GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

龍馬伝「怪物 容堂」

2010年04月27日 | Weblog
 容堂(豊信)は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称され、共に佐幕派(幕府を擁護)だった。13代藩主・山内豊熈、14代藩主・山内豊惇(3才)が相次いで急死し、山内家は断絶の危機に瀕した。この時、分家で当時22歳の豊信が候補となり、老中の阿部正弘に働きかけて藩主に就任した。まさか分家の容堂が藩主になれるとは彼自身考えもしなかっただろう。幕府に対して特に老中の阿部には恩義を感じたに違いない。22歳まで酒や詩を愛する分家の御仁だったが、一躍松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬らと共に幕政に参加することになった。この後、彼らと共に公武合体派として活躍した。容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代の流れを止めることは出来なかった。

 さて、今回の「怪物、容堂」では公武合体派でありながら尊王攘夷派の武市達を黙認しながら、股肱の臣であった吉田東洋暗殺(1862年)に怒りを感じている複雑な心境をとてもうまく描いていたように思います。龍馬は名を隠してこの怪物と出会いますが、どのように思ったのでしょうか?

 今回は勝と共に歩いて多くの人と出会いますが、一番印深かったのはジョン万次郎でしょう。10年以上実際にアメリカで勉学してきた彼の言葉に感銘を受けたに違いありません。特にプレジデント(大統領)は、農民であろうと、商人であろうと、手を上げて名乗り出(立候補)、入り札(=選挙)によって決められることや大統領が血縁関係で踏襲されないないことを知って、どのように感じたのでしょうか。

 私は議会制民主主義の存在を次なる目標にしたであろうと感じています。西郷や桂は薩摩や長州という藩の力を背景に幕府を倒し、その後藩閥政治を行いましたが、龍馬が生きていたら彼らの政治をきっと嘆いたに違いありません。

 龍馬のような考え方(平等で合理的思想)の人物が万次郎の話を聞くのと武市のような尊皇攘夷の急進派が聞くのとでは大きな開きがあります。勝との出会いが万次郎との出会いを生んだのですが、志が似通ったもの達がまるで磁石のように引き付け合う様子は見ていてもこちらまで心踊るものがあります。

 反対に武市の影となって暗殺を繰り返す以蔵は、龍馬と幼なじみでありながら武市の元で暗黒の世界に落ちていきます。龍馬と会っていると心安まるものを感じながら武市の影となって離れようとしない以蔵。学問を嫌い、考えることは避ける、自分で判断するのではなく、判断は上のものに任せる。こうした若者が面倒をみてくれる武市から離れられないでいるのは至極当然のように思えますが、私は残念でなりません。

 自分で大小の用を足し、自分で自分の服を着て、ちゃんと箸を持って食事をする。これが<自立>の始まりです。親や先生は<自立>を促進させるべく接していかなくてはなりません。不幸にも以蔵の周囲にはこうした人たちが欠落していたのかもしれません。しかし、大切なのはやはり自分で学びたい、自分の人生を生きたいという強い想いです。そして自らの道を切り開く時、新たな人との出会いが生じ、成長という変貌を遂げるのだと思います。

 私が残念だと思うのは、武市のような人物であっても自分の主義主張に合う人間を利用する卑劣な手段に流れてしまうことです。これは野球で勝つために、点を取るために送りバンドを命じる監督とは明らかに一線を画していますが、聖戦と称して純粋な若者に自爆テロを命じる連中には同じ卑劣なものを感じてしまいます。ジハード(聖戦)はもともとは「目標をめざして奮闘・努力する」という意味からきており、戦争は含まれていませんでしたが、「異教徒との戦い」として使用されるようになったと聞いています。私的には純粋な若者を利用したあまりにも卑劣な手段と言う他ありません。これからの武市や以蔵の末路を思うと胸が締め付けられるな思いになります。

龍馬伝「勝麟太郎」

2010年04月20日 | Weblog
 前回のラスト、龍馬は加尾から軍艦を作っている勝海舟の話を聞きつける。<軍艦を作る>この発想自体、龍馬にとってまさに青天の霹靂だったに違いない。そのときは軍艦を作って海軍を充実させ異国に対応するなど考えも及ばなかったが、黒船に心酔する龍馬にとって<軍艦を作る>勝海舟は直感的に探していたのはこの人だと思ったに違いない。

 人には心のレーダーがあるように思う。そのレーダーは2種類存在して、中心にいる自分から発信するレーダーと自分からの電波を弱めながら受信するレーダーだ。頑固で横柄な人と謙虚な人との差もこのレーダーに現れる。龍馬のレーダーは自分の道を見定めるために自分からのレーダーを押さえ、受信できる範囲を最大限に広げていたはず。先を考える人、自分が持たない新しい論理、新しいもの、それを作る人、それらは自分が行きつつある方向にあるはずの人であり、ものだったに違いない。

 勝と共に軍艦に上がった時の龍馬の表情は、まさに天真爛漫の笑顔であり、今日本が抱える尊皇攘夷論やテロの嵐など微塵も感じられなかった。弱体化する幕府の勢力やより過激になりつつある尊皇攘夷論者達、長州や薩摩、土佐藩の思惑など知る由もない。情報や知識がまだまだ欠如していたのだ。開国はすでに規定の事実であり、異国の近代的兵器を取り入れながら、自国の海軍力を強化していくことこそ、正義であると確信したことは間違いない。


 最も過激な攘夷政策をとっていた長州藩は、1863年に米仏商船を砲撃したが、半年後その報復として、米仏軍艦が長州軍艦を砲撃、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。その後も海上封鎖を続けていた長州藩に対して、英国は仏 蘭 米の三国に参加を呼びかけ連合艦隊を編成し、馬関(下関)と彦島の砲台を徹底的に砲撃し占拠・破壊した。これ以後長州は、政策を180度転換して欧米から新知識や技術を積極的に導入、軍備軍制を近代化していった。高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成し、長州藩は砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。こうした行動が幕府の長州征伐論を招き、長州藩の孤立が目立っていった。そして尊皇攘夷から倒幕へ動き始めることになる。

*下関戦争の講和の際、長州藩は四国連合側(英・仏・蘭・米)のすべての要求を受け入れるしかなかった。しかし、彦島の租借だけは断固として高杉が拒否したと、後年になってこの交渉の時に長州側の通訳をした伊藤博文が述懐している。高杉の努力によって彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話だ。(泣ける!)

 おなじく尊皇攘夷派であった薩摩藩でも生麦事件の解決を巡って、1863年薩英戦争が勃発した。最新鋭の武器と最強の軍を自負していた薩摩藩もわずか3日で白旗を揚げる。この結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを思い知り、英国は近代化が遅れている幕府から近代化を積極的に推し進めてきた薩摩藩支持に方針を変更した。こうして薩摩は日本の中で最新鋭の武器と軍を持つことになっていった。

 龍馬はこうした状況下で最大限のレーダーを広げ、自らのとるべき道を模索していたのだ。米国では南北戦争(1861~1865)という内戦の真っ直中だった。米国の歴史もきっと日本に流れてきたに違いない。もともとアメリカ大陸にした原住民は白人からライフルを与えられ、部族同士が争い殺し合いを続けたために力を失い人を失い国土を失ったのだ。

NHKドラマ「坂の上の雲」の中で、米国に留学した真之は、かつての教師、高橋是清からこんな話を聞く。

「白人はインディアンに銃を与え抗争を続けている種族に殺し合いをさせました。
 [クリアランス オブ インディアン](インディアンの清掃)
 かつては180万人いたインディアンも今では20万人足らずに減ってしまいました。
 インディアンの敗北は決して人ごとではありませんから」


「日本人同士が日本の中で争っている時ではない」龍馬はこの一点を思っただろう。

 龍馬は自らの足で黒船に立ちながら、この内戦を終結する方法を一身に考え始めたはずだ。幕府要人の勝には出そうにも出せない政策、土佐や長州にも考えつかない方策、脱藩してしがらみのない龍馬が誰も考えられない合理的な方策を絞り出すには、もう少し時間を要するようだ。

これからがますます楽しみ。

2010 最後の花見(造幣局の通り抜け)

2010年04月18日 | Weblog
今年は花見に縁があるようで、北区にあるH本社に行く必要があったついでに、3年ぶりに「造営局の通り抜け」に行ってきました。少し肌寒く傘が必要でないくらいのパラパラ雨でしたが、大勢の人が来られていました。

120年以上大阪の人々に愛されている超花見スポットです。560mに渡って続く通路には、約125品種、370本のさまざまなサクラが見事に咲き誇っていました。ほかでは見られない「紅手毬」という珍種の桜を発見し、確かにこんなボンボリのようなふっくらした桜は見たことがありません。「養老桜」という珍種もあるそうですが、気が付かず見過ごしました。

この通り抜けの特徴は125種という品種の多さにあります。まさに桜の展覧会と云えます。近隣の方でまだここに来られてない人がおられたら是非お越し下さい。


桜は他の草花と違って開花後に若葉がでるところです。私がいる公園の桜も葉桜状態になりましたが、花が散ってから青々とした葉が光合成を行い1年間のエネルギーを溜め込みます。そして枯れ葉となって散った後、冬の寒さを凌ぎきった後、開花させるのです。この独特の循環が桜という品種をスターにしているように思えてなりません。


「父と花見 3」

2010年04月10日 | Weblog
 今年で3回目となった父との花見。最初は奈良の吉野山の桜、昨年は姫路城の桜、今年は万博記念公園の桜でした。今年は例年より少しだけ開花が早く、万博記念公園の桜は素晴らしい満開でした。真っ青な空も私たちを歓迎してくれました。入学式ということもあり、小中学生の姿はなく、年配者の団体や幼いお子様連れのファミリーが桜の下でお弁当を広げていたり、会社の団体で来られている方々もいらっしゃいました。中央駐車場に車を止めて250円を支払って公園内に向かいました。

 父の足取りは年々弱ってきており、高血圧気味のこともあり後ろから見るとフラフラしているように見えて、もう長い距離を歩くのは難しいと感じました。今年83歳になった父。連れ添った母が亡くなってからもうすぐ3年が経ちますが、賑やかで気丈夫だった母の突然の死は、父から想像以上に活力を奪い去って行ったように感じます。脳梗塞で入院した母を毎日3回、欠かさず1.5kmほどの道のりを自転車で見舞いにきた父の健常ぶりに多くの看護婦さん達が驚いていたことを思い出します。

父がまだ元気で私となんとかゴルフに行けた頃、好きなビールを飲みながらしみじみとこんなことを呟きました。

「歳を取る、人生でこんな哀しいことはない」
今の父の姿を見ているとこの言葉がどんどん胸に沁みてきます。

 公園内の300mほどの広い道に、両サイドから満開の桜の枝が垂れ下がり、まるで桜のアーチのように見えました。その下のベンチに座った父に売店で買ってきたおでんとビールを手渡しました。連れ添いには缶チューハイ、運転手の私はお茶。おでんは普通でしたが、串に刺した大きめのモモ肉の焼き鳥はとても柔らかく美味しかったので、半分父に分けました。父も「これは旨い」と喜んでくれました。

 食べ終わってから「もう少し奥に行こうか」と云うと「俺はここで待ってるよ」と座ったまま二人で行ってくるよう促しました。昨年の姫路城では、私たちが天守閣まで上ってくる間、入口付近のベンチで40分ほども待っていたいた父。しかし、昨年は1kmくらいは歩いたはず。今年は車を降りてまだ500mも歩いていません。このわずかな差が私の胸を締め付けました。

「毎日、歩いているか? 歩かないとすぐにあれを使わなきゃならなくなるで」
 とレンタルの車イスの方を見て父に云った。
「歩いてるよ。でもな、すぐしんどなるねん」
「……」
返す言葉がなかったが、なんとか言葉を見つけて口にした。

「また写真でも始めたら? 近くの住吉公園の桜でも撮って俺に見せてよ。
 俺もオヤジの影響で今でも写真が好きやねん。
 小学校の時、カメラクラブの部長してたなんて知らんやろ」
「知らんかった」
「先生の自宅まで行って印画紙に映る様子まで見せてもらったんやで」
「ほう、そんなことあったんか。 前から俺のカメラやると云っていたけど取りに来いや」
「いらん云うてるやろ。また写真に興味を持ってえぇな」
「何をしてもおもろないようになってきてな…」

「……」

またあの言葉が浮かんきてしまった。
「歳を取る、人生でこんな哀しいことはない」

この言葉の奥に、
「やりたくても身体がついてこない」
「やりたいこともなくなってきた」
「生きていくはいりあいがなくなってきた」
「面白く感じることがなくなってきた」が滲んでいます。

 私がいる施設のフィットネス会員の中で70歳、80歳を過ぎてもとても元気な方を何人も見受けます。健康を維持したいと想う気持ちは誰しもが持っています。その為に具体的に何をするのか、実際に行動を起こしている人とただ受け入れ、待っているだけの人と差は一体何が違うのでしょうか。


「生きていたい」と思わせる事柄は決して人からは与えて貰えません。一人一人の思いが違うからです。百八つあると云われる煩悩は人の心を平安から乱すものかも知れませんが、人は仏でもないのですから、全てを昇華させることはないように思えてなりません。

 私はどの宗教にも属してはいませんが、人が宗教に傾倒していく気持ちが分からないではありません。そして宗教が必要かもしれないとも思っています。それぞれが違う夢や目標や生き方、心のあり方を持っています。だから自分の宗教をいろんな宗教からいいこと取りして作り上げていいのではないか、そして自分のスタンスを形成していくべきだと思っています。

 私には生き仏のような生き方はできません。タバコも吸えば賭事もします。こうして自分の煩悩を心の何処かでうまくつき合いながら可愛がっていきたいと思います。どんな事柄でも過多になれば害が生じますが、多少の害?は必要な気がしてなりません。肉が身体に悪いといって牛肉を食べず、野菜と魚だけの食生活を送ろうとは思ったことがありません。自分の宗教にあった、自分のスタンスにあった生き方をすればいいと思っています。

「清水に魚棲まず」と言ったの孔子。
しかし、あまりにも汚れた水にも魚は棲めません。
このバランスと向き合うことこそ、実は人生の真の醍醐味かもしれません。

父に残っている煩悩は幾つあるのだろうか?

最近の父を見ているとそう多くはないように思いますが、
過去の花見の写真も合わせて「父と花見」という名の写真集を早々に作って、
缶ビール半ダース片手に父を訪ねたいと持っています。
そしてもう一度、何台もある写真機の一つを手に取って、
近くの住吉公園や住吉大社の季節を撮って見せて欲しいとお願いしたいと思います。