GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

<安倍首相の所信表明を読んで>

2013年01月30日 | Weblog

 安倍首相の所信表明は、第一次安倍内閣時とはかなりの違いをみせた。「美しい国、日本」という自らの主義主張を優先したものではなく、明らかに世論を反映したものとなっていたからだ。経済再生を最優先とし、「大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略という『3本の矢』を推し進める」というものだった。第一次安倍内閣の所信表明を語った「戦後レジームからの脱却」という米国が目を瞠るようなニュアンスの言葉はどこからも探し出せなかった。それは自らの短命内閣に終わった反省と、その後、党首交代を繰り返した民主党政権を間近に観てきたことに起因する。そして、中国の経済躍進と軍事力増大を意識した新たな日米同盟構築の必要性を強く感じているに他ならない。

 私は以前から自衛隊を軍隊だと認めている。過去の大戦が帝国主義に基づく侵略戦争だったことも認めているし、米国の軍隊が、いまだに自国内にいくつもの基地を持ち、駐留していることも苦々しく思っている。かといって、中国やインドのように核を持ち、日米同盟破棄を主張したいと思っているわけではない。仮に日本が核を持とうすれば、米国や中国、周辺のアジア諸国からも単なる威嚇ではなく帝国主義の復活として受け止められ、北朝鮮以上に集中攻撃を受けるに違いない。幕末に不平等な日米修好通商条約を交わしながらも、その後、日本は世界には類を見ないイノベーション能力を身に付け、坂本龍馬が夢見た国際貿易によって大きな発展を遂げてきた国家だ。このことを決して忘れてはならないと思っている。今後もこのスタンスを堅持する以外に国家が生き延びる手だてはないからだ。

 気になっていた安倍首相の外交姿勢については、最初に「日米同盟を一層強化して、日米の絆を取り戻さなければなりません」と云った上で、本年が「東南アジア諸国連合友好40周年」という言葉を用いて、東南アジア全体で(米国・中国に)対処していくことが、地域の平和と繁栄に不可欠であり、日本の国益でもあると述べ、大いに好感が持てた。
 政権交代以降、株価がついに一時11,000円を越えるに至ったことは、新安倍政権にとって大きな追い風となている。2月下旬に渡米して日米首脳会談に向かう安倍首相は、手みやげとして2月1日から米牛肉輸入緩和を早々に実施することを表明し、社会保障費10%増、公共事業費16%増(農林水産省400億、学校耐震化200億)、を閣議決定して、2月下旬に今国会に提出する。削減する項目は7月からの地方公務員給与2,000億円、生活保護費の670億円とした。ロケットスタートを意識していた安倍首相にとって、新たなアベノミクスを打ち出す土壌が出来上がったと云える。

        

 決して順風満帆の安倍政権に水を差すつもりはないが、今日の朝日新聞のオピニオン記事で、米国在住の作家冷泉彰彦氏が興味深い自国分析をしていたので報告したいと思う。
 「明治維新以降の日本では、東洋の道徳と西洋の技術を持って文明開化をする『和魂洋才』だと云っていた。(大河ドラマ「八重の桜」での佐久間象山の言葉「夷を以て夷を制す」、これは私の共感部分)その感覚は今も続いており、日本の政財界のトップ層には、アングロサクソンの道徳観には屈したくないという悪い意味での反骨心があるようです。中国は今は共通ルールを守っていないように見えますが、国際的な価値観の共有という点で先を越されたら、日本は孤立してしまいます」
最後に私と同意見のことをおっしゃっていたので、これも記しておきます。
「産業構造上、日本は決して孤立できない国です。米国だろうが中国だろうがイスラム圏であろうが、それこそアルジェリアでも、全世界全方位外交、経済中心の国際協調で生きていかなくてはいけない」

 冷泉氏が述べる<国際的な価値観の共有>とは何か。それはトヨタやユニクロが世界に先駆けて推進してきた企業スタンス<共存・共栄の精神>だと私は解する。3.11以降日本は大きな方向変換が必要だと語ったことがある。英語力をもっと身に付けて、国際的な価値観を学び、世界を相手に貿易(坂本龍馬の念願)し、日本の技術や能力を披露して欲しいと。円高の流れは一人勝ちし過ぎたことが背景にあった。トヨタやユニクロは先んじて海外に生産拠点を移すことで円高の流れを逆にフォローの風としてきた。現地での雇用拡大や技術の輸出は、まさに共存・共栄を意味している。出来上がる高品質な製品は国際的な価値を有しているのだ。
 私は60歳を間近に迎えた老輩だが、人生の先輩として改めて未来ある若者たちに叫びたい。もっと英語力を含む豊かな語学力を身に付け、国際的な価値観を理解し、全世界に羽ばたけと。昭和の初め、資源を求め世界を駆けめぐった勇気ある商社マンたちのように。そして、理工系を目指す人たちには、日本の真の人的エネルギーになることを意識して、更なるイノベーションを目指せと。

     

http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg7537.html?t=57&a=1


「2013 全豪ファイナル」

2013年01月28日 | Weblog

2013年の最初のグランドスラム、全豪テニスが終わった。

男子はジョコビッチ、女子はアザレンカ、それぞれがNO.1シードを守った。

試合は常に残酷だ。

勝者は常に一人だからだ。

観客はその残酷なシーンを観て歓喜する。

 男子シングルス決勝はジョコビッチとマレの戦いだった。彼らは同い年の25歳、14歳の頃からお互いに世界を舞台に戦ってきた親友でもある。昨年のオリンピックで金メダルを獲得したマレーは、その勢いでグランドスラム大会の全米オープンで初めて優勝した。その5ヶ月後、今大会の全豪でジョコビッチは全米オープンの雪辱を果たした。今後もこのような戦いが観られるだろう。

     

 王者フェデラーがナダル、ジョコビッチに王位を譲りはしたが、流れるような華麗な動き、多彩なボール捌きは健在だ。今後の全仏、ウィンブルドン、全米のグランドスラム大会から今年も目が離せない。ナダルよ、早く帰って来いよ!

 車いすテニスの王者、国枝の2年ぶりのカンバック優勝も感激した。昨年のパラリンピックの決勝の相手に再び圧勝したのだ。彼は今大会、ダブルスでも優勝を果たし、また年間グランドスラム達成が見えてきた。ガンバレ、国枝!

     


「PPM LIVE IN JAPAN,1967」

2013年01月25日 | Weblog

やっぱり買っちゃいました。
一番長いつきあいの良公君がMDにして送ってくれたのですが、
車のカーオーディオにCD録音したくて、買っちゃいました。

    

アマゾンから送られてきたCDをゴルフに行く際に挿入して自動録音が始まったのですが、
なんと満杯ですと表示がでてしまいました。(なんてことだ!)
車を買って6年、今まで何枚分を自動録音したことか、
しかし、この大事なCDが録音できないなんて! 
(聞きそうもないCD録音を削除する以外しかないかな)

私が選ぶベスト5アルバムは、「PPM IN CONCERT」、「FOUR WAY STREETS」、「AMERICA」、「Let it be」、「Thriller」だ。
特にライブ盤には目がない、いや、耳がない(?)。 
アコースティックのライブ音に溜まらない魅力を感じるからだ。

今回購入した「PPM LIVE IN JAPAN,1967」もゾクゾクしながら聞き入った。
今もPCに入れて聞きながら書いている。
聞き慣れない「NO OTHER NAME」や
「THE OTHER SIDE OF THIS LIFE」には少し驚いた。

ライブ録音では初めて聞く
「HURRY SUNDOWN」と「WELL,WELL,WELL」にはとても感動した。

ただ選曲では「PPM IN CONCERT」の方が好みの曲が多いために
ベスト5入りはできなかった。しばらくは1967年のPPMに浸ることになりそうだ。

     

 PPMのギターを真似てスリーフィンガーを覚え、アルペジオを練習しました。コーラスも知り、数多くのコード進行を学びました。そして、自ら作詞・作曲まで行うようになりました。音楽を聴くだけでなく自ら演奏できるようになって、楽しみは2倍にも3倍にも豊かになったように思います。同じ80年の人生なら誰もが、深く豊かに人生を送りたいと思うはず。私の場合、常にギターや音楽が身近にありました。そんな生活が、どれほど自身の人生を豊かにしてくれただろうかと想わずにはいられません。その立役者がまさにPPMと云えます。仲間との深い絆の一部にPPMが、間違いなく存在しています。本当に私の人生を豊かにしてくれてありがとう、とPPMに心から感謝の気持ちを捧げたいと思います。 


「ユニクロ」と「鎌倉パスタ」

2013年01月24日 | Weblog

 もう衣類は買わないと思っていた昨年度、しかし、幾つかの衣類を購入してしまった。その一つが防寒用の防風ズボン。チノ生地にフリースっぽい裏地が付いていて、とても暖かく履き心地も良かったのだ。冬のゴルフには欠かせない衣類となった。(品質の向上が、購買欲をそそる)
 夕方、打ちっぱなしの練習後、連れ添いに連絡してピックアップし、もう一本色違いを購入するために近隣のユニクロに向かった。ところがユニクロの棚はもう春物が並び始め、目的のズボンは見当たらなかった。ガッカリしながらスタッフに尋ねると、「在庫は、もうこちらだけです」と行って中央付近の棚まで連れて行ってくれた。ウエスト79サイズ(私のサイズ)だけが残っていたのを見つけ、うれしくなった。黒色を選ぶと連れ添いは「黒は色が落ちするから、こっちの方がいい」とさり気なくチェンジを示唆。私は一瞬考えて、仰せに従いカーキー色のズボンをレジまで持って行った。「会員様、本日は5%引き」のポスターあり。連れ添いは素早く携帯画面を出してレジスタッフに提示し、確認。私は呆然と二人のやり取り傍観。(一緒に来て良かった) ズボンの裾治しに15分かかるとのこと。

    

その間、隣の「鎌倉パスタ」で食事することにした。
先日20%引きのハガキが送付されてきていたのを思い出した。
「ハガキ、持ってくればよかってね」と云うと、
「持ってきてるよ」と即座の返事。
「あのハガキ、テーブルの上にあったけど、よくバックに入れていたね」
「あなたがユニクロにスボンを買いに行きたいと云うから、ひょっとして隣に行くかな、と思って」
(完全に私の思考回路を把握されていた)

「鎌倉パスタ」はサンマルクグループのお店。他にはベーカリーレストラン「サンマルク」、「サンマルクカフェ」、「すし処 函館市場」、ベーカリーレストラン「バケット・BISTRO309」、広東炒飯店「石焼ごはん倶楽部」 の合計6社からなる。もともとこの「鎌倉パスタ」店の隣に「すし処 函館市場」もオープンしていたが、2、3年で撤退し、現在は他社のラーメン専門店に変わっている。周囲2,3キロには「スシロー」や「くら」等のすしチェーン店が数店舗もあり、回転寿司の激戦区と云える地域。「すし処 函館市場」は、ワンランク高い価格帯のお店なので、勇気ある出店だと思っていたが、予想していた結果となった。(ラーメン店は繁盛しているようだ)

    

    

 約半年ぶりの「鎌倉パスタ」。私のお気に入りのお店だ。何がお気に入りなのかというと、焼き立てのパンがおかわり自由で、パスタの茹で方を「堅め」などと云う必要もないアルデンテの調理がされていること。そして、トマトソースやクリームソースに野菜や魚介類の味が絶妙に混ざって、しかも、それぞれに違った味わいがあること。店内の落ち着いた雰囲気は、一番よく利用する回転寿司店(「くら」)や中華料理店の騒がしさと違って、ゆっくり食事を味わえること。

 昨年の夏、岸和田の「鎌倉パスタ」を利用したが、数種類の焼き立てパンのバーが設置されていて、バイキング方式に変わっていたので少し驚いた。この住之江店も同じようなシステムに変更されていた。この店ではいつも幼い子供がいる家族連れのお客様と遭遇する。家族ずれにはこのバイキング方式の方が利用しやすいだろうと判断できた。

     

 「変化への対応」はどの企業にも欠かせない命題。「ニーズを素早く察知して迅速に対応できる柔軟な骨格作り」は企業のトップには絶対に必要な意識だ。「変化の中に進歩が潜んでいる」それを観察・分析・選択・決断がトップには欠かせない。
 


「死闘!ジョコビッチ対ワウリンカ戦」

2013年01月21日 | Weblog

 3連覇を狙う第1シードのノバク・ジョコビッチ(セルビア)は第15シードのスタニスラス・ワウリンカ(スイス)に1-6(25分)、7-5(60分)、6-4(45分)、6-7(68分)、12-10(102分)でなんとか競り勝った。

    

 ファイナルセットはまさにスーパープレイの連続だった。勝負はどちらに転んでもおかしくない展開、死力を尽くしての戦いになった。
 勝利した瞬間、5時間の今期最長試合を制したジョコビッチはユニクロのポロシャツを破り捨て(こんなシーンは見たことがない)、大きな雄叫びを上げた。

      

負けたワウリンスカのフェデラーを彷彿させる見事なシングルのバックハンド、そして軽快に動き回る粘り強いレシーブ力には驚愕した。フェレールの脅威の動きを見ていただけに、ジョコビッチの強打をものともしないこんなに強い選手がスイスにいたのか、錦織圭の前途はまだまだ多難が待ち受けていると思わずにはいられなかった。

 第1セットは、まずワウリンカが1-6で勝ち、第2セットも2-5でワウリンカがリードしていたが、ここからジョコビッチが脅威の反撃を始め7-5で勝利。第3セットもジョコビッチがようやく1ブレイクして6-4で勝利、第4セットで勝負が決まると思われたが、なんとタイブレイクにもつれ込みワウリンカが6-7で勝利した。この時点で勝負の行方はまったくわからなかった。ファイナルセットも勝利の女神はどちらも降臨せず、一進一退を続け、なんと6-6から12-10まで、死闘が続いた。(ファイナルセットはタイブレイクがない)このセットだけで102分も要したのだからその激しさは想像できよう。最後は精神力と体力が、ほんのわずか上回ったジョコビッチが勝利をもぎ取った。

       


「圭、全豪4回戦で敗れる!」

2013年01月20日 | Weblog

     

圭は絶好調のフェレール相手に善戦したが、第4シードの壁は思いの外厚かった。 

第1セットから圭はアクセル全開でフェレールに立ち向かったが、 

何度もブレイクチャンスがありながら、あと1ポイントが取り切れなかった。 

この体力と精神力の浪費が最後まで後を引いたように思えた。 

攻撃をし続けるという課題に圭は果敢に挑戦したが、 

その度にフェレールのギアが上がり、体力・精神力ともに上を行った。 

左右に振って勇気を出して前に出、ボレーで決めるという作戦は有効だった。 

今後も磨いて行って欲しい。  
         

ランキングが上にも関わらず、 

2008年の全米と昨年のオリンピックに圭に負けていたフェレールの反骨精神が 

圭のベスト10入りの野望より上回ったという試合だった。 

     フォト

圭の左膝の故障が長引かないことを祈りたい。 

圭、お疲れ様!


「錦織圭、全豪ベスト16進出!」

2013年01月19日 | Weblog

     

錦織圭が全豪で3回戦に勝利し、2年連続でベスト16に進出を決めた。
スコアは7-6,6-2,6-3。

全豪での圭の成長はサービスのレベルアップに尽きる。
センターへの鋭いサーブと大きくそれるワイドサーブだ。
しかも、デュースで追いつかれた時に、
このサーブで即座にアドバンテージをもぎ取り、
キープするシーンを何度も観たような気がする。
3回戦のラストゲームもそうだった。

昨年までの圭には観られなかったシーンだ。
もともとレシーブ力は世界トップクラスであるだけに、
サーブ力の著しい成長は今年のグランドスラムベスト4進出に期待を抱かせる。

左膝のテーピングが、これからますますタフな試合が続くだけに少し心配だが、
勝利インタビューでは「大丈夫でしょう、疲労は残っていますが」と笑顔で答えていたので、悪化しないことを祈っている。

 14歳で米国のIMGニック・ボロテリー・テニスアカデミーにテニス留学した圭君は、3年後、2006年、1月の全豪オープン男子ジュニアダブルスでベスト4、6月の全仏オープン男子ジュニアダブルス部門で、日本男子史上初の4大大会ジュニアダブルス優勝の快挙を果たした(この大会では男子ジュニアシングルスでも8強に入っている)。この全仏のシングルス決勝に進んだラファエル・ナダルが、決勝前日の練習相手に仮想ロジャー・フェデラーとして錦織を指名して話題となった。ナダルはこの時、すでに圭のショットの中にフェデラーの多彩なショットの片鱗を見つけていたのだろう。 

ナダルがメキメキと実力をつけてランキングトップになるのを観て、
テニス観戦にのめり込んだ私、著しい成長を見せてくれた圭は同じ日本人だけに
うれしさやのめり込みようは、ナダルの時以上だ。

舌っ足らずでたどたどしく答えていたインタビュー姿も、
昨年の始め頃から自信に満ちた話しぶりに変化した。
少年の顔から青年の顔に変わって行ったのは、
夢が夢でなくなり、夢が明確な目標へと変化したから。
それをしっかり自覚したからこそ、表情は一変したのだ。
幼い少年を米国へ渡らせた彼の御両親は、きっと息子の成長を心から喜んでいるだろう。

 男の子が青年になっていく過程を見るのは親として複雑な気持ちだ。日頃見ている言動は、子供の頃と別段変わりはしないのに、時折見せる厳しげな表情や周囲の人への節度ある言葉遣いに戸惑いを持ちながら、大人になってきているんだなと安心感も沸いてくるからだ。いつの間に、と親は思ってしまう。

     

 石川遼君が優勝インタビューに答える内容は最初からすでに大人言葉だった。そんな彼と比較して2歳上の圭君は、最初の頃は本当にまだ子供だった。小学校の頃からゴルフ場でメンバー達に「一緒にラウンドさせてくれませんか?」と頭を下げて頼み込みに大人に混じってプレーしてきた遼君との経験の差だ。
 遼君のお父さんは送り迎えだけでプレーせず、帰りの車中で1番ホールから18番ホールまで、どんなホールを、何番(ウッド・アイアン)を持って、どう攻めたか、どんなミスをしたのかを必ず聞いたという。それらの経験が、後のインタビューでベテランプレーヤーのような受け答えする姿につながった。親がかりの教育と大人の世界に突き放して体験させる、この反復経験が幼くして大人言葉を話す遼君を育て上げた。
 それに対して、14歳で米国留学した圭君は、英語圏で生活しトレーニングを積んだため、日本語でのインタビュー機会は少なかったであろう。それがあのたどたどしかった受け答えの要因に一つだと思う。

 さて、4回戦の相手は今大会の前哨戦で優勝しているフェレールだ。彼とは相性がいい。2008年、全米オープンで 6-4、6-4 、4-6、2-6 、7-5の死闘を制し、昨年のオリンピックでも6-0、3-6、6-4でも勝利している。しかし、ランキングをほとんど下げたことのないフェレールは決して容易に勝てる相手ではないはず。たぶんフルセットのハードな試合になるだろう。このワクワク感をじっくり楽しみたい。


「東京家族」(試写会)

2013年01月18日 | Weblog

     

(ネタバレあり)

試写会で「東京家族」、観てきました。

泣けました。

良くできていました。

映画の中で亡くなったお母さんには失礼かもしれませんが、あんな死に方が私の理想です。
きっと多くの年配者が私と同じ思いになるのではないかと思います。
実母が同じような亡くなり方をしたので、どうしても思い出さずにはいられませんでした。

映画の冒頭から主演者のセルフがぎこちなく(いつもの山田洋次監督の映画タッチでなかった)、
出演者も今まで使った俳優も少なく、不自然さが目立ちました。
山田監督はいつも使ってない俳優たちを敢えて起用したのではないか、
映画の中盤でその理由が私には理解できました。

兄弟姉妹といった関係でも、それぞれに家族ができれば
残念ながら自然とバリアーなるものが生じます。
その一種の白々しさを意識的に醸し出すために、
役者を選び、演技もベタにしなかったのだろうと感じました。

     

母親が息子の嫁をどのようにみるのか?
私は父親だけにわかリかねるものがあります。
ある母親の弁、「あんなに手のかかる息子によく一緒になってくれたもんだ、ホッとした」
「大事な息子を取られたような複雑な気持ち」
「大事な息子を宜しく頼みます」男親にはない母性愛が表れます。

男親は社会現場で多くの女性を観てきているだけに、どこか嫁を見定める視線が鋭くなります。
映画の中でもそれを感じさせる場面がある。
映画を観ていて母親のすべてを受け入れる大海のような母性愛を改めて感じました。

   

映画の中の父と子(男)の関係は、私自身を振り返っても共感できるものが多々ありました。 
私はそんな関係に陥らないように、 
息子が幼い頃からいろんな手段を用いて努力して来たつもりです。 
しかし、予想以上に効果があったかは不安です。

子供が親に愛されてきたことを理解してくれれば、
親としては最高の責務を果たしてのではないかと私は考えています。

30歳になった息子がどう感じてくれているかは、
彼のみぞ知るですが、感触では「まあまあかな」という判断をしています。

(実際はどうかわかりませんがね・苦笑)

        


「2013テニス全豪オープン」

2013年01月16日 | Weblog

「クルム伊達、全豪1回戦突破!」

 ロシアの強豪N・ペトロワ(12シード)を6-2,6-0で圧勝した。しかも、(42歳の伊達)全豪史上最年長勝利というおまけ付き。何度も伊達の試合を観戦してきたが、復帰後では最高のパフォーマンスを見せてくれた。特に下半身の粘り強いスピーディな動きには驚かされた。ガンガン打ってくるペトロワのサービスにもすぐに対応し、随所に見せる得意のライジングショットに、苛立ちを隠せないペトロワ。コート外に押し出されながらの伊達のスーパークロスショットに、ペトロワも仰天眼で棒立ちだった。解説の愛ちゃんも「反省する所など全くなし」のベタ褒め。2回戦、3回戦の勝利も見えてきたように感じる試合内容だった。

     

「森田あゆみも一回戦突破!」

彼女もとてもパワフルなショット、小気味のいい動きを見せてくれました。錦織や伊藤、添田も一回戦を勝ち抜き、日本勢がこんなに頑張っているグランドスラムは初めてです。今年は何かしてくれそうな嬉しい予感を感じさせる全豪スタートとなりました。ファンのシャラポワも6-0、6-0という素晴らしい立ち上がり。TV観戦ではゴルフについでテニスが好きなだけに、今年の日本勢から目が離せません。

     

「日本のホープ、錦織圭、全豪2回戦突破!」(7-6,6-4,6-1)

 圭は2回戦も素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた。4,5年前に初めて彼のプレーを見たが、興味を引いたのは、ナダルのようにボールを取りまくるレシーブ力だった。そして、プレイ中に何度もみせるフェデラー並のファインショットや、あんな体勢であそこを攻めるかという意外性、ショットの多彩さだ。
 これはゴルフプレーヤーの遼君にも云える。若くて経験不足にも関わらず、時折トッププレーヤーだけが見せる神技を平然とやってみせるのだ。だから興味をを持ち、その後もプレーを追っていくことになる。そして、彼等の成長に頷きながら、何度も目を瞠ることに遭遇する。この熱い視線が多くのファンを作っていくのだろう。
 第1セットはベロックが最初にセットポイントを握ったにも関わらず、見事なショットでADを獲った後、ワイドにサーブを打つと見せかけるようにボールを上げながら、センターに早いサーブを放ち、一発でタイブレイクに持ち込んだ。その後、ベロックは手も足もでなくなった。最もプレッシャーがかかる場面で、あんなサーブが打てるようになった錦織選手、見ていて本当に惚れ惚れする。トップテンは間違いなく遼君よりも間近だ。

     

 

<全豪3回戦、森田対セレナ>
6-1,6-3で負けはしたものの、昨年の対シャラポワ戦や、今年の土居対シャラポワ戦のようではなかった。本当にいい負け方だったように思う。昨年の大敗の後、森田は積極的にパワーアップに努めたように感じる。下半身が非常にがっちりしてきたように感じるからだ。足の動きも非常にいい。身体全体を使ってのフォアーもバックもいい。ボールの勢いはセレナに拮抗していた。しかし、サーブ力が圧倒的に足りない。特にセカンドサーブになると120h/km台に落ちる。これでは確実にセレナはリターンを決めらる。今後の大きな課題だろう。しかし、森田は昨年1年間の取り組んできた課題の成果をしっかり実感できた試合内容だったと思う。第2セットでは、なんとセレナのゲームを一度でもブレイクしたのだから。そして、あの時、あのショットが入っていたら、ゲームを取れていたのに。そう思うショッショが幾つも発見できたはず。ストローク戦では頑張れたのだから。きっと目標が明確になったと思う。負けはしたもののセレナを本気にさせて、207h/kmの今期最速サーブを打たせたのだから。大きく成長した森田あゆみに大拍手をあげたい!


「八重の桜」(2)

2013年01月14日 | Weblog

子供の世界は限られている。
知識と経験が少ないからだ。
だからこそ興味を持ったときの集中力は、狂気と呼べるかもしれない。
幼い八重の鉄砲への興味は、親の激しいお叱りにもかかわらず、
結局動じることはなかった。
狂気と呼べる何かがあったに違いない。
後の松蔭こと吉田寅次郎の黒船密航もまた狂気と云える。
自分の目で確かめないと気が済まない気持ち。
手にしなければ、いてもたってもいられない気持ち。
幼い頃誰もがそんな経験(=狂気)に遭遇する。
密航は死罪と云われたにも関わらず、
寅次郎は大人になっても、好奇心という狂気が消えることはなかった。

江戸に留学した八重の兄覚馬は砲術研究から
象山が云う「真の攘夷は夷を持って夷を制す」の意味を理解し
蘭学や進んだ西欧知識の取得に目標が変化していく。
幼い八重や若い寅次郎の狂気に似た好奇心、
覚馬の砲術から蘭学研究への変心も
根底に流れているのは<知識欲>ではあるまいか。

          

●写真はフランス海軍陸戦隊によって占拠された長州長府の前田砲台。砲台が占拠されるに至ると、高杉晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に高杉晋作、24歳であった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。(ウィキペディアより) 

ペリーの来航以来、蒸気で動く黒船を筆頭に新式銃や反射炉、
エレキなど、西欧そのものが怒濤のように流れ込んできた。
未開発国の人々が、テレビや無線、
飛行機を初めて見たときの仰天と似ているに違いない。
一握りの人たちしか知らなかった西欧文明が、
農民・町民を含め衆知の事実となったのだ。
1862年、最も勇猛果敢と云われた薩摩が薩英戦争で英国に破れ
1863~64年、下関戦争では長州までが列強(仏・英・米・蘭)に破れた。
攘夷が不可能であると幕府をはじめ多くの人々が思ったに違いない。
火縄銃や射程距離の短い大砲ではどうにもならないと知ったのだ。
圧倒的近代兵器の差が敗戦の最大の理由だった。
そして、その結果異常とも思える<知識欲>をかき立てた。
大衆をも含めた膨大な知識欲が、何百年も続いた鎖国から解き放たれ、
明治以降の近代化を支えて行ったに違いない。
しかし、米国の大統領制、議会制民主主義というイデオロギーは
勝や龍馬に力では思想として発芽するには至らなかった。
真の議会制民主主義による議会開催は、
1946年日本国憲法が制定されるまで、長きの時間を必要とした。
龍馬が進めた大政奉還から約70年もの年月がかかったのだ。

まるで小さな子供の世界のような日本に、
怒濤のようなに新しい文明がなだれ込んだ。
そして、何百年も続いた士農工商という差別制度が
消え去るのではないかという甘美な匂いを漂わせながら、
狂気のような文明開化が、大衆に支持されて行った。


「40年ぶりの再会」

2013年01月12日 | Weblog
 今宮高校卒業後、40年ぶりに再会ができたS・秀夫君。彼は第一回ラブ・アップルコンサートにも出演しましたが、本当にあの時以来の再会です。一度も同窓会には顔を出さず、昨年暮れの同窓会出欠ハガキで(欠席したのですが)、初めて返信してきたので住所がわかりました。今年の初めに連絡を取り、急遽、今回の新年会が開催できた次第です。
    
 小学校の先生という職業は、とてもパワーのいる仕事ですが、今年同じく60歳になる秀夫君は、とても元気そうに見えました。しかも、学校生活を楽しそうに話す彼の様子を見ていて、天職に就いていたんだと感じたほどです。教室には12弦ギターや12万もする長野の名品ギター、バンジョまで置いてあるそうです。そんな教室は日本のどの小学校を探して見あたらないと思います。話を聞いているだけで楽しそうな授業風景が想像できました。
 現在、休みの日には、老人ホームにもギターを持って歌いに行くボランティア活動も行っていると話していました。定年後は卒業生や父兄が集まれるような歌声喫茶がしたいなあと私たちに楽しそうに語っていました。
 高校3年生の時、私とは同級でしたが、彼の卒業後のことを誰一人耳にしていなかっただけに実は心配していたのです。しかし、小学校の先生というハードな職業に従事しながら、あの頃とまったく変わらない明るさと純粋さを持ち続けていた秀夫君、本当に拍手を送りたい気持ちになりました。
       
 今夜は同席の拓君や良公君も、私と同様に至高の時となったはず。仲間が幸せに40年間を過ごしてきたことを知るのは、きっと喜ばしいと思うのです。
 開催場所は、昨年の暮れ、連れ添いと二人だけの忘年会をした<ワインと肉料理のYUZAN南船場店>を選びました。
 料理長に頼んで個室を用意してもらい、今夜も最高の肉を食べさせてくれました。新年会の2時間半は今年一番の時間となりました。高井料理長、本当にありがとうございました!

             


「幕末、開国の祖とは?」

2013年01月10日 | Weblog

長く続いた鎖国からの開国を初めて幕府や世間に建白した人物とは?

高島秋帆がその人ではないか、と私は思っている。

 高島秋帆は幕末の兵学者、砲術者(高島流砲術の創始者)、開国通商派と呼ばれている。1798年、長崎町年寄の3男として生まれ、長崎で育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学んだ。その後、私費で銃器等を揃え1834年高島流砲術を完成させた。1840年、清がイギリスとの戦争であるアヘン戦争に敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『泰西火攻全書』、俗に言う『天保上書』という意見書を提出した。長崎町年寄という町人身分で江戸幕閣の中枢に向かって意見具申をするとはどういうことなのか。ましてや、渡辺崋山や高野長英が、外国の状勢を論じ幕府の攘夷政策を批判して投獄された「蛮社の獄」はその前年(1839年)の出来事である。この国を憂う強い気持ちが、開国の基になったのではあるまいか。

●「蛮社の獄」
 渡辺崋山は『慎機論』を、高野長英は『夢物語』を著して幕政を批判。その趣旨は<モリソン号は日本人の漂流民を伴って来たものであり、これを受け取ることもなく、砲撃して追い払うごときは、仁義に反するものである。このようなことをしては、いたずらに外国の不信を招き、侵略の口実を与えてしまうことになる。それゆえ、ひとまずは入港を許し、漂流民を受け取った後、国法に従って交易に関しては拒否すべきである”
 現代の感覚では至極尤もな考えであるが、当時幕政批判は重罪であり、崋山や長英の論文も思いを同じくする仲間内で回し読みされただけであった。しかし、彼らの著作は意外に反響を呼び、特に『夢物語』は多くの人に読まれたようである。人の口に戸は建てられず、ついには幕府の知るところとなり、崋山や長英は逮捕されてしまった.

 この熱い想いが江川英龍に継がれる。江川家は代々韮山の代官で、1834年父の後を継いだ英龍は支配地の民政に心を砕き、種痘まで行っている。伊豆沿岸の海防を命じられて、高島秋帆に師事する。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方の一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目してパン(堅パン)を焼いた人物でもある。(日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれている)英龍は屋敷近隣の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したとされている。今でも日本中で使われる気を付けや右向け右や回れ右等の掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族の石井修三に頼んで日本語に訳させたものである。

                              

 そして、今年の大河ドラマ「八重の桜」の初回でも顔を見せた佐久間象山に受け継がれる。象山は若い頃、数学に興味を示し、熱心に学んだという。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく役だった。象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、兵学者、朱子学者としての状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍の下で、兵学を学び、1842年に「海防八策」を上書。しかし、温厚で思慮深いと評判の江川は「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法を用いていたため、象山の近代的で、自分が書物から学んだことは、公開を基本とした姿勢と相反するものだった。象山は自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説明した上で断っている。象山の豪放的とも云える性格が弟子であった勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬に影響を与えぬはずはなかった1854年吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。1862年赦免。1864年、幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺された。

               

 象山の弟子だった勝海舟は、自分の妹を象山に嫁がせており、二人の関係は単なる師弟関係を超える絆があったと思われる。勝は16歳で家督を継ぎ、1845年から永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。1953年のペリーが来航して一気に政局が混乱した際、老中首座の阿部正弘は幕府の決断だけで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。この意見書がその後彼の人生を大きく変えることになる。
 阿部正弘は勝の意見書に目を止め、勝は幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得て念願の幕臣となった。1860年には咸臨丸で渡米し、帰国後の1862年、安政の改革時に軍艦奉行並となり、神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張して実現させた。明治維新後は、参議、海軍卿、その後伯爵、枢密顧問官となり政府の日清戦争に終始反対した。幕臣だった勝が明治政府からも信頼され、散っていった大久保や西郷よりも長生きしたことは、彼がリベラルな考えを持った人望厚き人物であったことが伺える。
 勝や象山の弟子で、薩長同盟を考案した坂本龍馬も、勤王や佐幕、敵や味方といった狭い考えに捕らわれない俯瞰的視野を持つリベラルな考えの持ち主だった。土佐の同じ郷土で育った龍馬の遠縁にあたる武知半平太との思想観の違いを思うとき、人が持って生まれた「性格は宿命である」というソクラテスの言葉が脳裏に浮かんでくる。

               

 幕末の開国の祖を求めて語ってきたが、人との出会いによって引き起こる化学反応に大きな感銘を受ける。それは多くの人に影響を与え藩や国だけでなく世界をも動かしていくからだ。しかし、若い頃に勤王というまるで異端な宗教に似た思想にとらわれ散っていった若き獅子たちの命を考えると、たまらなく切なくなるのは私だけではないだろう。

 幕末の開国と攘夷という思想の差はいったい何処から生まれるのだろうか、このことを考えずにはいられない。私は「過ぎた信望は身を誤る」のではないかと結論付けたい。人や思想を神のごとく信望してしまうと自己の判断力が鈍っていくと考えるからだ。しかし、自己を優先しすぎると、聞く耳を持たない異端者となり果てる。これが仏陀や親鸞が押し進めた<中庸>という考え方と似ているのではないか。言い換えれば<リベラル思想>だ。常に平等に耳を傾け、自らの良心(=神)に問いかける自立・自律の精神ではないだろうか。誰かをただ真似たり、ただ信望するのではなく、自分自身を磨くために信望する自己向上的思想である。偶像崇拝を禁じた彼らの思想とも合致しているのではないかと思っている。

 人は誰かに影響されることを嫌う生きものだが、そのくせ指示・命令されることを安易に受けいる生きものでもある。この相反する矛盾に満ちた自信のない弱き生きものこそ、人間の本質ではないか。このことをしっかりと受け止めてさえいれば、軌道修正はいつでも可能だ。そして、いつでも向上のための階段を上がることも可能だと私は信じている。

                          (参考資料:ウィキペディア)


「結婚について」

2013年01月07日 | Weblog

<結婚>ついて考えている知人がいるので、わずか数十年前に生まれただけの頼りない先輩ですが、結婚歴30年を越える先輩として自分の思いを語ってみたいと思います。

 まず結婚に至るには沢山の「Yes」を必要とします。まず一番は、この人と結婚したいと思っても相手の「Yes」が必要です。そして、一般的に自分の親、相手の親の「Yes」も必要です。披露宴とはその他の沢山の「Yes」を宴会形式にしたものと考えていいでしょう。最近では大きな披露宴も少なくなり、冠婚葬祭はこじんまりと行われることが多くなってきました。大金がかかることも理由の一つですが、一つの理由としてはウォークマンに代表される個人主義が浸透してきたせいではないかと私は思っています。○○家の息子、娘と一緒になるという家系を優先した時代から、個人を優先する時代へと変化したのです。しかし、家系を優先する結婚も当然なくなってはいませんが、少なくなったのは事実です。

 結婚は、法律的には「婚姻」と呼ばれています。日本国憲法第24条1項に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定されています。広辞苑では「婚姻」の定義として、「夫婦間の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生まれた子が嫡出子として認められる関係」と示されています。

 さて、ここからが私の持論です。私は「結婚は奇跡である」と考えています。最初に沢山「Yes」が必要と云いましたが、出会いそのものが第一の奇跡なのです。同じ年代の人口を150万人(最近はもっと少ないですが)として、連れ添いは5歳下なので同年配も入れて6倍の900万人の男女がいて、そのうち女性は半分として450万人。その中から私が一人を選ぶ確率は450万分の1となります。しかも、その相手がウンというかは、Yes or Noの50%の確率。そうすると私の結婚は、900万分の1の確率になるのです。
 ジャンボ宝クジの当選は300万分の1の確率。だから出会って結婚に至る確率は奇跡と云えます。また、添い遂げる夫婦の日本の確率は70%(1998年度の結婚組数は79.2万組、離婚組数は24.3万組)。この比率で計算すると私たち夫婦が添い遂げる確率は1,286万分の1となります。私はこの奇跡を大切にしたいと思っています。

 『結婚とは、赤の他人が偶然知り合って愛し合い子供を育み、その子供を自立させながら自らも自立し、幸せに添い遂げること』というのが、私の結婚観です。憲法で夫婦は同等の権利を有すると謳っていますが、同等とはいったいどのようなことをいうのでしょうか。私は法学部法律学科出身ですが、世の中に同等など存在しないと考えています。1953年生まれの古い気質かもしれませんが、「妻や子供は俺が守る」という意識をとても強く持っています。就職したら親の世話は意地でも受けないとも考えていました。だから相手の給料や貯金を当てにしての結婚など考えたこともありません。結婚式でさえ親を頼らず自費で行いました。卒業するまでに親が莫大な金を私につぎ込んできたことを知っていたからです。
 結婚後は銀行に入金された私の給与の管理は、天引きで自社株を購入すること以外は、すべて大学を出たばかりの連れ添いに任せました。決して頭の悪い人を選んだつもりはなかったし、きっと彼女も安心し運命共同体としてスタンスを理解して貰えると考えたのです。結婚当時は、安い給料で彼女もやりくりに苦労したでしょうが、私の給料は二人のもの、彼女の持ち金は彼女のものと考えていました。だから彼女の貯金がいくらあるのかも彼女が言い出すまで知りませんでした。
 私たちの結婚は、スタート時は彼女の両親から反対されていたので、彼女の荷物は本当に紙袋2つしかありませんでした。私が結婚式場や新婚旅行代を出していたので懐具合が淋しく、「新婚旅行先では私が出す」と云ってくれた彼女に、今でも感謝しています。子供が生まれるまでに、彼女の貯金はすべてなくなったと後で聞きました。それでもお互いに親に無心することなく、ここまでこれたことは、彼女の手腕が大だったということでしょう。

さて、結婚相手を選び、結婚という人生の大事業を行う若い人たちへ「相手探し」の助言をしておきましょう。
1)人によって態度や言動が変わるような人は避けること。
  分け隔てなくどんな人でも同じように対応ができる人を選ぶべし。
2)物事を自分で決められる人を選ぶべし。
  頻繁に仕事の愚痴や他人の悪口を云って自分を正当化する人は避けましょう。 
3)可愛い、健康的、清潔感がある、笑顔がいい、暗算ができる、泳ぎが上手い、英会話  ができる、力が強いetc.。自分にはない具体的長所、特性がある人を選ぶべし。
単純に尊敬できる長所がある、それだけでも二人の関係は長持ちするものです。
4)親を大切に思わない相手とは結婚しないこと。
  (自分の親を愛せない人は他人も愛せない)
5)二人だけの時間の長短が、二人の関係に大きな影響を与えると思っておくべし。
肉体的相性もとても重要な要件だと思います。

もう一言、女性が相手を選ぶポイントです。
 無人島に親子3人(夫・妻・幼児)が流され、食べ物は大きなおにぎり一つ。こんな状況に陥ったとき、どんな分け方をするのか。
1)三等分する。
2)子供にしっかり食べさせ残りを夫婦で当分する。
3)子供と妻が食べる。
4)夫が全部食べる。 
「最近は殆ど1)、2)、3)を選択する優しい男性ばかり」と嘆いたのは長い間銀座でバーのママをしている有名な女性。「一人で全部食べてしっかり体力をつけて、本当に無人島なのか、食べ物がないのか、少しで体力を付けてより遠くまで行って、家族を守る為の手だてを見届けて欲しい。男が生きる手だてを考えなければ家族は死んでしまう。それくらいの気概を持って家族を守って欲しい」 優しいだけの男なら掃いて捨てるほどいるから注意しろと云ってようです。フィリップ・マーローは「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」と云っていますが、本当に必要なのは強さだと私は思います。強さがなければ優しくはなれないのだから。

韓国の大ヒットドラマ「冬のソナタ」の中でこんなセリフがありました。
「男性は知性、感性、野性の三拍子が揃ってなくては!」
女性の皆様、
「どんな事があってもこの人は私を守ってくれる」そう感じさせてくれる男性を選ぶ事。銀座のママはそう言っているような気がします。

結婚も人生も同じスタンスです。それは「何を信じ、何を守ろうとしたか」で表せるのではないか、私はそう思っています。

          

 2010年の12月11日の朝日新聞に、夫婦の会話を5分間聞けば91%の確率で、15年後に離婚するかを予測する米国の心理学者ジョン・M・ゴットマン氏の話が掲載されていました。彼の研究では、別れないためには以下の7つの点が大切だということだったので、そのままでご紹介します。  

1)相手の興味や感情について良く理解していること。 
  相手の好み料理や相手の人間関係を把握している。 

2)相手への思いやりと感謝の気持ちを忘れないこと。 
  相手を侮辱したり非難したりせず、過去のよい思い出を共有したり 
  相手の良い点をいつも褒めたりします。 

3)相手から逃げず、真剣に向き合うこと。 
  日常ささいなことでもしっかりと会話し、愛情の交流を行います。 

4)相手の意見を尊重すること。 
  お互いのマイナス感情を隠し合ったり片方が相手に常に指揮命令を行ったりせず、 
   尊重と譲歩を繰り返します。 

5)夫婦の間で解決できる問題だけに集中して取り組むこと。 
  夫婦の問題は、すべて解決できるわけではなく、永続するような問題も多々あります。 
   しかし、こういった問題は大きくしないように心がけます。 

6)夫婦間に生じた行き詰まってしまった問題を上手に乗り越えること。 
  しかも、無理に解決するのではなく、日常生活に支障がなくなる程度まで、 
  互いに理解や譲歩を行います。 

7)二人で分かち合える人生の意義を見つけること。 
  結婚生活で、高い目標を共有することで、夫婦の文化を創り上げることができます。 
   
「非難」「侮蔑」「自己弁護」「逃避」を「四つの危険要因」とし、避けるべきものと定義。 
                                           (12/11の朝日新聞朝刊より)


「住吉っさんでのおみくじ」(2013年)

2013年01月04日 | Weblog

 正月になると今年の運勢が気になるものです。初詣では必ずおみくじも引きたるなります。今年の初詣は春日大社に行きましたが、息子のお守りだけ購入しました。おみくじは、たとえ凶を引こうが年1回、住吉っさんだけ。凶以外のおみくじは自身の財布の中に1年間保管します。というのが連れ添いが作った我が家の決まり(私は黙って従うだけ)。今から住吉っさんに行き、帰りに実家の父との親子将棋6番勝負に挑みます。連れ添いは3年連続の大吉と思ってましたが、尋ねると2年連続だそうで、私が一昨年の凶を引き、昨年、小吉を引いたことも覚えていました。凶の場合は片手で木の枝に結ぶ(困難な行いを達成した、修行したことになる)ことによって凶を吉に転じる)ことにしています。このように日常の些細なことを楽しみに転じていく、これが我が家の憲法の基となっています

    

   

    

     

 住吉っさんでのおみくじ結果は「中吉」でした。2年連続「大吉」の連れ添いは、今年はなんと「大凶」でした。この10年間風邪引きさえなかった健康な人でしたが、今年は注意した方がいいようです。
 親父との将棋の勝負は、就寝中のため延期となりました。住吉大社から粉浜商店街に行く途中に「やろく」という老舗のレストランがあります。今どき珍しい三代も続いている老店舗です。大衆化路線に走らず、私の幼い頃から価格帯が高いメニュー構成でした。「やろく」の焼きめしが美味しかったという記憶がいまだに残っていいます。その「やろく」が南海電車高架したにコロッケ専門店を出店していたので、初めて食べてみました。

    

          

 薄いカレー味のタマゴコロッケ(200円)が名物だそうですが、私にはイマイチでした。立ち食いには不向きなのかもしれません。実家のすぐそばにある内山精肉店のコロッケの方(65円)が懐かしいコロッケの味そのもので私は好きです。幼い頃は5円と10円のコロッケを販売していました。現在販売している一個65円のコロッケオンリーで、当時販売していた10円コロッケ、そのままです。衣がしっかりしていた5円コロッケの方が好きだったのですが、復活を望んでいるは私だけでしょうね…。

 いまだに続く老舗にはそれなりの芯が通ったスタンスがあります。これを築けるか、ここに初代の苦心があります。二代目、三代目がその芯の継承ができるかどうか、が最大の分かれ目となります。物品の販売では時代の流れを読む力、取り入れていく力が大切です。食べ物を売る店は、かんごに変わらない味を適正価格で提供して行く力、新しいものも取り入れ加工して老舗の味を追求できる力が絶対条件となります。前者も後者も欠かせないのがなじみのお客様への真摯な姿勢・尊敬心・感謝する心です。店舗内の全スタッフの関係を含めてお客様と店舗との信頼関係の構築こそが、老舗には最も大切なことがらです。


「2013年 初詣(奈良:春日大社・東大寺・興福寺)

2013年01月01日 | Weblog

元旦に初詣したのは新婚の年(1981)名古屋での2年参り以来。つまり32年ぶりということになります。正月休みも盆休みもない仕事だったので、今年は元旦に初詣しようと思いました。選んだ所は奈良の春日大社。

 阪神高速から第2阪奈道路抜けるとすぐに平城京跡に到着。今回は素通りせずに見学。

    

そして、いざ春日大社へ。奈良県庁裏の民間の駐車場に要領よく駐車(1日1,500円)。(市営の駐車場は満車で、道路も大渋滞)北上してまず東大寺の大仏さんを見学。小学校の頃、大仏殿の柱の中を通り抜けた記憶があります。奈良に異動になった息子も幼い頃、通り抜けました。あんな狭い所を良く通り抜けれたと今更ながら感心しました。

    

    

    

    

そして、いよいよ春日大社に向かいましたが、表参道中程からはさすがに人の流れもストップ。本殿手前200mからはタイムコントロールして流れを調節していました。息子に渡すために「勝守」(お守り・600円)を購入。(雑念に勝って欲しい願う)表参道を下るともう17:00。日は傾き夕暮れになっていました。奈良公園抜けて興福寺に向かいましたが、なんと本殿は平成30年まで修復とか、残念! 薄暗くなった境内にある南円堂で、三度目の健康祈願をしました。この年になると野心や欲望など消え失せ願うのは家族の健康以外にないのが自分でも驚いてしまいました。そんな自分に気がついて、それでは向上心がなさ過ぎると少し反省し、ある野心を追加し祈願しました。

    

    

     

    

    

そのまま南下すると近鉄奈良駅近くの商店街に遭遇。時刻は17:25。息子の職場はJR奈良駅構内にあります。因果は巡るのか、正月も盆も決して休めない職業を選んだ息子。彼がこれからの30年間に何をするので人生が決めると云って過言ではありません。私たち親は、お守りも手渡しただ見守るだけです。連絡一つ入れませんでしたが、仕事場で息子は頑張っていました。私はきっとびっくりすると思っていたのですが、「来ると思った」と云われ少しがっかり、サプライズとはなりませんでした。でも喜んでくれたような表情を見せてくれました。

    

    

   

 

JR奈良駅構内にある息子の職場近くにあるアイスクリーム専門店で、大好きなアイスクリームを注文。看板を見てフローズンヨーグルトがお奨めと知りましたが、ときすでに遅し。行きは60分ほどかかりましたが、帰りはなんと45分で自宅に到着しました。次に奈良に行くときは薬師寺、唐招提寺を訪れたいと思っています。皆様、2013年も天然万年青年の私を宜しくお願い致しまーす!