . 本文を読む