「ロンサム・ダブ」(1989年:西部劇MTV映画)
まず、私が最も涙を流した最高の西部劇を紹介します。「大人になる話」は、この映画の後にお話します。映画の字幕付きDVDはまだ販売されていませんが、レンタルビデオは4巻・6時間でTSUTAYAの棚にあります。西部劇ファンだけでなく、もっと多くの人に見て貰いたい作品です。原作はピューリツァー賞受賞の有名な作品です。この映画の主役を演じたガスのロバート・デュバル、不器用なウッドロウを演じたトーミー・リー・ジョーンズはその後もその役柄を、どの映画でもいまだに演じているように感じます。とにかく二人の演技はまさにアカデミー主演男優賞ものです。本当に本当に心から奨めたい最高質の大人の作品です。過激なアクションシーンがなく、最初は淡々と物語は展開しますが、その分後半は涙なしには決して見ることができない展開へ変貌していきます。きっと素晴らしい作品として記憶に残るでしょう。
(物語)
メキシコに近いテキサスの小さな町「ロンサム・ダブ」で、元テキサスレンジャーの隊員だったガス(ロバート・デュバル)とウッドロウ(トミー・リー・ジョーンズ)は初老にさしかかってはいたが、身を持て余していた。そこに遊び仲間だった若いジェイクが久しぶりに帰ってきた。そして夢の土地“モンタナ”で牧場を開く話で盛り上がる。彼らは仲間を募り、メキシコに侵入し夜盗たちが集めた牛や馬を強奪した。そして長年住み慣れた「ロンサム・ダブ」を捨て4.000キロ離れたモンタナへの道を踏み出した。ガスとも関係のあった町の美しい売春婦ローリー(ダイアン・レイン)は、惚れていたジェイクに誘われ彼らと旅を共にすることになる。ローリーに惚れていた老いた酒場主は、悲嘆にくれて酒場を焼いて自分も命も絶ってしまった。
ガスは陽気で遊び心のある性格だったが、ウッドロウは正反対で無骨者で頑固な性格だった。性格は違っても、二人はお互いを認め合い固い絆が根底に流れていた。牛を追いながら育ていていくという単純でしかも過酷な作業に若いジェイクは、途中で嫌気がさして仲間から離れ、悪党達の集団に入っていく。悲しむローリーを慰めるガス。その後の二人の哀しい恋の行方。様々な人との出会いが何かを残しながらも消えていく。腹に子供がいるにも関わらず、恋人を追って町を去っていく女性を捜すひ弱な夫の保安官とその子が旅の道連れとなっていく。牛を追う4,000キロの旅はまさに人生そのものというべき旅へと変貌していった…。
旅の途中、残忍な殺しをした馬泥棒たちを保安官らと遭遇したガスたちは、元テキサスレンジャーの経験をいかして協力する。しかし、追いつめた馬泥棒の中にジェイクがいるのを知る。残忍な殺しの現場を見てきたガスたちは、泣きながら逃がしてくれと叫ぶジェイクを許すことができなかった。男たちは<夢のモンタナへの道>を守るために切り捨てるべきこととして進んでいくしかなかった。それが西部の掟だった。
先住民に襲われローリーが略奪される出来事が起きた。レンジャー時代から追い続け、逃げられた先住民の凶悪なブルー・ダックと知ったガスたちは、必死にダックを追いつめる。牢屋に閉じこめたが、脱獄して二階から空を舞ってダックは自害する。ガスは奴隷のような扱いを受けて精神的に病んでいたローリーを最愛のクララに預ける。彼女は馬に蹴られて植物人間となった牧場主の妻となっていた。そんな彼女と最後の別れを惜しみながらも、帰ってくるとは云えないガスだった。ガスの包み込むような深い抱擁と優しい眼差しにローリーはジェイクへの憧れとは違う本当の愛を感じ始めていた。しかし、ガスはそんなローリーの気持ちを感じつつも報いることができない愛だと知っていた…。
ようやくモンタナに辿り着いたとき、 最悪の出来事が起こった。ガスが先住民に襲われ足に重傷を負う。ウッドロウ達がようやくガスを見つけたときは、両足が壊疽に冒され切断しなければ死ぬと医者から宣告される。しかし、誇り高いガスは死を選ぶのだった。彼の固い決意を知るウッドロウは、涙を堪えてただ見送るしかなかった。ガスは死の間際にクララと過ごしたテキサスの想い出の地に死体を埋葬してくれとウッドロウに過酷な遺言する。それは棺桶を4,000キロ運ぶことを意味していた。
「ロンサム・ダブ」から連れてきた少年ニュートもいつの間にかひげを生やす若い青年に成長していた。そんな彼に牧場を託し、再び苦難の4.000キロの道をただ一人で引き返すことになるのだった。ニュートは昔、ウッドロウがある売春婦に生ませた自分の子供だったが、それを口に出して云えるウッドロウではなかった。父としての責任を一度も果たしたことがなかったからだ。牧場を任せることでニュートに知らしめることしかできない不器用な男だった。
1年以上もかかる命懸けの過酷な旅が始まった。腐敗を防ぐためにロウで固めた死体を命をかけてクララの元に送り届けることが友情の証だった。テキサスのクララの元へ辿り着いたウッドロウは、無骨な性格の為にクララやローリーに語りかける優しい言葉を持ち合わせてはいなかった。クララが泣きながら責めても、ウッドロウに返す言葉などあるはずがなかった…。
………………………………………
自分の生き方を器用に変えられない二人の男の生き様を通して、現代人がどこかに置き忘れてきた男の誇りを思い出させるかもしれません。憧れや恋に恋するような若き女性が、真の愛とは何かを学べるかもしれません。何千頭もの牛を4,000キロも離れたモンタナへと追って行く旅は、想像以上に過酷で命をも賭けた道程となります。私は幼い頃「ローハイド」という人気TV番組を見て西部のカーボーイに憧れたものでしたが、当時そんな過酷さや命懸けの旅など想像もできませんでした。
大人になるということはいったいどういうことを云うのでしょうか?
小学校の校庭を大きくなって見た人は、その狭さに愕然とした記憶があるはずです。小学校当時、こんなに狭いとは思いもしなかったはずです。また幼い頃、親からあの道路を越えて向こう側には行かないように、あの川向こうには行かないように、あの電車道を超えては行かないようにといった注意をされたことがありませんか?それが自転車を乗りこなせるようになると一気にその境界がなくなります。どんどん行動範囲が広まり、その分視野が広がっていきます。電車も一人で乗れるようになると突然世界は変わります。大人になるということは、この変化ととても似ているように思います。つまり現実に見える世界が広がり、しかもそこにいる人たちの存在を知ることが、実は大人になることに直結しているのです。
幼い頃、ただ怖かった大人の喧嘩シーンも実は子供の喧嘩と同じだったことを知ります。自分の悲しみや怒りが周囲の人も、離れた世界に生きている人も同じような感じる心の持ち主だったことを知ります。そして歴史や地理、生物や自然を勉強することによって自分と社会の関わりがもっと明確になっていきます。これが大人になって行くことです。分かりやすく云えば、視野が広がり、あらゆる存在が多くの情報の蓄積によってより明確になり、自分の位置が分かる、これが大人になることなのです。
これを逆説的に云えば、最低限の情報量が大人になるためには必要だということを意味します。算数や国語、理科や社会や音楽の学習も大人になるために大切な知識の蓄積なのです。経済のことや社会の出来事、世界で起こっている事象についての知識も自立した大人が正しい判断を下すためには必要な事柄なのです。「子供だなあ、おまえは」と言われるのは「知識が足りないなあ」と云われていることと同義語だと思って下さい。100%の知識の充実なのど現実にはありえません。それは永遠に大人になれないことを意味しているのかもしれません。
久しぶりに大好きな「ロンサム・ダブ」見直してこんなことを感じてしまいました。
間違いなくお子ちゃまでは見られない大人の西部劇であることは間違いございません。
長いのでお暇な時を見つけて大人になろうとしている恋人と見るのが、
実は一番適しているように思います。
きっとこれからの人生の一部が見えるかもしれないからです。
まず、私が最も涙を流した最高の西部劇を紹介します。「大人になる話」は、この映画の後にお話します。映画の字幕付きDVDはまだ販売されていませんが、レンタルビデオは4巻・6時間でTSUTAYAの棚にあります。西部劇ファンだけでなく、もっと多くの人に見て貰いたい作品です。原作はピューリツァー賞受賞の有名な作品です。この映画の主役を演じたガスのロバート・デュバル、不器用なウッドロウを演じたトーミー・リー・ジョーンズはその後もその役柄を、どの映画でもいまだに演じているように感じます。とにかく二人の演技はまさにアカデミー主演男優賞ものです。本当に本当に心から奨めたい最高質の大人の作品です。過激なアクションシーンがなく、最初は淡々と物語は展開しますが、その分後半は涙なしには決して見ることができない展開へ変貌していきます。きっと素晴らしい作品として記憶に残るでしょう。
(物語)
メキシコに近いテキサスの小さな町「ロンサム・ダブ」で、元テキサスレンジャーの隊員だったガス(ロバート・デュバル)とウッドロウ(トミー・リー・ジョーンズ)は初老にさしかかってはいたが、身を持て余していた。そこに遊び仲間だった若いジェイクが久しぶりに帰ってきた。そして夢の土地“モンタナ”で牧場を開く話で盛り上がる。彼らは仲間を募り、メキシコに侵入し夜盗たちが集めた牛や馬を強奪した。そして長年住み慣れた「ロンサム・ダブ」を捨て4.000キロ離れたモンタナへの道を踏み出した。ガスとも関係のあった町の美しい売春婦ローリー(ダイアン・レイン)は、惚れていたジェイクに誘われ彼らと旅を共にすることになる。ローリーに惚れていた老いた酒場主は、悲嘆にくれて酒場を焼いて自分も命も絶ってしまった。
ガスは陽気で遊び心のある性格だったが、ウッドロウは正反対で無骨者で頑固な性格だった。性格は違っても、二人はお互いを認め合い固い絆が根底に流れていた。牛を追いながら育ていていくという単純でしかも過酷な作業に若いジェイクは、途中で嫌気がさして仲間から離れ、悪党達の集団に入っていく。悲しむローリーを慰めるガス。その後の二人の哀しい恋の行方。様々な人との出会いが何かを残しながらも消えていく。腹に子供がいるにも関わらず、恋人を追って町を去っていく女性を捜すひ弱な夫の保安官とその子が旅の道連れとなっていく。牛を追う4,000キロの旅はまさに人生そのものというべき旅へと変貌していった…。
旅の途中、残忍な殺しをした馬泥棒たちを保安官らと遭遇したガスたちは、元テキサスレンジャーの経験をいかして協力する。しかし、追いつめた馬泥棒の中にジェイクがいるのを知る。残忍な殺しの現場を見てきたガスたちは、泣きながら逃がしてくれと叫ぶジェイクを許すことができなかった。男たちは<夢のモンタナへの道>を守るために切り捨てるべきこととして進んでいくしかなかった。それが西部の掟だった。
先住民に襲われローリーが略奪される出来事が起きた。レンジャー時代から追い続け、逃げられた先住民の凶悪なブルー・ダックと知ったガスたちは、必死にダックを追いつめる。牢屋に閉じこめたが、脱獄して二階から空を舞ってダックは自害する。ガスは奴隷のような扱いを受けて精神的に病んでいたローリーを最愛のクララに預ける。彼女は馬に蹴られて植物人間となった牧場主の妻となっていた。そんな彼女と最後の別れを惜しみながらも、帰ってくるとは云えないガスだった。ガスの包み込むような深い抱擁と優しい眼差しにローリーはジェイクへの憧れとは違う本当の愛を感じ始めていた。しかし、ガスはそんなローリーの気持ちを感じつつも報いることができない愛だと知っていた…。
ようやくモンタナに辿り着いたとき、 最悪の出来事が起こった。ガスが先住民に襲われ足に重傷を負う。ウッドロウ達がようやくガスを見つけたときは、両足が壊疽に冒され切断しなければ死ぬと医者から宣告される。しかし、誇り高いガスは死を選ぶのだった。彼の固い決意を知るウッドロウは、涙を堪えてただ見送るしかなかった。ガスは死の間際にクララと過ごしたテキサスの想い出の地に死体を埋葬してくれとウッドロウに過酷な遺言する。それは棺桶を4,000キロ運ぶことを意味していた。
「ロンサム・ダブ」から連れてきた少年ニュートもいつの間にかひげを生やす若い青年に成長していた。そんな彼に牧場を託し、再び苦難の4.000キロの道をただ一人で引き返すことになるのだった。ニュートは昔、ウッドロウがある売春婦に生ませた自分の子供だったが、それを口に出して云えるウッドロウではなかった。父としての責任を一度も果たしたことがなかったからだ。牧場を任せることでニュートに知らしめることしかできない不器用な男だった。
1年以上もかかる命懸けの過酷な旅が始まった。腐敗を防ぐためにロウで固めた死体を命をかけてクララの元に送り届けることが友情の証だった。テキサスのクララの元へ辿り着いたウッドロウは、無骨な性格の為にクララやローリーに語りかける優しい言葉を持ち合わせてはいなかった。クララが泣きながら責めても、ウッドロウに返す言葉などあるはずがなかった…。
………………………………………
自分の生き方を器用に変えられない二人の男の生き様を通して、現代人がどこかに置き忘れてきた男の誇りを思い出させるかもしれません。憧れや恋に恋するような若き女性が、真の愛とは何かを学べるかもしれません。何千頭もの牛を4,000キロも離れたモンタナへと追って行く旅は、想像以上に過酷で命をも賭けた道程となります。私は幼い頃「ローハイド」という人気TV番組を見て西部のカーボーイに憧れたものでしたが、当時そんな過酷さや命懸けの旅など想像もできませんでした。
大人になるということはいったいどういうことを云うのでしょうか?
小学校の校庭を大きくなって見た人は、その狭さに愕然とした記憶があるはずです。小学校当時、こんなに狭いとは思いもしなかったはずです。また幼い頃、親からあの道路を越えて向こう側には行かないように、あの川向こうには行かないように、あの電車道を超えては行かないようにといった注意をされたことがありませんか?それが自転車を乗りこなせるようになると一気にその境界がなくなります。どんどん行動範囲が広まり、その分視野が広がっていきます。電車も一人で乗れるようになると突然世界は変わります。大人になるということは、この変化ととても似ているように思います。つまり現実に見える世界が広がり、しかもそこにいる人たちの存在を知ることが、実は大人になることに直結しているのです。
幼い頃、ただ怖かった大人の喧嘩シーンも実は子供の喧嘩と同じだったことを知ります。自分の悲しみや怒りが周囲の人も、離れた世界に生きている人も同じような感じる心の持ち主だったことを知ります。そして歴史や地理、生物や自然を勉強することによって自分と社会の関わりがもっと明確になっていきます。これが大人になって行くことです。分かりやすく云えば、視野が広がり、あらゆる存在が多くの情報の蓄積によってより明確になり、自分の位置が分かる、これが大人になることなのです。
これを逆説的に云えば、最低限の情報量が大人になるためには必要だということを意味します。算数や国語、理科や社会や音楽の学習も大人になるために大切な知識の蓄積なのです。経済のことや社会の出来事、世界で起こっている事象についての知識も自立した大人が正しい判断を下すためには必要な事柄なのです。「子供だなあ、おまえは」と言われるのは「知識が足りないなあ」と云われていることと同義語だと思って下さい。100%の知識の充実なのど現実にはありえません。それは永遠に大人になれないことを意味しているのかもしれません。
久しぶりに大好きな「ロンサム・ダブ」見直してこんなことを感じてしまいました。
間違いなくお子ちゃまでは見られない大人の西部劇であることは間違いございません。
長いのでお暇な時を見つけて大人になろうとしている恋人と見るのが、
実は一番適しているように思います。
きっとこれからの人生の一部が見えるかもしれないからです。