京都、高台寺の事 2010-10-24 09:42:24 | 歴史 高台寺廟屋 高台寺は豊臣秀吉の正室・北政所ねねが、秀吉の菩提を弔うため、徳川家康 の協力を得て慶弔11年(1606)に創建しました。ねねが建立を家康に依頼した とも聞いている。 境内には霊屋や開山堂など多くの重要文化財の伽藍が点在している。境内 奥には二件の茶室、傘亭と時雨亭(いずれも重要文化財)があり、いず れも千利休の意匠による建物と言われ、傘亭は番傘のように放射状に竹を組んだ屋 根が特徴になっている。
続「東慶寺のこと」 2010-10-24 09:06:34 | 歴史 家康により処刑を免除された千代姫(豊臣秀頼の娘の幼名)は剃髪させられ、鎌倉の東慶寺に送られ天秀法泰と名乗ることになった。彼女は形だけの尼僧ではなく禅の修業に熱心に勤めた。あの沢庵禅師の指導も受けたようだ。やがて第二十代の住持となった。この寺が後に縁切寺として有名になったのは彼女が関わったある事件が切っ掛けとなった。1639年(寛永十六年)会津藩主、加藤明成と家老、堀主水が対立し、堀の妻子が東慶寺に逃げ込んだ。加藤家は引渡しを要求したが天秀尼は寺法を盾に引渡しに応じなかった。堀主水は高野山に逃げ込んだが、その高野山でさえ堀を匿い切れなかった。こんな中にも天秀尼はひるむ事なく堀の妻子を匿い続けた。彼女は天樹院(秀頼の正室)を通じて将軍家光に「寺法を廃すか、加藤家を潰すか、二つに一つ」と迫った。もともと加藤明成の方に非が有ったこともあり、ついに加藤家は領地四十万石を没収される事となった。天秀尼は三十七歳でこの世を去ったが、これにより東慶寺は女人救済の寺として知られるようになり、江戸後期には、離縁を望む女が助けを求める駆込寺として存在するようになった。