GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「侵食する悪」

2010年01月31日 | Weblog
原子力発電所や在日米軍基地周辺にお住まいの方々の心痛は
県外の人にとって同じように感じるのはなかなか難しい問題かもしれない。

原子力発電は必要だけれど自県にくるなら反対、
日米安保は今後も必要だけれど、自県に基地がくるのは反対。
こんな人達が数多くいる。
残念だがそれが現実だ。

しかし、これではまるで学校内での虐めを傍観している生徒となんら変わりがない。
大麻やその他のクスリ汚染が若い連中にまでどんどん広がり、
その年齢はますます低下している。
構内でクスリが広がるのを傍観しているのだ。
クスリに手を出す連中は、将来に希望が持てず人生を捨てた人たちだ。

自殺者の数は3万人から減らず、毎日90名近い人が自ら命を絶っている。
日本は悲しい自殺大国である。

(国別の10万人に対しての自殺数比較)
                  http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2770.html
 1)リトアニア 44.7名
 2)ロシア   38.7名
10)日本    24.7名
19)フランス  17.5名
24)韓国    14.5名
46)米国    10.4名


海外からくる人たちの犯罪数も増加の一方だ。
日本という難しい言語を話す単一民族の中では
他民族が生きて行くには至難の技なのだ。
そんな彼らを安い賃金で雇い、
また貧しい国を出るために借金を背負わせて身体を売らせようとする悪が存在する。

金があるものとないものの差は、
子供達に夢や希望まで剥奪しようとしている。
そして、その差はまるで比例するかのように学業にまで影響し、
できる生徒とできない生徒の差がますます広がっている。
親がもらすグチは、幼い子から夢や希望を早くから失わせている。

近代国家を目指した日本は資本主義経済を新幹線並のスピードで突き進み、
個人主義経済に投入した後、バプルの中で崩壊した。

そしていつの間にか日本は、現代病であるガンと同じように
社会全体が悪という病原菌に汚染され続けてしまった。


もし、学校で虐めを見たら、周囲の生徒が団結して加害者をつるし上げにできたら、
日本は変わっていくかもしれない。
しかし、残念なことに今の日本の学校でも、
社会でも人は見ぬ振りして通り過ぎ、傍観者になってしまっている。
今までに警察や救急車を呼んだ経験がどれだけの人にあるだろうか。

他人の不幸を傍観しているようでは
いずれ身近な家族の不幸まで傍観していくだろう、
そんな気がしてならない。

今日本がこのような近代国家の末期状態にあることを
把握しておいた方がいい。

原子力から脱却する勇気。
在日米軍基地の国外移設を叫ぶ勇気。
悪が汚染している現状を把握する勇気。
そして、虐めやクスリを団結して「NO!」と叫ぶ勇気を持ちたい。

傍観者ではなにも変わらない。
希望を捨てたと同じだ。

自分や家族がその悪に染まらずに生きていく為に、
今、強い勇気と信念が必要とされている。

「絶望という世界」

2010年01月29日 | Weblog
どうか教えてください
愛するってどういうことなのかを

分かっていたと思っていたけど
私の気持ちをうまく伝えられないの

伝えたからと云って受け入れてくれることではない
伝えたからと云って理解してくれる分けでもない
目隠しをしながら話を伝えているようなもどかしさ

あなたが私を求める気持ち
それは愛なの?
本当にそれは愛?

あなたに静かに抱かれていると
この時が永遠に続けばいいといつも思ってしまう
だけど永遠などありはしないとことに気づいてしまったの

今こんなに愛していても
これからさき本当にあなたを愛し続けられるだろうか
あなたに抱かれたあと
離れていくあなたの後ろ姿を見ているといつも不安になってしまう
あなたをじっと見つめているのに
見えてこないの
私自身も見えなくなってしまうの

この現実はもしかしてまぼろし?
本当に私は生きているの?
心の痛みや悲しみも夢の中の私?

どうか教えてください
生きていくってどういうことなのかを

幼い頃の私の姿が映っているアルバム
何年 何月 何日と日付が入っている
写真の笑顔は本当に私のもの?
こんな笑顔をしていたの?
今鏡に映る私にはこんな笑顔なんて決してできない
不安や猜疑心に満ちた嫌な顔が映っている

あんな笑顔をしていたのに
懸命に生きてきてどうしてこんな嫌な顔になってしまうの?

生きるってどういうこと?
幼い自分に戻るなんて不可能なことは分かっている
人が泣きながら生まれてくるのは
エデンの園にはいられないことを知っているからなの?
生きていく苦しみを知っていたから?

希望ってなに?
こんな絶望的な出来事が一杯の世の中で
希望ってなに?
どんな希望があるの?

テレビに映る笑顔なんてみんなウソ
ウソで固められた虚構の世界
そんな世界を見て泣いたり笑ったりするのっておかしくない?
それって何だかおかしくない?
みんな作られたウソの世界じゃない

こんな世界に希望はあるの?
誰が希望を持てるの?








   …………











今私は絶望の世界を彷徨っている
誰もいない明かりもない暖かさもない世界にいる

しかし何故かほっとしている
どうしてだろう?

喜びや悲しみや希望もない世界
そんな世界に迷い込んだけどほっとしている

何もなければ何も起こらない
何もなければ何も失わない
何も希望しなければ焦ることもない
何かを欲しいと思わなければ誰かを妬むこともない

絶望の世界は意外と住み良いかもしれない
頭の中を空っぽにして
生きようとする意志も捨てよう
強かったり弱かったりする意志など捨ててしまおう

絶望とは希望を絶つこと
希望を捨てたところで死にはしない

もともと自分の意志で生まれてきたわけではない
後から取って付けたような希望や呪縛に陥る意志など捨てればいい
空っぽにすればいいいのだ

何もなければ何も起こらない
何もなければ何も失わない
何も希望しなければ焦ることもない
何かを欲しいと思わなければ誰かを妬むこともない
ゼロからは何も生じない


意志を捨て絶望という名の世界に身をおいてみよう

今まで忌み嫌っていた絶望という名の世界に…

「阪神大震災と私」(下)

2010年01月19日 | Weblog
 一週間ほど二人だけの営業が続いた帰り道だった。両足の太股がパンパンになり疲れもピークに達してした。いつものように青木まで自転車を走らせようとしたが、これ無理だと自分の体力の限界を感じた。2号線から右手の43号線に入る交差点に「摩耶」という名のラブホテルの一室に明かりが見えた。水もガスもないので当然営業は停止していた。明かりがあるということは誰かいるに違いないと思い玄関を叩いた。主人らしき人が怪訝そうに顔を出し、「どうしました?」と云ってくれた。

 私は簡単に説明してH会社の社員証を見せ1泊素泊まりいいから止めてくれと頼み込んだ。ご主人は社員証を見て「わて、大のタイガースファンでんねん、分かりました。素泊まり3,000円でどうですか?」と云ってくれた。私は5階の一室に通され、「トイレはこのバケツの水で流して下さい」と洗面タオルとバケツ一杯の水を用意しくれた。その夜はベッドに沈む込むように寝入った。次の日の夕方もそのホテルを尋ね、同じ金額で一週間の泊まり込みの了解を得た。こうして一週間に一度、水もガズもない三宮から、天国のような大阪に洗濯物を持ち帰り、水や温かいお風呂のある生活の有り難みを心から知った。
 
 水やガスやお風呂をこんなにもありがたいと思ったことはなかった。幼い頃から周りに存在していたものだ。無くしてみて初めてその有り難みに気づく、そんな気持ちだった。得難い貴重な体験だった。

 加古川に住むOさんが知り合いの18歳の娘さんを紹介してくれたのは、10日ほど経った頃だった。従業員は私を入れて3名となり、雰囲気も一気に華やかになった。震災後最初にオープンした店という評判がたち、なんとサンテレビの収録があり、夕方のニュースで流れた。そうこうしているうちにだんだん店前を行き交う人の数も増え始め、バイトも集まりだし、カウンター内での小柄なOさんの動きもスムーズになり、人気と共に売上も急上昇を始めた。3月の始めにラブホテルも引き払い、その頃、流行った水のいらないシャンプーともおさらばした。1995年の年間売上が、この店の最高売上になるとはこのとき、想像もできなかった。

 この震災で多くの悲しみを目の当たりにした。思い出すたびに胸が詰まってくる。60歳を遥かに越える女性が汚れたヘルメットを被り、作業着のまま毎日2回コーヒーを飲みに来てくれた。この歳で、冬空の下で働く境遇を考えると胸が締め付けられた。その女性は私が本社に戻ってからも何度も私を訪ねて来店してくれたとOさんから聞いた。あの人たちの笑顔が私に元気を与えてくれたことをこちらの方から感謝したいくらいだった。

 先日神戸新聞社員の非常な努力による新聞発行ドラマが放映された。何度も画面を見ながら涙ぐんだ。あの頃の不思議な感覚を思い出した。それは自転車や電車を使って三宮の街並みが見え始めると、元気が出てきた感覚だ。本当にむくむくと元気がでてきたのだ。不謹慎とも取れる話だが、2月に入って復興の兆しが見え始めたとき、人々の顔には決して暗いものだけではなかった。それはエネルギーが燃え始めているある種の熱だったかもしれない。そのエネルギーを身体で感じ心身共に熱くなってくる感覚だった。三宮で働く人たちの共通したエネルギーだった。働く人の誰もが誰に対しても非常に親切だった。働く人たちの想いが一つのように感じた。<復興>という熱い気持ちだった。あまりにも悲惨な出来事だったが、その出来事が<復興>という気持ちを一つにしたのだ。三宮の街全体が心を一つにしていた、そのエネルギーだったかもしれない。

 親を亡くし、子供を亡くし、配偶者を亡くした多くの人たちにとって忘れることの出来ない出来事だった。私の知人にはその不幸を直に味わった人はいない。だからテレビに映された慰霊のローソクを灯す人々の悲しみを同じように共感できることはないが、あの時夢中になって<復興>に力を尽くした人たちといっしょにいた、そしてその人たちに熱いコーヒーを届けられたと思っている。

大切な教訓も得た。間近な目標を設定し、その目標に脇目を振らず邁進する大切さだ。
そして、自分の置かれた状況をしっかりと把握し、周囲が何を求めているのか。
何をするべきなのかを絶えず確認しながら進まなくてはならないことだ。
「大誠意は人を動かす」
「人を守ることは組織を守ることと同義」
これらのことをあの大震災から学んだ。

あれから15年の歳月が流れても、話し出すと泣き出す人たちをテレビで見ると、
心の傷は今も消えることのない証明だろう。
悲しみや苦しみの思い出は一生消えることはない。
消す努力よりも新たな想い出を作ることで心の負担を除いていく以外の方法はないようだ。

     『人は記憶と共に生きるものだ
     記憶は思い出したければ思い出せるものだ
     だが消したくても消せない記憶もある

     生きるということは
     消したい記憶を作らぬよう
     幸せな記憶を重ねる努力をすることかもしれない

     身近な人であればあるほど
     傷ついた跡は 長い間 消えずに残るものだ
     だが消すことのできないその傷も
     また人によって癒される

     誰もが多かれ少なかれ
     幸せな記憶を糧に生きていくんだ

     人を救うことができるのは 人だけだから』

                             (韓国ドラマ「カインとアベル」より)


                            (終わり)

「阪神大震災と私」(中)

2010年01月19日 | Weblog
 しかし、再開はそうは簡単にいかなかった。最大の問題は従業員の確保だった。阪神を始め、JR・阪急・地下鉄の100%稼働はまだまだ先で、三宮に出てくる手だてがなかったのだ。30才の店長と新入社員が1名いたが、自宅の倒壊や親の怪我、世話等で出勤意欲が欠如していた。「こんな状態の店で何ができるですか?」彼らの目はそう言っていた。私は足でまといになると判断し、二人を一時他店に異動させ、単身喫茶店に乗り込んだ。、

 従業員が誰一人集まらないまま、一人で店を開けたのが2月3日の午前10時だった。サン地下を行き交う人の数は、当然まばらで従来の売上と比較すると4分1くらいだった。店前を行き交う人の数は10分1以上に減っていることや、一人での営業を考えるとまずまずだったと思う。
 トイレはお客様がいなくなった時を見計らい、入口に鍵をかけて50m程離れた飲食店街の共同トイレを使用した。来店したお客様は「まさか営業しているとは思はなかった」とうれしそうに使い捨ての紙カップのドリップコーヒーを飲んでくれた。値段も280円から200円下げて販売した。私が考案したトーストは、焼いたあとたっぷりバターを塗り、その上に練乳をかけたものだった。コーヒー付きで300円。「元気の出るトーストセット」はネーミングも良かったのか、非常によく売れた。

 店は街の電気が消え、人がいなくなる16時に閉店し、2号線を自転車で10キロ以上走り青木から電車に乗って大阪の自宅まで帰った。阪神社員が総出で代替えバス運行にかり出されており、そのバスを利用するのは躊躇われた。灯りの消えた三宮は本当に不気味というほかなかった。行き交う人の表情も悲痛なものが見え隠れしていた。梅田から地下鉄に乗ると、人々の表情は一変していた。三宮での出来事が現実のものではないような思いに駆られた。

 自宅では暖かい部屋と熱い風呂が待っていた。蛇口をひねると水が出てくる。そして暖かいお湯まで流れてくる。当たり前のものがごく自然に営われていた。しかし神戸や淡路ではその当たり前の生活が喪失したのだ。今、どれだけの人がどんな思いでこの時を過ごしているのだろうか。熱い湯船に浸かりながら自分の幸せに感謝するしかできなかった。

 大阪に住む私は第三者でしかない。会社として営業所に被害を受けたが個人としては第三者でしかない。本社は国から合計数百億の融資を受けたが、JRや阪急にその後の回復に差をつけられたと聞いた。乗客の移動による売上ダウンを心配したが私には何もできない。できることは与えられた仕事である小さな喫茶店をまず再開することしかなかった。
 
 青木までの通勤時にこんなことがあった。梅田から乗って西宮を過ぎた頃、一人の客が墓石がすべて倒れていた様子や一階屋が崩れ落ちて2階屋だけの家、全壊した家々を見て、携帯で興奮気味に喋っていた。ある年輩の人が、「いい加減にしろ!不謹慎だろッ!」とそのスーツを着た若者を大声でたしなめた。7割ほど入っていた車内はシーンとなって若者に視線が集まった。彼は急いで通話を止め足下を見つめた。今では電車内の携帯のマナーが定着したが、その頃はまだまだ普及していなかった。携帯電話は震災のあと飛躍的に利用者数を伸ばした。大阪に買い出しに出て大きなリュックを背負った人達が多数乗り込んでいた。彼らのニガニガしい表情に私は胸を鷲掴みされたような気がした。

 2日目、たった一人での営業も何故か決して落ち込むことはなかった。トイレから帰って来て店の入口を開けたときだった。長年の疑問の答えが、突然頭の中に飛び込んできた。「ウサギとカメ」の話で、何故カメはウサギの挑戦を受けたのかという疑問だった。つまらない疑問だと云えばそれまでだが、私には納得できない話だった。普通なら受けない勝負だった。浮かんできた答えはこうだった。
「カメには別の目的があった。
 ゴールのそばの大きなため池に行くことが最大の目的があったなら。
 初めからウサギに勝とうなんて思いもしなかったら……」
これならば、カメはウサギの申し出を受けるのではないか。

 この喫茶店を再開することだけが目的で、売上を上げよう、コストを下げて利益をあげよう、オペレーションを改善しようなんて全く考えもしなかった。営業時間など無視して疲れたら店を閉め、トイレの時も勝手に閉め、人通りが無くなったら閉店する。
そんな私は「今、カメになってる」のではないか。
 カメはウサギとの勝負など初めから念頭になく、ゴールまで行くことが唯一の目的だったから、ウサギの挑戦を受けたんだ。カメの気持ちを理解できたとき、私の肩の張りがスーと抜けていくように思えた。

 無休営業だったことも気にならなくなった。疲れたら休めばいいんだと自分に言い聞かせた。悟りというにはほど遠いが、気持ちの持ちようでストレスがなくなることを初めて知った瞬間であった。(この話は私の最初の日記:新解釈「ウサギとカメ」にまとめた)

「あのー、経験はないですが、私でもできますでしょうか?」

 店を再開して3日目、40過ぎの主婦が店頭に貼ったアルバイト募集のポスターを見て入ってきた。私はあの声の響きを今も忘れられない。天使の声のように思えた。その主婦を即採用したのは云うまでもない。その日に2時間ほど働いてもらい簡単な業務をマン・ツー・マンでOJTした。小柄で気だての優しい0さんとはすぐにうち解け、初めての接客アルバイトにも関わらず、年輩者たちへの優しい心遣いや言動が彼らのトゲトゲした心を捕らえた。当然、Oさんにもお客様の反応を肌で感じ、やっていけそうだと思ったようだ。本当にいい人が来てくれた。この運に心から感謝した。その後、Oさんはサン地下で評判の美人店長として有名になっていった。そうごや地下街の飲食店従業員、電車を待つ人たちの憩いの場となった。若い店長の頃とは客層も客入りも大きく変わっていった。

                             (続く)

「阪神大震災と私」(上)

2010年01月19日 | Weblog
 平成7年(1995年)1月17日午前5時46分。大阪市の南に住んでいたが、最初「ガタンッ!」という大きな縦揺れを感じ、その後の揺れも尋常ではないと感じた。隣の部屋に寝ていた息子も部屋から飛び出してきた。震度4を越える大きな揺れはその後長い間続いた。揺れが止まって一旦寝付いたものの、眠気はなく早朝からテレビに釘付けになった。 
 三宮の大火災や西宮以西の大災害が知らされ、私は早めに出勤するため車に飛び乗った。しかし、道路の渋滞は今までにないものだった。カーラジオから入ってくるニュースに背筋が凍り付いた。突然、宮崎に住む親友のY君から携帯に安否を気遣う連絡が入った。

「大丈夫だ、今会社に向かっている!」それだけをいうのが精一杯だった。いつもは30分で着く本社に、ようやくたどり着いたのは3時間後の12時を越えていた。殆どの従業員は出勤しておらず、私は阪神沿線の各営業所に連絡を取った。

青木にあるSCの店長に連絡を入れた。
「燃えてるぅ! 前の公営市場が燃えてる!」と叫ぶ悲壮な店長の声が飛び込んできた。
「火の粉が飛んできてる、飛び火する!」
「早く逃げて下さい!」私は電話口で大声で叫んだ。

 そのSCは1月15日に1億かけてスクリンクラーを設置が完了したばかりだった。1Fの関西スーパーの商品は全品水浸しとなったが、飛び火はスクリンクラーが作動し、全焼を免れた。杭瀬のSCは、軽傷で済んだが店長には連絡取れなかった。数時間後、明石在宅の店長から無事の連絡が入る。三宮の喫茶店とは連絡取れず、自宅にいた店長と連絡が取れ、そりあえず自宅待機を命じた。
 
 西宮に住む社長の自宅に連絡しても誰も出なかった。その後、社長とは3日間連絡が取れなかった。あとで聞いた話だが、震災直後社長夫妻はあまりの揺れにびっくりして寝着まま家の外に出たが、その後1分もしないうちに2階屋の自宅は倒壊した。九死に一生を得た。夫妻は着のみ着のまま近くの小学校の講堂に避難。連絡を取りたくても赤電話は長蛇の列でかけられなかったとのこと。1年後自宅を新しく建て替えられた。
15:00 被害報告の第一報をH電鉄本社の不動産事業本部にFAXで送信した。

 淡路島北淡町野島断層を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。淡路島、神戸市、西宮市、芦屋市など、震度7の烈しい揺れに見舞われ、死者6,434人、重軽傷者者43、792人。全半壊家屋274,181棟。焼失家屋約7,500棟、避難者約35万人。断水130万世帯。停電260万戸。ガス停止86万世帯。電話不通30万回線。同時多発火災約290件の大惨事に発展した。これがその後分かった大震災の全容だった。

 私が管理する三宮の喫茶店に入ったのは、1月26日、梅田-青木まで開通した日だった。青木駅近辺の様相は現実のものとはとても思えず、あまりの惨状に心が痛んだ。電話で聞いていた全焼の公営市場は瓦礫の山、SCの壁も黒い煤で覆われ、軒先は炎で焼けたただれていたが、全焼は免れた。

 私は青木から徒歩で43号線に出て三宮に向かった。目に飛び込んでくる異様な姿に胸が締め付けられるようだった。乗り捨てのパンクした自転車を見つけ、そのまま乗って自転車屋を探した。きっと商売しているはずだと思いながら3キロほどして右手奥に自転車屋を発見。修理に2千円を支払って再び三宮に向かった。

 しばらくして、倒壊したガラスや釘が散乱する道路の為にパンクしてしまい、再度自転車屋を探す羽目となった。倒壊した高速道路のすぐ横を通ったときは、これが現実と思うことが困難なほどだった。2キロほどして自転車屋を発見、関西人の商魂を見たように感じた。今度は2,500円という高い修理代を支払い、道路の異物に注意しながら三宮に向かった。

 2号線に入り、それまでにテレビの画面でビルの倒壊や被害の状況を見知ってはいたが、実際に見るビルの倒壊、リュックを背負た人々の暗い現実は、予想を遙かに超えて心痛をもたらした。
「ひどい、本当に酷い。こんな事が現実に起こるなんて……」

 三宮の地下1F、そごうの入口が正面に見えるカウンター式14席の喫茶店に入った(現在はドトールコーヒー店)。店内の状態は惨憺たる有様だった。棚にあったモノはすべて床に転がっており、カップやグラス類もすべて割れて床に散乱。カウンターの隅に乗せていた60キロ以上あるアイスコーヒーマシーンも床に転がっていた。一番驚いたのは台下冷蔵庫まで倒れていたことだった。両サイドもきっちり棚が押さえているこの細長い冷蔵庫が倒れる縦揺れとは?想像を超える揺れの激しさに私は呆然と立ちすくんだ。

 当然水道・ガスはまだきていなかったが、店内照明や冷蔵庫を含むすべての厨房機器は正常に作動していた。偶然、Nコーヒーの担当が顔を出し、あまりの惨状に驚きの声を上げた。阪神三宮駅の再開は2月1日と聞きつけて、切符販売機のすぐ横にあるこの喫茶店も、できるだけ早い再開を決心した。早速、Nコーヒーの担当者に尋ねた。
「水をどこかから持ってこれるか?」
「明石からなら、なんとかなると思います」
「ガスは当分ダメだろうからサイフォンコーヒーできん、ドリップ式のコーヒーメーカーはあるか?」
「はい、確か倉庫で見ました」
「よし、カップを洗うような余分な水はない。紙カップを用意してくれ」
「営業を再開するんですね」
「そうだ、電鉄本社から給料を貰っている俺は、三宮駅には負けてはおれん!」
「今まではコーヒーとパンだけだったが、近場の店は当分営業ができないと思うから、冷凍ピラフを何種類か見積書といっしょに持ってきてくれ」

 N社にとってこの店は看板店でコーヒー豆の消化量はダントツの1位で、再開のニュースはすぐに上司に伝わり「何でも言いつけて下さい!」とその後、N社社長のお墨付きまで貰った。

                            (続く)

「普天間基地の移設問題」

2010年01月18日 | Weblog
 国家のトップとして最優先事項とは? 当然、国防だ。経済や教育や医療など大切な課題が常に山積しているが、常にNO.1プライオリティーは国防だ。

 長年の日米協議を経て、沖縄駐留海兵隊のグァム移転や普天間基地の移転が合意を見たのだが、鳩山新政権になって「県外」や「国外」へと言い出したのは沖縄の負担軽減を求めるという次元の話では断じてなくなってきた。米国の国防から見れば、「極東の壁」という世界戦略の一部を担ってきた日本という国家が、その枠組みから出たいという意思表示をしたのだ。これについては私のように目を見張った国民が数多くいたに違いない。しかしこれは決して民意ではない。このような公約を掲げた民主党だったが、前回の選挙はあくまで長期政権の自民党から政権交代させ、同じ範疇の民主党にやらせてみようというのが民意だったように私は分析している。民主党の全ての施策に同意したわけではないと思う。

 年末から年始にかけて移設問題は迷走し始め、結局は5月までには結論をだすという引き延ばし作戦という失態を見せた。過去の自民党政権と米国政府との合意を作り上げた人たちは変更を飲めるはずがない。支持率50%を下回る政府にそれ撤回させるパワーなどあるはずもない。重要なのは民意の中に二つの声が存在してるという事実だ。

 日本は米国の保護によって発展してきた国だから日米の安定のために、ともかく移転問題の決着を急げという声と、独立国に他国の軍隊が大手を振って駐留していること自体が異常だとする声だ。この二つの声が普天間移転問題が迷走した主たる原因と私は考えている。この問題について新政権も旧政権も、私たち国民もはっきりと議論したことが一度もない。米国の枠組みから離れるという大きな覚悟がいるからだ。

 そもそも「アジアの奇跡」と言われた日本経済の発展は、反共産主義の防波堤として在日米軍基地は死活的に重要となり、1ドル360円の為替レートは日本の輸出を有利にし、米国にとっても好都合だったことから生まれた。安保条約によって固定化され、朝鮮戦争、ベトナム戦争の出撃拠点としてさらに重要さを増していった。これが経済発展の基となった。自国の保護によって日本は繁栄したと米国は今も確信している。そして今や、世界最大の輸出国となった中国を最大敵国として見なしている現在、米国にとって日本は自国の極東基地として戦略的位置の重要性はより高まったはずだ。このような状況下での普天間移設問題と捉えれば、どのような結果に流れるかは明らかだった。

 1971年に米国は1ドル360円という固定為替相場を廃止し、日本の頭越しに中国と手を結んだ。いわいる「ニクション・ショック」だ。日本の輸出力が削がれ、反共への壁としての重要さが薄れた時期があった。このとき日本は「ニクソン・ショック」の意味を理解できず、輸出と日米安保を命綱とした。1991年に冷戦が終わっても中国・北朝鮮が存在するという理由で日米安保体制は強化されたが、あの時期にもし将来の日本のあり様を論議されていたらと今になって思わないではない。

 小沢氏の元第1秘書が逮捕される事件も、私は決して民主党を応援しているわけではないが、米国の明確な民主党バッシングの一環だと思う。2008年2月21日の朝鮮日報のインタビューで「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から決して分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べている小沢一郎氏の失脚を狙ったものであろう。今回の事件は、ロッキード事件で失脚した田中角栄元総理の時と同じ力が動いたと云えるのではないか。 

 政治に巨額の金が必要なのは自民党でも民主党でも同じだ。信念で動くのではなく金で人が動くからだ。これは秀吉の時代からなんら変わってはいない。母親の金を使った為に巨額の相続税を支払った鳩山首相は今までにない政治家であり、見方を変えれば、贈収賄事件や疑獄とは異なる可愛い悲劇とも云える。しかし、小沢一郎氏の金の動きは企業による献金が発端となっており、かつての師匠田中角栄氏のロッキード事件となんら変わりがない。金権政治の中で育ち成長した小沢一郎氏が、それを脱皮できるはずもない。

 今回の事件も小沢一郎氏が300名を越える党員を連れて、中国国家主席の胡錦濤氏と派手な会見をしてきた近況と、日中国交を果たして周恩来と固い握手をしてきた田中角栄氏のロッキード事件の発覚当時と酷似しており、それは決して偶然ではないだろう。師匠が果たせなかった熱い想いと堅い信念から生じた事件だと云える。

 米国のように戦争することで経済を活性化できるような国家ではない日本は、人口13億という巨大なエネルギーと豊富な資源を有する中国との関係が今後はより不可欠になってくる。そして同じアジア民族である日本と中国が団結して、米国やEUの西洋諸国と対抗して行くべきだという堅い信念が見える。米国は冒頭に書いた国防を最優先に極東の壁を必死に守ろうとしてしているのだ。そのパワーが日本の公安や検察に揺さぶりをかけているという図式に無理はないように思う。

 民主党大会で、小沢幹事長は続投を正式に表明した上で「党大会に合わせたかのように逮捕が行われ、到底容認できない。断固として信念を通し(検察当局と)闘っていく決意だ」と強調した。鳩山由紀夫首相も小沢氏の姿勢を全面的に支持する考えを示した。(1月16日15時1分配信 時事通信より)

 鳩山首相の支持は一蓮托生を意味しており、小沢氏が逮捕されることになれば、辞任をも覚悟したスタンスと受け取れる。日本の検察は正義を行っているが、後味の悪い事件だ。結果として米国の思い通りになっていくからだ。

「独立自尊」を謳った福沢諭吉の言葉が胸を突いてくる。独立して自由を勝ち取った歴史的経験がない悲しい国家が現代の日本だ。あてがわれた憲法、あてがわれた独立、あてがわれた自由、あてがわれた発展の上に成立している国家だという意識を何処かに持っておく必要があると思っている。そして将来のために、国民が日本という国のあり方を一度は考える時期にきていると思っている。

「龍馬伝」(1,2を見て)

2010年01月12日 | Weblog
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は東京に出た年、20歳になる前に読みました。
(竜馬が江戸にでたのも19歳の時でした)
同じような歳で上京した私は竜馬の気持ちがとても良く理解できます。

「何かを成したい」という気持ちは高まるのですが、
いったい何をしたらいいのか分からない。
私はそれを探しに東京に向かいました。


エリザベス・ゲイジの「真夜中の瞳」という小説にこんな文章があります。
「人は行きつつある方向からやってくる」

自分の進むべき道を必死に模索している時、自分の人生に影響を与える人と出会う、
と私は解釈しています。
東京に出たときから35年以上が過ぎた今、この言葉が本当だったと思います。

これから龍馬と武市は共に同じ様な人と出会い、同じ様な体験をするのですが、
龍馬は武市とは違う化学反応を起こしていきます。
これを「人それぞれの人生」というべきことなのかもしれません。


本や音楽や芸術との出会いでも人は化学反応を起こしますが、
人との出会いほど劇的ではないように思います。

鏡のようなものがなければ、人は自分の全体像を見ることができません。
ましてや、人は自分の本質を見極めることなど
実は不可能なことかもしれないと私は思っています。

<行きつつある方向からやって来る人>というのは、言い換えれば、
自分の本質を知らしめてくれる人です。

出会った瞬間に、この人がそうだと気づくことはないように思いますが、
その人との縁が続き、教えを受けたり、反面教師のような存在となるのです。

龍馬にとって勝海舟はそう言う人物だったに違いありません。
岩崎弥太郎にとっては龍馬がそれに当たるかもしれません。

江戸に出てからの龍馬や弥太郎らの人との出会い、
そしてそれぞれの化学反応がとても楽しみになってきました。

龍馬伝の脚本家は「HERO」や「ガリレオ」で人気を博した福田靖さんです。
見る側の気持ちをよく分かっている脚本家ですから 本当にこれからが楽しみです。

「最初はごく普通の男が、皆さんが知っている、
 あの『龍馬』になって行く過程をちゃんと描きたいということです。」

「篤姫」のように成長を描くストーリーほどワクワクさせる物語はありません。

「竜馬がゆく」の竜馬とはひと味違った「龍馬伝」の龍馬、
福山という人物が醸し出す新しい龍馬像に好感を持ちつつ、
これからの回を楽しみにしたいと思います。



■インタビュー記事より

『ガリレオ』でも福山さんがごいっしょされた脚本家の福田靖さんにインタビューしたとき、「福山さんには生々しい人間像を演じてもらいたい」とおっしゃっていましたが、演じられていかがですか?

福山--- 生々しい人間像というのは、人と真っ正面からぶつかっていくということだと思っています。龍馬は、そういうタイプの人だったのでしょうね。ぼくはこれまで、そういうタイプの役はやったことがなかったので、最初は少し悩みました。
プライベートでも、そういう感じではないので(笑)。あまり人のことには立ち入らないほうですからね。とりあえず「自己責任、自己責任」という感じで(笑)。

福山--- 坂本龍馬が主人公なのでしょうが、ぼくは今回のドラマを幕末という時代の青春物語、群像劇としてもとらえています。幕末を生きた人間で、ぼくはたまたま坂本龍馬という人物を演じていますが、外国に開国を迫られ、太平の世が変わっていく中、多くの若者たちがいろいろな人生の選択をしていく。その過程やそれぞれの人生模様がとてもおもしろいと思っているし、すごく興味があります。
ですから、岩崎弥太郎や武市半平太が今後どうなっていくのか、とても楽しみです。もちろん龍馬をどう演じるかはぼくに与えられた課題ですが、幕末の群像劇として、『龍馬伝』に登場する人々が今後どうなっていくのか?どのように描かれていくのか?それをとても楽しみにしています。

http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/topics/05_interview/02.htmlより

「アバター」一見の価値在り!

2010年01月08日 | Weblog
 構想に14年かけたということは、ジェームズ・キャメロン監督は1995年から映画「アバター」の物語を考え始めたことになる。宮崎駿夫氏の「風の谷のナウシカ」(1984年)、「天空の城ラピュタ」(1986年)の世界観を映画「アバター」に強く感じる。そして物語の展開的にはケヴィン・コスナーがアカデミー作品・監督賞を獲得した名作「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990年)に似通っている。

 異星人が暮らす美しい星パンドラで生活するナヴィ族は、自然を愛し、自然と共存した生活は、まさしくアメリカ大陸開拓前のインディアンのようだ。そこに文明人が入り込み、希少な鉱物を発掘しようとパンドラを蹂躙する展開は、アメリカ大陸を我が物にしようとした白人社会に被さってくる。

*「ダンス・ウィズ・ウルブズ」
南北戦争中に英雄となったダンバー中尉(K・コスナー)が「失われる前にフロンティアを見ておきたい」と直訴してサウスダコタ州のセッジウィック砦への赴任する。しかし、そこは砦とは名ばかりで廃墟と化していた。心優しいダンバーはインディアン(スー族)との交流を経て、白人社会のエゴに初めて気づいていった。そして彼らと生活を共にして得たものは、ズー族の自然を愛する深い精神世界と誇り高き人間愛だった…。

「風の谷のナウシカ」のフカイの森、「天空の城ラピュタ」の飛行石、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の自然と共存するインディアン、これら3つの物語が映画「アバター」のイメージの根底にあるように感じられたが、J・キャメロン監督が描いた壮大なパンドラの世界観と映像美の素晴らしさは、それをも圧倒するくらいに美しく荘厳ですらある。

 パンドラは人間に有害な環境なため、人間のDNAと掛け合わせた肉体“アバター”を造っていた。まずは先住民ナヴィ族と親しくなろうとしていたのだ。そして目的はパンドラの稀少鉱物を得るためだった。“アバター”を宇宙船にいる人間の意識とリンクさせようとする発想が良くできている。交信中(=睡眠)の人間が宇宙船で目覚めると、パンドラにいるアバターは意識を失う(これも幼い子が見ても理解できるのではないか)。パンドラの動物とアバターのシッポを使って意識を通い合わせる発想もパソコンと繋げるUSBを想像させて共感が持てる。これらのキャメロンの発想は、今までの映画では決して見られなかったものだ。映画「マトリックス」で感じた違和感はない。「今までにないものを作りたかった」という彼の意気込みが十分感じられた。大ヒットは間違いないだろう。

3Dについて少しだけ感想を述べたい。
映画館で渡された3D用眼鏡はかなりの重さがある。(従来の眼鏡の2,3倍?)よって眼鏡をかけている人には3つ分の多さが鼻の上に乗ることになる。以前3D映画では薄目のプラスティックの赤と青色のセロハンが張られたようなチャチなものだった。またこの3D映画を観るためには通常料金よりも300円割高になる。以前見た映画の方が目の前まで迫ってくる感じがあり、そういった立体感は低くなったように思うが、並んでいる物体の遠近感、ヘリコプターとの空中戦や大鳥に乗っての空中滑走は今までにない浮遊感を覚えた。一度は試す価値がある。2年後には3Dの「タイタニック」を公開予定とのこと。私は3Dでもう一度「タイタニック」を見たいとは思わないが…。

第5回「坂の上の雲」(留学)

2010年01月04日 | Weblog
■印象に残ったシーン1.

真之が松山の子規を見舞い、別れ際に律と話すシーン
真之から結婚して正岡家の子を産んで欲しいと云われるが、
律は真之への想いを堪えながら涙を溜めてこう云った。
「何で結婚せんのですか?」
「わしは…」
「何でですか?!」律は珍しく詰め寄った。
「…わしは軍人じゃ。お国に命を預けとる。結婚はせん。」
「うちも同じじゃ…」何度も自分を言い聞かせるようにうなずいて
「兄さんが治るまでは結婚はせん。子も作らん。!」真之の目を見つめて言い放った。

律はついに涙を堪えきれず後ろを向いた。そして少し遠くを見つめながら
「送り出すたびに…じゅんさんはどんどんえろうなっていく。 
 うち…いっつもじゅんさんを送ってばっかし。
 変わらんのはうちだけじゃ。」

(菅野美穂の名演が光る。この子が出てくるとどのシーンも輝いて見えるのは私だけだろうか)
二度の結婚を失敗し、兄の看病だけに時を過ごすことに後悔がないではない。
兄も俳句の世界で名をなし、真之もまた出世し見るたびに凛々しくなっていく。
律は真の自分の人生を生きてはいない。一身独立にはほど遠いところにいる。
その気持ちは嫉妬とも云うべき気持ちだった。同等意識が嫉妬を生じさせる。
「男と女も同じじゃ。一身独立はおなごにもある。」
妹にも関わらず、幼い頃から弱体だった子規を助けてきた勝ち気さがたまらなくいじらしい。
この勝ち気さこそ、「風と共に去りぬ」のスカーレットに代表される新しい時代の女性像かもしれない。

■印象に残ったシーン2.

米国に留学した真之はかつての教師高橋是清と湖畔で話すシーン

高橋と真之の話す様子を見てイロクワ族の末裔がこう云った。
「誇り高く自由な生き方をしないとそういう風には笑えません。」

「今では白人に土地を取り上げられ、限られた居住区に強制移住させられました。」
高橋はこう続けた。
「白人はインディアンに銃を与え抗争を続けている種族に殺し合いをさせました。[クリアランス オブ インディアン](インディアンの清掃)かつては180万人いたインディアンも今では20万人足らずに減ってしまいました。インディアンの敗北は決して人ごとではありませんから。」

 20世紀初頭の日本は、必死で列強諸国(イギリス・フランス・ロシア・アメリカ)に追いつこうとしていた。日清戦争で意外な勝利を得た日本は、次なる敵国を旅順に強大な砲台を築くロシアと定めた。日英同盟もその布石だ。物語はいよいよ日露戦争へと走り出す。第2部での展開と真之達の成長の姿、子規の散り際をゆっくり待ちたいと思います。





 私は幼い頃、「ローハイド」や「ララミー牧場」のような西部劇、「ペリー・メイスン」のような弁護ドラマ、脳外科医「ベン・ケーシー」に影響されてアメリカ贔屓だったが、その後インディアンの話を知ってアメリカに幻滅を感じたことがある。そして大戦の理由やその後の日本への介入を知って決定的となった。

 伊藤博文と小村寿太郎が話すシーンでもあったが、強大な軍事力で弱小国を威圧してきた国家であることは間違いない。そして今、アメリカは強大な軍事力と破綻した経済が今までの遺産を食いつぶそうとしている。資源のない日本が世界に誇れるものは「技術革新力」だろう。この力を中国が狙っている。インドは30年もしないうちに中国に次いで世界第2の国家となるだろう。日本は減速する経済を近隣のアジアの国々と今以上に手を結び合って、どう活性化して行くかがこれからの鍵になるだろう。

 文明レベルの高低差(近代化の高低差)の違いによって、圧倒的軍事力でオーストラリアやインド、インドシナ半島、南米、そしてアジアの国々が支配を受けてきた。先進国と低開発国の違いは、どこか今の日本で盛んに云われている偏差値の違いと似通ってはいないだろうか。高い者が低い者を見下すことがないだろうか。進学校に通う連中が有名大学に行けない連中を馬鹿にしていないだろうか。運動神経のいい奴が、運動できない奴を虐めていないだろうか。名の通った会社に働く連中が寒い中、野外で働く連中をどう見ているのだろうか。人を職業で差別していないだろうか。人を稼ぎ高で見定めていないだろうか。差別はこうした人の心の中から生まれる。しかし、エネルギーもまたここで生じた嫉妬から生まれると云っていい。
 


*高橋是清:最も有名な話と云えば、昭和金融恐慌の1927年、3度目の蔵相に就任し高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させたことだろう。そして犬養首相に請われ4度目の蔵相に就任時、金輸出再禁止・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額などで、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。

第4回「坂の上の雲」(日清開戦)

2010年01月04日 | Weblog
■印象に残ったシーン1

森鴎外が子規に今回の戦争をどう見るかと話すシーン。

「君はこの戦争の現実をどう見ました?」
 敗戦後の清国庶民の悲惨な生活を見てきた子規はこう答えた。
「日本が勝てて良かったと思もとります」
「勝つには勝ったが犠牲が多く出た…
 現実はこうだ。今回の戦死者およそ8,000。その3分の2が病死だ。
 かっけ、赤痢、コレラ、凍傷。
 我が軍は戦わずして病に倒れた。
 残念ながら我が軍の不備をさらけ出すことになった。
 自分の医者としての無力さを思い知らされました。」
「森先生はこの戦争をなんじゃったとお思いですか?」
「主題ですか?」
「ああ… はい」
……
「維新と文明開化の輸出、売り込み、ってとこですかね」
「維新と文明開花の…」
「不思議な親切… その不思議な親切さは朝鮮にも向けられておる。
 彼らにしては余計なお世話だ。
 そういう戦争の本質から目をそらして、やたら戦意を煽るだけの新聞は罪深い。
 正岡君の書く従軍記事なら写実でないと困るよ」

そして眠れる獅子でなかった清国が列強諸国によって滅びるしかないと云われた。

子規の目は森鴎外をじっと見つめ、
自らの唱える写生(=写実)の意味を改めて戒めた。
この辺りの子規を演じた香川の真剣な眼差しや変化していく表情がとてもいい。
子規は最初に述べた「日本が勝てて良かった」という軽い言葉が
恥ずかしくなってきたはずだ。
ものごとの本質を見ないで<写生>などおこがましいと思ったのではないか。

前回も東郷平八郎から真之が反対に「おまんはんは、どげん見た?」 と尋ねられたシーンがある。
司馬遼太郎得意の場面だ。
『竜馬がゆく』でも何度も同じような場面が出てくる。

<ものごとの本質を見抜く目を養え>
目に見ている場面だけにとらわれず、
何故そうなるのか、何故こんなことが起こるのかを見極めよ、俯瞰的視野を持て。


■印象に残ったシーン2

戦争勝利の祝賀会で再び東郷と出会った。
自分の命令で命を失った部下を想い、自分は戦争に向かないとまで思い詰める真之。
東郷とのやりとりの後、真之はこう呟いた。

「急がば回れ、短気は損気」
「なんじゃ…」
「亡き父の言葉です」

真之はそれまでの東郷の言葉が頭をよぎっていた。
(東郷は正しい決断には何年もかかると云っていたではないか、
 俺は熟慮の末に命令を下したのか。いやそうではない。
 戦況を確認もせず部下に命令し命を失わせた。
 何故もっと熟慮しなかったのか、俺は昔からそういうところがある)

この時、真之は父の言葉が浮かんできたのだ。
短気の真之を戒めた父の最後の言葉だった。

東郷はにこりと笑って最後にこう云った。
「なかなかよか」

「お父さんの言葉に嘘はない、決断を神の声と思えるくらいに深く熟慮せよ」
東郷は真之にこう伝えたかったに違いない。
そして真之は笑みを浮かべて「はいっ」と答えた。

その笑みにはもう一度やらねばならない、命を失ったと尊い部下のためにも。
今度は父の言葉を忘れず熟慮することを心に刻みつけた。
この決断が連合艦隊の参謀にまで成長する第一歩となった。


人には善きにつけ悪しきにつけ、必ず影響を受ける人との出会いがある。
その出会いによって成長もし堕落もしていくものだ。

この分岐点は何だろうか?

私は<真摯に生きようとする姿勢>だと想う。
真之や好古、子規にはそれがあった。
そして彼らは人より純粋だった。
だからこそエネルギーに満ち溢れていたのだ。