GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

黒沢映画「赤ひげ」を見よう!

2007年11月27日 | Weblog
 もうじき織田裕二主演の「椿三十郎」が公開されます。なんとも楽しみなことです。幼い頃、20分南海電車乗って難波に出かけて映画を見て、ぼてじゅうでお好み焼きを食べ、丸十の鮨屋に入る一家の休日が大好きでした。そんな頃、東宝敷島で「椿三十郎」を見たのです。

「赤ひげ」    (1965) 監督/脚本
「天国と地獄」 (1963) 監督/脚本  
「椿三十郎」  (1962) 監督/脚本
「用心棒」    (1961) 監督/脚本

 「用心棒」は残念ながら幼い頃の記憶には残っていないのですが、「椿三十郎」以降は良く覚えています。最後の三船と仲代の決闘シーンは今でも脳裏に焼き付いています。「天国と地獄」の身も凍るような恐怖と緊張感は小学生だった私の心を丸掴みしました。加山雄三の若大将シリ-ズや勝新の座頭市シリーズ、中村錦之助の「一心太助」、大川橋蔵の「新吾十番勝負」シリーズなどの映画ばかり見ていた私にとって「天国と地獄」のようなストーリーに驚愕したのは無理もありません。子供ながらにだんだんと目が肥えてきた私が、傑作「赤ひげ」と出会ったのです。

「<愛>という感情」の日記でも書いたのですが、腹が減った。眠い。便や尿を排泄したい。不快だ。(痛い・眩しい・疲れた・喉が乾いた)気持ちいい。こうした感情を体感してようやく人は寂しいとか楽しいという感情を覚えます。恋や愛という感情は人しかもてない極めて人間的感情です。「赤ひげ」はそんな感情が分かりだした時見た映画でした。

 まだまだ単細胞だった私は、見終わって「医者になりたい」と思いました。そして赤ひげの似顔絵まで描いたことを記憶しています。加山が扮する知識だけの青年医師が、病を持った貧しい庶民達と接するうちに人の心に初めて近づいていくのです。彼が今まで長崎で学んできた蘭医学とは異質のものだったのです。それは私が今まで見てきた映画と「天国と地獄」や「赤ひげ」のような映画との違いを知った事とどこか似通っています。今までの知識や経験がなければ「天国と地獄」や「赤ひげ」を見ても理解できなかったように、青年医師が赤ひげと出会い、庶民の無知・貧しさ・病を肌で感じて始めた自分の慢心や<自分の位置>に気づいて行ったのです。

<道>と名の付く「茶道」「柔道」「剣道」「書道」というスポーツ。これらは最初は<型>から入ります。見よう見まねで師と仰ぐ人から100%の信頼の元、型(姿勢・スタンス)から教わります。知識や技術を学んできた青年医師が初めて<真の医療>というスタンスを赤ひげから学び直していきます。これが映画「赤ひげ」の主題です。

 クリント・イーストウッド氏が黒沢映画で一番好きな映画は「赤ひげ」と公言しているのはきっと同じような背景があると思います。彼は黒沢映画の「用心棒」をセルジオ・レオーネがリメイクしたマカロニウエスタン「荒野の用心棒」でハリウッドに凱旋し、ドン・シーゲル監督の「ダーティー・ハリー」シリーズでスーパースターとなります。その他にも多くのバイオレンスアクション映画に監督・主演しますが、自分の映画の師であるセルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げた“最後の西部劇”「許されざる者」で念願のアカデミー作品・監督賞を受賞します。エンドクレジットには彼らに捧げると言葉が入りました。しかし、それは彼らからの決別でもあります。もう二度とあのようなバイオレンスは撮らないという意味でもあるように思います。その後の彼の映画がそれを証明しています。「赤ひげ」の青年医師が感じた自分のスタンスや位置に気づき、作るべき映画がはっきりと見えだしたのでしょう。彼も今までの経験が必要だったのです。それを気づかせてくれた師の二人に決して嫌みではなく、心から感謝する気持ちで「許されざる者」を製作・監督したのでしょう。その後に作った「ミスティック・リバー」「ミリオンダラー・ベイビー」「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」を見ても、今までにない人の心に迫るリベラルなスタンスを感じます。


 今年の春先に、千葉の親友が「赤ひげ」「七人の侍」のDVDをプレゼントしてくれました。その後は自分で「椿三十郎」「用心棒」「天国と地獄」を手に入れました。この4本の映画は私の位置を知り得た宝ものです。どうかみなさん、この映画を見て自分の位置やスタンスを省みて下さい。決して後悔させない絶対のお奨め作品です。

グッドラック感動したお奨め映画度:96点 (以前より少し点が上昇)

「スパイダーマン 3」

2007年11月26日 | Weblog
 やっとこんなストーリーが、超人気アニメ原作のスパイダーマン映画で現れた。悪人が全くいないストーリー、まるで寅さん映画のようでした。9.11以降アメリカは、マスメディアを利用してテロに対しての復讐を煽ってきた感が拭えなかった。

 今までこの手の映画では悪意に満ちた悪者達が多数登場し、そしてスパイダーマンのようなスーパーヒーローが多少いて痛めつけられながら、パワーを取り戻し悪漢どもを成敗する。しかし、新作「スパイダーマン3」では悪意に満ちていた連中にもそれなりの訳があって、誤解を解いたり改心して善人になっていく。最後には悪意を持った人物は一人もいなくなる。悪意は悪意の連鎖を呼ぶだけであって、泥沼化するイラク情勢を匂わせているように思える。

 唯一悪意を感じたのは安物カメラを編集長に100ドルで売りつける少女でした。いたずら心とも思える行為ですが、100ドルは行き過ぎ。この<行き過ぎ>が子供達には判別できない。もしこのとき編集長がニセ札を渡していたら、少女の悪意の連鎖は続くでしょうね。

かつて黒澤明監督が名作「赤ひげ」(グッドラックの超おすすめNO.1邦画)を製作したとき、「映画の中で赤ひげがヤクザ者達を懲らしめる暴力的シーンがありますが、あのシーンはサービスです」と語っていました。
 
 映画「スパイダーマン3」にも「キングダム 見えざる敵」のも目を見張るようなサービス的シーンが満載ですが、作り手はスクリーンを通して必ず観客に何かを伝えようとしています。残忍なシーンや過激なアクションの向こうで何かを訴えているのです。そしてその叫び声は大きくこだますることを願っているのです。

勝新、最後の「座頭市」

2007年11月24日 | Weblog
「落ち葉は風を惜しむ?」この言葉は勝新の最後の「座頭市」という映画の中で語られます。落ちぶれた腕の立つ浪人(緒方拳)が、市にこういます。

「落ち葉は風を惜しまない」
(だから俺と勝負してくれ… そして俺の命を散らしてくれ…)

しかし、生命力の強い市は、
(枯れ葉でも生きていたい、だから風を惜しむよ)

 誇りも失いすべてを無くした浪人の俺に、この先どんな生き方があるというのか? 両目を幼い時に失い、あんまを稼業とする座頭市。仕込み杖で悪人をたたっ切る腕を身につけ、最底辺でも必死に生き抜いてきた市。二人の生き方の違いが風を惜しむ、惜しまないという解釈の違いが生まれる。同じ最底辺を生きてきた二人を通して、生きていくことの辛さ、切なさが浮かび上がる。

 この最後の「座頭市」はシリーズの中で最も好きな作品です。やくざの女親分を演じる樋口可南子との風呂場のシーンの美しいこと。まるで時代劇とは思えない。本当に美しい!(見て下さい、凄い美しいですよ)また、丁半博打のシーンこそ、座頭市映画の真骨頂とも云える名シーン。(笑わせます)名優三木ノリ平とのやり取りも見入ってしまう。(二人ともうまい!)

 最高のシーンは、市が貧しい娘に手鏡を渡すと、初めて鏡に写った自らを眺めて「お、お母さん…」と呟くシーン。今でも思い出すと鳥肌ものです。

 かなり残忍なシーンが時々でてきますが、過激さを求める人達へのサービスです。サービス精神がてんこ盛りの勝新ならではといえるでしょう。製作・監督・脚本を手がけたこの作品以降、勝新は座頭市撮っていません。よって彼の集大成というべき作品です。

 落ち葉の季節です。今まで青々とおい茂っっていた木の葉も無情にもやがて一枚減り、一枚減りして風に散っていきます。今の自分のスタンスは、落ち葉が風を惜しむか、惜しまないかを決めます。


 さて、あなたは「落ち葉は風を惜しむ」or「風を惜しまない」
どちらでしょうか?

<若きマドンナたちへ>

2007年11月24日 | Weblog
「両親の戸籍から抜けて、配偶者と新しい戸籍を作る」これが結婚です。

 この戸籍を旦那と共同で守っていかなくてはなりません。専業主婦で子宝に恵まれたとするとこの過程を通して主婦は強くなっていきます。子供を守ることによって、経験と自信が先に構築できる主婦の方が、まだまだ社会に出てまもない若旦那より強いと感じられるのはこのためです。その若旦那様は35歳を過ぎて、部下・上司・役員、業者やお客様との距離や位置関係を体感してやっと男性は大人の仲間入りをします。

 男性はこの時期に責任ある仕事を任されないと、大人への階段に乗り遅れるように思います。若き主婦は、若旦那より先に世間の荒波を直接受けます。近隣住民問題と子供の問題です。これらは社会に出た旦那様と違って、若い主婦、ベテラン主婦の境もなく現実問題として襲ってくるのです。ペイペイ社員にはそれなりの仕事しか回ってこない男社会と大きな違いがそこにあります。毎日が一人で分析・選択・決断の連続なのです。(親と同居の場合は少し別)食事はエンゲル係数に気を使いながら決断し、新聞の勧誘を見事に斥け、NHKの請求に対処し、近隣のなんとか当番を引き受けさせられ、若旦那のネクタイまで選択し保育園や幼稚園を分析・選択・決断しなければならないのです。若旦那の意見や両親の意見も聞かなくてはならないでしょうが、最終的には若き主婦が印鑑を押し、実行することがほとんどではないでしょうか。

 ペイペイの若旦那は、会社ではこんな重要な任務を背負いません。もし、若くして任されるようなら危ない会社か、よほどマニアル化されたしっかりした会社と云うほかありません。主婦のこの分析・選択・決断の繰り返しが、若旦那様より先に大人になる要因だと思っています。

 若旦那はバージンソルジャー(初年兵)とはいえ、アスファルトジャングルで敵と戦っているのです。家に帰ってくれば「聖母たちのララバイ」の如く、若き主婦は若旦那の汚れて元気をなくした羽根を休める暖かい巣を作って待っていなければなりません。

この間、約10年。この若き主婦の辛抱が若旦那を元気づけ勇気づけ、ようやく家族を養っていける器量を作るのです。男性は女性と違って染色体が完全ではなく、特に乳幼児期は病気にもなりやすい弱い生き物です。しかし、その弱い時期を過ぎると女性にはない筋力をつけ、体も一気に大きくなることは女性の皆様も間近に見てご存じのはずです。

 社会に出たての男性も、生まれたときと同様に弱いのです。(きっとニートは男性の方が多い、これは私の勝手な独断・事実無根)孫悟空が金頓雲に乗って地上の果てまで行って突き出た岩に印をつけて帰ってくる。しかし、その岩は実はお釈迦様の指先だった。この映画を小学校時に一度だけ見ましたが、いまだに良く覚えています。「人間のやることは所詮お釈迦様の前ではこんなものだ」孫悟空の話はこれしか覚えていません。

若き主婦たちに伝えたい。お釈迦様ほどでなくていい、マドンナの如くあって欲しい。

「聖母(マドンナ)たちのララバイ」
(アーティスト ●岩崎宏美 ・作詞 ●山川啓介 ・作曲 ●木森敏之 J.スコット) 聖母は一人しかいませんが、<たち>となっているのはその役目を果たせるのは女性たちだと云っているためです。

『…この都会は戦場だから
  男はみんな傷を負った戦士
  どうぞ心の痛みをぬぐって
  小さな子供の昔に帰って 熱い胸に甘えて

  そう私にだけ見せてくれた あなたのその涙
  あの日から決めたの
  その夢を支えて生きてゆこう
  恋ならばいつかは消えるけれども
  もっと深い愛があるの
  ある日あなたが背を向けても
  いつも私はあなたを遠くで見つめている聖母(マドンナ)
  今は心の痛みを拭って
  小さな子供の昔に帰って 熱い胸に甘えて 』

この歌詞は弱くてもろい男性が作ったものです。多くの男性たちが思い描く至高のマドンナが描かれています。

若き主婦たちよ
   どうかマドンナの如くあって欲しい
   若きもろいあなたの兵士を 強く大きく育てるために

若き主婦たちよ
   どうかマドンナの如くあって欲しい
   その深き愛を思いだし 二人の夢を大きく育てるために

若き主婦たちよ
   どうかマドンナの如くあって欲しい
   今ではなく遙か彼方の幸せをつかむために……

「HERO」

2007年11月23日 | Weblog
 自宅近隣にムービックスができて以来、ナイトショーによく行くようになりました。「アンフェア」、「王の男」、「デス・ノート」、「レミーのおいしいレストラン」など、今までは映画館では見なかった映画を見るようになりました。

 さて、「HERO」ですが、見終わって車を走らせながら10分以内で自宅に着く間、最初に何を思ったか?(昔はこんな物語ばかりだった…)
「弁護士ペリー・メイスン」・「部長刑事」・脳外科医「ベン・ケーシー」

 幼い頃上記のようなテレビを見ながら、法廷で論理的でしかも感動的な演説によって無実を証明していく身だしなみのいい弁護士もの。様々な難事件を部長刑事が7人の刑事を引き連れて解決していく警察もの。毎回、緊急でしかも困難な患者に冷静な姿勢でメスを入れ大切な命を救う人間味豊かな医者もの。私たちは彼らのようになりたいと思ったものです。

「HERO」を見て今の小学生や中学生はどのように思うのでしょうか? 下記はあるサイトのこの映画の批評の一部、「赤坂から三軒茶屋を246を走ると、少なくとも2箇所のNシステムを通過しなくてはなりません。写ってますよね…確実に。」
このように詳細な情報が蔓延しているためにストーリーが現実的ではないと評価を半減させる人が、私が幼い頃より多いように思います。「ラストシーンが最高でした」と満点をつける人、こんな人は昔より少ないように思います。

 高校時代の友人から「青ざめた馬を見よ」を薦められて五木文学に惹かれていきました。しかし、私の文学の原点は吉川英治の「宮本武蔵」であり、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」です。そしてこの流れは米国のアーサー・ヘイリーへと続きます。五木寛之氏はこの世界に<情>を織り込んでいったような気がします。

 現在のようなネット社会に移行して行く中でほとんどの知識を、危ない情報までも指一本で幼い連中が自宅の密室で得られる状況は本当にいいものだろうか?
この問題について以前から疑問に思っていました。吉川英治氏や司馬遼太郎氏が描いてきた様々な主人公が、心の根底に存在している私のようなある意味古い人達とゲームやアニメ(手塚・宮崎以外?)の暴力的シーンが売り物の画像で育った人達の違いは、善悪の分別力、したい事とすべき事の判断力、先生と呼ばれる人への尊敬心、親への尊敬心は前者の方が大切にする傾向が見られます。

 反対に後者は前者より計算高く、物事を合理的に、且つ平等を基準に判断する傾向がある。1,000万部以上を売った「デス・ノート」の主人公の生き様に、心惹かれた若い人はまさしく後者の範疇に当てはまる。己の目的のためには自分の恋人や父まで殺めようとする夜神月、まるで自分が神にでもなったような言動は、家族や恋人への愛がまるで低俗なものと蔑むように思える。

 まだ幼くて、様々な生き方や思いや考え方の相違に気づかない人達に、主人公夜神月がどう映るのだろうか? それに比べて今回の邦画公開映画館数最高の「HERO」の久利生公平は、幼い人が見ても安心できる主人公と云える。巨悪を成敗するより命の尊さを訴える一検事の姿は、体制にいつも反発するキムタクのイメージに当てはまる。

 また、キムタクと松たか子との会話は、男女7人のさんまと大竹しのぶを彷彿させるくらいに良くできている。「アンフェア」のような仲間を裏切るストーリーが全盛の現代映画の中で、こんなストーリーはかえって輝いて見えるのは、いつまで立っても幼い自分から抜け出そうとしない私だけだろうか?

 ラストシーンは「卒業」の逆、つまりキムタクの当惑した苦笑い、たか子の満面の笑みで終わって欲しかったな。きっと、こんなふうに思うのは歳を取ったせいかもしれませんが…。

「感動したお奨め映画度 80点」

秀作「フラガール」

2007年11月20日 | Weblog
無から新たなものを作り出すとき、
そこには多くのエネルギーを必要とする。

昨年の日本アカデミー賞を総なめにした映画「フラガール」は、そんなエネルギーがぶつかり合う秀作ドラマです。舞台である1965年 昭和40年はこんな時代でした。

[国内]
 佐藤栄作内閣、ILO87号条約批准法案、農地報償法案を成立、さらに日韓基本条約を社共両党の反対を押し切って成立。不況と物価高が深刻化し、山陽特殊鋼の倒産、山一證券の経営危機に。政府は不況対策として、戦後初の赤字国債発行を決めた。JALPAKに人気。東京に初のスモッグ警報。第1回プロ野球ドラフト会議。シンザン5冠馬

[国際]
 ベトナムでは米軍による「北爆」や地上軍派遣が始まり、戦争はさらに拡大した。日本国内でも一般市民が加わる広範なベトナム反戦運動が始まった。

[映画]
「赤ひげ」監督:黒澤明。
「東京オリンピック」監督:市川崑。
「飢餓海峡」監督:内田吐夢。

[流行曲]
 ●「君といつまでも」 歌 加山雄三。
 ●「網走番外地」 歌 高倉健。
 ●「さよならはダンスの後に」 歌 倍賞千恵子。
 ●「愛して愛して愛しちゃったのよ」 歌 田代 美代子
第7回日本レコード大賞
「柔」 美空ひばり 作曲:古賀政男 


 本州最大の炭坑だった常磐炭坑、時代の流れは石炭から石油と移行し、日本の基盤産業は大きく変わろうとしていた。あくまで時代の流れに反抗しようとする三代続いた石炭男。そんな男達を支えてきた炭坑の母。そんな家族の中で育った夢多き娘。この一家を中心に物語は進行する。

 2,000人という大量人員削減。時代は無常にも過去の遺物を押し流して突き進んでいく。「ゆでカエル」(熱湯の中にカエルを入れれば飛び出るが、水から徐々に温度を上げていくとカエルは気づかずに死んでしまう)が如く、時代の変化に遅れたものは死滅していく。

 人前で肌を見せ、腰を振って媚びを売るような仕事に就こうする娘。そんな娘と縁を切ってまで諫めようとする母。しかし、その母も髪を振り乱して熱心に練習する娘の姿に自分達の時代の終焉を感じていく。そして若い新たな時代の訪れを感じる母の眼差し。炭坑男はこう叫ぶ。「いつまでも時代のせいにしてればいい」「時代の方が変わったんだ。何故、俺達まで変わらなければならない?!」そんな人々の想いを飲み込みながら、いつの世も時代の流れに人々は翻弄されていく。

 人はスタンスを変えたくないのだ。家族を守るために頑固なまでに固執してきたスタンスは生きていくための大切な支柱だったのだ。カメが脇目もふらず、モクモクと目標を目指して歩いていったからこそウサギに勝ってしまった、この生き方を変えることなどできないのだ。日本の屋台骨を背負っていた炭坑の誇り高き男達。その<自尊心>が辛い肉体労働から彼らを守っていたのだ。時代が変わっても彼らの<自尊心>は、風見鶏のようにそう簡単に変わらないのだ。


 時代の変化を体で感じている若者達こそが、その時代の先駆者達なのだ。過去の栄光や遺物を背負ったことのない若者こそが、無から有を作り出す大きなエネルギーを発することができるのだ。

 石炭掘り三代の重みを背負った兄は、時代の先駆者として突き進む妹を見ながら自分たちの時代が確実に終わったことを知り、頬を緩めるのだった。

       ………
 
 映画「フラガール」(お奨め度:85点)
 
 この映画をベタだというような冷めた気持ちの若者達にこそ、
 見て貰いたい秀作です。

「プラダを着た悪魔」

2007年11月17日 | Weblog
 ファッション誌「ヴォーグ」の元アシスタント、ローレン・ワイズバーガーが書いたベストセラーの暴露本が原作だそうですが、映画ではアン・ハサウェイ演じるアンドレアは将来的にはジャーナリスになることが目標という設定でした。
 
 その為のキャリアとして、「プラダを着た悪魔」ことメリル・ストリーブ扮するミランダの秘書として就職を果たし、悪戦苦闘の果てにアンドレアは何を得たのか。これが映画の主題です。
 
 若いときは、多くの夢を持って社会に出ていきますが、現実の世界は決して容易な事ばかりではないのです。まるで悪魔のような上司にこき使われ、その上司の子供が読みたがっているまだ発刊されていない本まで探せと命令されます。天然のアンドレアはそんな命令に対しても忠実に、懸命に努力します。その過程の中で挫折し、また知人の助けを借りて成長していきます。しかし、世話になった先輩秘書や恋人まで、いつの間にか傷つけてしまうのです。
 
 そうこうしながら、悪魔と呼ばれる上司の懐に飛び込んで、彼女の孤独な心情にも触れていきます。そして、アンドレアは上司がNO.1の地位を維持するために、多くの大切なことを切り捨ててきたことを初めて知ります。同時に、自分も大切なものを失いかけていると自覚するのです。
 
 私は若いときにこんな瞬間があっていいと思います。なりふりかまわず全神経を集中して、今与えられた仕事に打ち込む、そんな瞬間が必要な気がするのです。そのキャリアを経て、自信をつけ、人は自分の目指す目標を明確にできるのだと思うからです。
 
 ラストシーンにそれが伺えます。アンドレアが今もNO.1の地位君臨するミランダと道路で再会したシーンです。二人は目を合わせ、アンドレは心の中できっとこんなふうに思ったはずです。

「あなたのおかげで私は、自分の道が明確になりました。
 だけど私はあなたのような孤独な女性にはなりません。
 大切なものをしっかり守るために今の仕事を頑張ります」

ミランダも彼女の表情から彼女の気持ちを読みとります。
「あなたは聡明な子よ。私のように大切なものの優先順位を間違えないで生きていきなさい。優先順位を間違えると私のように不幸になるよ」
 
最後にふっとミランダが見せた微笑みは、私には哀れな自分への苦笑いに見えました。
                      (お奨め度:78点)

 社会に出てやってみたいことは沢山あるはずです。しかし、そのすべてをやるのは不可能で、やりたいことを見つけるのも難しいと思います。今与えられた仕事に集中して頑張って下さい。先輩や上司という一つの組織に中で、自分を客観的に見つめ直し、アンドレアのように自分自身の道をしっかりと見つけて下さい。

 人は自分の人生で会わなければならない人には、必ず会うと云われています。そしてその時、その重要な出会いを自覚できるかどうか、その為にはしっかりと前を向いて生きているかどうかが、分かれ道となるような気がします。

 「人は行きつつある方向からやってくる」
                 (エイザベス・ゲイジ『真夜中の瞳』より)

<海外旅行>

2007年11月16日 | Weblog
 海外旅行は、若いときこそ意味があるとよく言われます。それは、まだ固まっていない考え方や自分のスタンスを構築する上で異国での人とのふれあい、日本にはない自然や構築物、芸術に触れた経験、その国々の習慣・風俗の発見が、心の幅を広げ深みや豊かさを作るきっかけになるからだと私は思っています。

 学生の頃、28日間かけてイギリス、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダ、スイス、フランスに旅行に行きました。世界青少年交流団体からの派遣で、ケンブリッジ・オックスフォードの学生寮に泊まって、YWCAで日本の文化(空手・柔道・剣道・習字・華道・茶道)を紹介(私は習字を披露)したり、スコットランドの田舎の老夫婦宅で単独で3泊したりして、計7カ国を回りました。

 今、考えるとあの時の経験が、いかに自分自身にとって大きな役割を果たしているかを改めて思います。様々な体験が視野を広ろげ、心に窓をいくつも持たせることになります。そのことが心の体積を大きくさせていくのだと思います。

 少し前に高校生の学校での飛び降り自殺事件がありましたが、仲間?に何度も脅され金を要求されていたそうです。携帯に残っていた加害者からのメールが決め手となり逮捕に繋がったそうです。確か4名の高校生が逮捕されました。本当にいつまでもなくならない痛ましい虐め事件です。自殺した彼の心の窓はきっと少なかったに違いありません。そして、どの窓も開かず沈黙せざるをえない恐怖と孤独の世界を想像すると、本当に可哀想で胸を掻きむしられそうになります。そして、子を持つ親としても絶対に許せません。もし我が子だとしたら私は法を犯すような復讐を考えてしまうかもしれません。

もし自殺を考えている少年少女がいたら、こんなことを伝えてあげたい。


 もっと世界は広いんだよ
 もっと楽しいことが一杯あるんだよ
 もっと素敵な人と出会えるんだよ

 諦めないで、窓を開いて
 もっと心の窓を増やして、すべての窓を開いて
 心を解き放とうよ

 スポーツを楽しもうよ、一緒にやろうよ
 どんな映画が好き? 一緒に見ようよ
 どこに行きたい? 一緒に行きたい

 絵を描いたり、写真を撮ったり
 何を描きたい? 
 どんな笑顔を残したい?

 もっと本を読もうよ?
 どんな言葉が心に響くの?

 どんな女の子が好き?
 ラブレターの書き方を教えてあげるよ

 これから先、どんに楽しいことが待っているか
 一杯教えてあげるよ

 だから早まらないで
 自分で心を閉じてしまわないで

 だから早まらないで
 この世でたった一つの大切のお命だから

 

「ブラッド ダイヤモンド」

2007年11月15日 | Weblog
 エドワード・ズィック監督にマスターの称号を与えたい! この20年で最高の作品、最大の感動を与えてくれました。「赤ひげ」「ゴッドファーザー」「風と共に去りぬ」が、私のトップスリーですが、この作品はこの3作品を凌ぐものでした。

 今までデカプリオファンではなかったのですが、はじめて彼の名演に胸を打たれました。共演のジェニファー・コネリーも繊細なヒロインではなく、初めてタフなジャーナリストを好演し、ジャイモン・フンスー(「グラディエーター」)は、心を揺さぶるほどの名演を見せてくれました。この3人の今までにない迫真の演技は、心臓を鷲掴みにされるような緊迫した画面の連続の中、益々その度合いを強めて行きます。まさしく、男性2名はオスカーに匹敵する演技だと思います。

 ストーリーは「ナイロビの蜂」と同じく、政府軍と反乱軍の内紛続く、アフリカの小国が舞台。違いはダイヤモンドと大手製薬会社の新薬人体実験です。あの映画でも、貧困と戦う悲惨なアフリカの一般市民が描かれましたが、今回はもっとフォーカスされ鮮烈に、しかも親と子の深い愛情をベースに描かれるところが、子を持つ私の心を強烈に捕らえたのです。デカプリオもコネリーも映画のストーリーから見れば添え物でしかありません。かといって「ナイロビの蜂」のように社会派的要素は高くはないのです。親と子の深い絆の映画と云って良いでしょう。だからこそ、私は今までで見たベスト作品に押したいのです。

「ゴッドファーザー」「風と共に去りぬ」も基本はファミリー愛の映画です。「赤ひげ」は、青年医師と赤ひげの師弟愛をベースに、心の奥にまで踏み込んで治療していく医師の愛情溢れる物語です。

「ブラッド ダイヤモンド」は、親と子の不変の愛がテーマです。確かにすざましい戦闘シーンや過激な殺戮のシーンがありますが、決してそれらのシーンが売り物ではなく、見終わって、心に残るのは親と子の愛の物語だという映画なのです。これが、私の今までで最高の作品という所以です。

「感動度:98点 最高のお奨め作品です」是非皆さん、見て下さい!!

「ALL THE KING'S MEN」

2007年11月14日 | Weblog
 ロバート・ペン・ウォーレンのピュリッツァー賞受賞作を49年に続いて豪華キャストで再映画化した政治ドラマ。主演は「ミスティック・リバー」のショーン・ペン、共演に「アルフィー」のジュード・ロウ。監督は「ボビー・フィッシャーを探して」のスティーヴン・ザイリアン。

 製作者の一人マイク・メダヴォイはこんな風にこの映画を伝えています。「政治を枠組みとして使ってはいるが、本質的には、人生についての物語、我々全員に関する物語なんだ。我々は皆、腐敗する可能性があるし、愛することも憎むことも裏切ることもできる。それらは太古の昔から人間の原動力となってきたものだ。ウォーレンの小説は、人間の本質を描いている。善人でもなければ悪人でもない、その間のどこかにいる不完全な人々を描いている。彼らはもともと善意の人でありながら、権力に屈し、悲劇的な結末を迎える。」

 久々の大人の大河ドラマで、クーラーを切っていたせいかもしれないけれど汗をかいて見てしまいました。ショーン・ペンは相変わらず難しい人物を演じていますが、ジュード・ロウにはそのお相手は少し荷が重たかったようです。アンソニー・ホプキンズは存在感のある名演を見せています。ケイト・ウィンスレットとの切ないラブシーンでロウの独白が流れます。「人生を決める瞬間は数回しかない。もしかしたらただ一度かも…」心の残る文章です。

 半世紀以上生きてきて、思い当たることがあるからです。人生の春を生きている人には決して分かりようがないかもしれません。でも、私が大学生の時に見たエリア・カザンの名作「草原の輝き」のラストにワーズワースの詩の一編が流れました。「今がその時だ」と私は自覚できました。

「…草の輝くとき 花美しく咲くとき
  再び戻らずとも嘆くなかれ
  その奥に秘めたりし力を見いだすべし…」

 今、人生の春や夏を生きている人でもその瞬間を自覚できるかもしれません。ジャック(ジュード・ロウ)は、どうしてあの時、アン(ケイト・ウィンスレット)を抱かなかったのか? この純粋で切ない決断が、彼の人生を決めた唯一の瞬間でした。この決断が、人生の傍観者のような記者という職業を選び主体性のない「王のすべての臣」となり果てたことを知ります。そして「何事も代償をともなう」というセリフが切なく胸に迫ってきます。私の感じ方は、映画や原作者の意図から少しずれているかも知れません。主題は、前半に書いたメイク・メダヴォイの話ですが、「人生を決める瞬間は数回しかない」このセリフが私にはあまりにインパクトが強かったのです。

  <人生を決める瞬間>は、誰にでも最低1回はあるのです。


<感動したお奨め映画度>80点

   今、人生の春を生きている若い人たちに伝えたい。
   その時を生きている事を自覚して
   その時を大切に過ごして欲しい。
   そしてその時のある決断が、
   その後の人生を決めることがあることを。

 主人公の切ない決断は映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の主人公、サルヴァトーレの裏切られたという切ない決断と似通っています。その時の決断が、後の映画製作に没頭する人生につながっていきます。


 私の人生を決めた瞬間? 今、振り返ると私には見えます。さあ皆様も、振りて返って見て下さい!きっと春の時代(結婚までの人生)にその瞬間があるはずです。



「バッテリー」

2007年11月13日 | Weblog
 児童文学出身の人気作家あさのあつこの代表作である同名ベストセラーを映画化。 リトルリーグで剛速球投手だった主人公が、病弱の弟をかまう家族と共に田舎の中学校に 入学した1年間を、家族との葛藤・一緒にバッテリーを組む同級生との友情を通して成長していく姿を描きます。カーブやフォークなしのまさに直球一本で物語は展開します。主演はオーディションで見出された新人、林遣都。監督は大好きな映画「壬生義士伝」の滝田洋二郎。

映画を見ていて、伊集院静氏と長嶋茂雄元監督との話を思い出しました。

伊集院氏が長嶋茂雄さんに尋ねます。
「いま子供たちにスポーツを勧めるとしたら何がいいでしょうか」
「もちろん野球です」
「では野球をどうやって教えていきますか」
「それはキャッチボールです。キャッチボールの前に、まずボールを持たせてみるといい。手の中にあるボールの感触がいかにいいかというのは子供にはすぐにわかる」
キャッチボールの基本は相手の胸に投げることで、それは捕りやすいボールを投げるということです。キャッチボールは連続性が大切です。捕って終わるのではなくて、捕ってから相手に投げ返してまた受けるわけです。それからキャッチボールの非常に奇妙で面白いところは、暴投をしたほうがボールを拾いに行くのではなくて、受け手側が「いいよ、いいよ」と言って捕りに行くところです。そうしますと「ごめんナ」と言いながら、「この次はいいボールを投げてあげなくちゃ」と考えるようになる。長嶋さんはそれが「会話」だと言います。

           …………                       

 今、多くの子供達は会話をうまくできないでいるような気がしてなりません。自分の思いをうまく伝えられないのです。これは決して子供に限ったことではありません。この映画にも自分の思いをうまく伝えられない人々が登場します。きっと野球を通して会話を学んで欲しいと長嶋さんはおしゃっているのでしょう。


 この映画は原作者の<あさのあつこ>さんの故郷、岡山県の美作で撮られたそうですが、山々の緑・美しい川・木々に囲まれた神社の境内など都会では見られない豊かな自然を背景に物語は進んでいきます。田舎から都会に出ていった人の多くは「帰られるものなら、いずれは帰りたい」と思っているに違いありません。それは、幼い頃、地元の自然の中で仲間達と過ごした瞬間を記憶しているからでしょう。仲間と自然が一体になって思い出が輝いているからに違いありません。

 笑顔の少ない天才投手といつも満面の笑みで彼の速球を必死に捕ろうとしているキャッチャーが、野球と通して会話を積み重ねていく。周囲の人達とも野球を通してお互いの心根に触れていく。「バッテリー」はそんな映画です。

<グッドラック感動のお奨め映画度」:82点

(誰も死なないストーリーで2点プラス)


*映画を見ながら、伊集院静氏の直木賞小説『受け月』も同時に思い出しました。野球をモチーフに人々の心の葛藤と成長を描く、輝くような短編集です。機会があれば、読んでみて下さい。





<悪は悪でなく…>

2007年11月12日 | Weblog
小さな悪を幼い頃から見続けた子供達
牙を剥いて怒りを見せる親を見続けた子供達
ダースベイダーが落ちていった悪は私たちの身近に存在している。

幼ない子供達には「悪は悪でなく、善も又、善に見えない」

悪との遭遇
その過剰な刺激と摩擦に堪えていくために
その悪を身につけていくしかないのか?

巷には悪意に満ちた出来事が氾濫している。
親は我が子にどう向き合えばいいのか?

何のためにナビ付き携帯を持たせなくてはならないのか?
親は子供にどう説明すればいいのか?

悪意と善意の関係は
どこか感情と理性の関係と似通っている。

ソクラテスが「無知の知」を知らしめるものこそ
「理性」であると喝破した。

また彼は、人間が自由であるためには何よりも受動感情から脱して、
理性ないし知性の支配を確立せねばならないとも説く

そんなソクラテスも
「理性とは、感情という名の大海に浮かぶ一片の木の葉のようだ」と嘆く。

これを言い換えると
「善意とは悪意というの名の大海に浮かぶ一片の木の葉のようだ」


中国の古い諺にも似通った話がある。
「好事不出門、悪事行千里」(こうじもんをいでず、あくじせんりをゆく)
悪意が千里を走るのだ 人は誉める事より、人を貶める話を好むのです。

政治の世界でも似通っています。
政策論争より、スキャンダルをすっぱ抜き
記者は、善行をより悪行報道こそが報道の本道と思っているふしがある。
世間も小難しい政策論争より
分かりやすい感情的なスキャンダルにしか目を向けないからだ。

悪事が染みついた親から
悪事に満ちた産湯で
悪事に染まった手で取り上げられ
悪事が解き放たれた大気吸って
赤子はどんな人に育つのか?

母の手を煩わすためにオムツを汚す赤子はこの世にいない。
悪意はすべて後天的なもの
言い換えると「抗菌可能」ということだ。

以前「悪意を退ける?」で書いたが、
悪意を寄せ付けない為には
「強い心」がとても大切なものとなる。

人はひどく弱い生き物だ。
宗教が生まれ、多くの人が心のよりどころにしてきたのもその為だ。

映画「ALL THE KING'S MEN」の製作者マイク・メダヴォイは
こんなことを云っている。

「我々は皆、腐敗する可能性があるし、
 愛することも憎むことも裏切ることもできる。
 それらは太古の昔から人間の原動力となってきたものだ。
 それが、人間の本質であり、
 我々は、善人でもなければ悪人でもない、
 その間のどこかにいる不完全な人間だ。」


不完全だと知ることが、「無知の知」を知らしめることにつながり、
<理性>という至高のもの
つまり「強い心」に手が届くのだ。

人間が本当に<自由>であるためにも
この「強い心」は必要なものである。


「スパイダーマン 3」

2007年11月12日 | Weblog
 やっとこんなストーリーが、超人気アニメ原作のスパイダーマン映画で現れた。悪人が全くいないストーリー、まるで寅さん映画のようでした。9.11以降アメリカは、マスメディアを利用してテロに対しての復讐を煽ってきた感が拭えなかった。

 今までこの手の映画では悪意に満ちた悪者達が多数登場し、そしてスパイダーマンのようなスーパーヒーローが多少いて痛めつけられながら、パワーを取り戻し悪漢どもを成敗する。しかし、新作「スパイダーマン3」では悪意に満ちていた連中にもそれなりの訳があって、誤解を解いたり改心して善人になっていく。最後には悪意を持った人物は一人もいなくなる。悪意は悪意の連鎖を呼ぶだけであって、泥沼化するイラク情勢を匂わせているように思える。

 唯一悪意を感じたのは安物カメラを編集長に100ドルで売りつける少女でした。いたずら心とも思える行為ですが、100ドルは行き過ぎ。この<行き過ぎ>が子供達には判別できない。もしこのとき編集長がニセ札を渡していたら、少女の悪意の連鎖は続くでしょうね。

 かつて黒澤明監督が名作「赤ひげ」(グッドラックの超おすすめNO.1邦画)を製作したとき、「映画の中で赤ひげがヤクザ者達を懲らしめる暴力的シーンがありますが、あのシーンはサービスです」と語っていました。
 
 映画「スパイダーマン3」にも「キングダム 見えざる敵」のも目を見張るようなサービス的シーンが満載ですが、作り手はスクリーンを通して必ず観客に何かを伝えようとしています。残忍なシーンや過激なアクションの向こうで何かを訴えているのです。そしてその叫び声は大きくこだますることを願っているのです。

「Dear Friends ディア フレンズ」

2007年11月12日 | Weblog
 映画館で予告編を見て、気になっていた邦画「ディア フレンド」をようやく見ることができました。『Deep Love』などで女子中高生に人気のベストセラー作家Yoshiの同名小説を映画化した作品です。

 どうしてあんなに荒れた少女に育ったかは残念ながら描かれていませんでしたが、裕福な家で、わがまま一杯に育った美人のリナ(北川景子)は、モデルにもスカウトされディスコクラブの女王として君臨していた。「友達は必要なとき利用するもの」と公言していたリナ、そんな彼女が癌と告知されて一気にどん底に落ちていく。

 オロオロする両親、医者に食ってかかり、治療さえ拒絶っするリナ、そんな周囲との葛藤の中、自殺を決めたリナの前で唯一の友人マキ(本仮屋ユイカ)が自らの胸を刺して諫める。すべてを失ったリナを支えてきたマキも不治の病に冒されていた。

本当の友情とは? 愛とは? 生きる目的とは?
暗黒の闇の中でリナが見つけたものは?

…………

子を持つ親として見ていて大変辛い場面がありましたが、予想を超えた展開に引き込まれました。

人は同じような境遇にならない限り、相手の気持ちをわかり得ないのか?

虐めの加害者が被害者にならない限りわかり得ないのか?

人間とはそんなにも愚かな生き物なのか?

どうしたら、悪意をまき散らしていたことに気づくのか?
どうしたら人の想いに気づくのか?
どうしたら親の愛や真の友情に気づくのか?


「人はわかり得ない」と思うところからスタートする方が、いいのではないか。
この映画を見ながら人の心の哀しみをこんな風に考えてしまいました。

<お奨め映画度:80点>

「ブレイブ ワン」

2007年11月12日 | Weblog
 この手の映画を作らせたら右に出るものなしのようなジョエル・シルバー(「48時間」、リーサル・ウエポンシリーズ、マトリックス・シリーズ、「ラスト・ボーイスカウト」)が初めて、ジョディ・フォスター、奇才ニール・ジョーダン監督(「クライング・ゲーム」、「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」、「マイク・コリンズ」)とスクラムを組んで作った新作映画がこの作品だ。ジョディが撮影総指揮まで買ってでて、ペキンパーの「わらの犬」や「ゲッタウェイ」のような暴力賛美的映画を作るのは到底ありえないと思い興味を持っていました。

 ニール・ジョーダンの「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」で見せた壮絶な残虐シーンから匂い立つような切ない演出は見事だったが、(トム・クルーズとプラビの共演は忘れられない)この映画でジョーダンは、暴力に脅える女性を最後まで持続した緊迫感シーンの連続の中で描き切った。エリカ(ジョディ)と結婚寸前の恋人は、3人の通り魔のような連中に襲われ、恋人は死に自分も意識が戻るまでに3週間もかかる瀕死の重傷を負う。狭くて暗い廊下は、暴力を受けた公園のトンネルを思いだし街を歩いていても後ろからの足跡に恐怖を感じてしまう、そのストレスにうち勝つために彼女は拳銃を手に入れた…

 「キングダム」「スパイダーマン3」でも書いたが、暴力は復讐の連鎖を生み、自らの心を崩壊していく。製作したジョディはニール・ジョーダンを使ってこの問題をどう描きたかったのか。そんな思いでこの映画を私は楽しみにしていました。
熱演したジョディ、さすがニール、正しくシルバー映画でした。ただ、最後の落ちはイマイチ、気に入りませんが……。

●<グッドラックのこの映画のキャッチコピー>

野獣のような連中が徘徊しているアスファルトジャングル

女は一人で生きて行くために銃を必要とした

しかし、彼女が手にしたものは自らの心の崩壊であった

死んでいく方法はいくらでもあるが

生きていく方法は数少ない

◆グッドラックのお奨め映画度:82点


「死を選ぶ道はいくらでもあるが、生きていく道は数少ない」

 昨夜見たジョディ・フォスターの製作・主演映画「ブレイブ ワン」の中のセリフだ。暴力を全く体験しない人にとって、暴力は言葉としての意味を脱しえない。圧倒的な暴力の前では、正義を振りかざしてもなんの意味もない。私が大切に想う<情>でさえ、たとえは悪いが墓石に布団のようなものだ。

 怒りには大きなパワーが含まれている。『山椒太夫』の厨子王、『岩窟王』のエドモンド・ダンティス(モンテクリスト伯)や『霧の旗』の霧子は、その怒りを胸に秘め長い月日を堪え忍び、復讐の炎を燃えたぎらせて生き抜いたのだ。

 若い日に読んだ主人公たちの辛い思いは、私の心の堆積物、タゴールのいう川岸の土や石となり、堪えて忍ぶ力を生み出してくれたと思っている。<怒り>は間違いなく生存権を脅かされた獣としての本能だ。この本能を制御しうるものなどこの地上にはないのかもしれない。もしあるのだとしたら、それは<信念>という人間だけが持ちうる至高の力だけかもしれない。

原題は勇気ある人を意味する。
この映画は、挫折しながらも圧倒的な<怒り>に立ち向かい、
勇気ある人になろとした一人の女性と刑事の物語だ。