GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「復興の道筋の一つ」(下)

2011年04月19日 | Weblog
 このような世界情勢の中で、今回の大災害が起こりました。最新の原子力開発という日本の大きな輸出施策も崩壊し、日本内でも今後の電力開発のあり方を大きく変えることになるだろうと思っています。4期目の都知事選を堂々と勝ち切った石原都知事がテレビインタビューで、こんな事を語っていました。「東京が貧乏になってもいいじゃないか。復興の為に何でもやる。言われないこともやる」と少しやつれた顔で答えていました。あの言葉でも推測できるように今後、国内の動きは、すべてのキーワードに<復興>が含まれるような気してなりません。

 電力供給は近代国家の根幹をなす絶対的なものです。第二次世界大戦に踏み切ったのも、海上封鎖による石油の凍結でした。原子力という最も安価で最もCO2削減にも適したエネルギーが、将来的に大きな課題を残しただけに、今後の原子力開発は頓挫する可能性が高まっています。それは、全国民の電力のあり方を考え直すことにもつながります。省エネへの取り組み方にも今までとは違った変化を見せるに違いありません。

 バブルがはじけて、大災害によって<自戒>モードに切り替わるのではないか、というのが私の行き着いた結論です。円高によって日本企業は海外生産を大胆に進めてきました。かつて世界の富は、ダッチマン、ユダヤ、華僑がかき集めたと言われましたが、日本の海外進出の多くの企業は「雇用の拡大」、「日本企業を最新技術を世界に知らしめる大きな役目」を担いました。そこにはかつての連中とは大きく異なる<共存精神>が存在しています。
 大戦前、台湾は日本の統治下にありましたが、今回の災害に対して500億円の援助金を申し出ています。フランスや英国のインドシナ半島やインドにて長い間食い物にしてきた歴史とは一線を画すものがあったからだと推測しています。その違いを一言でいうと統治国に教育を施すか、施さないかの違いです。
 例を挙げれば1924年大正13年 京城帝国大学 (建物等はソウル大学校に引継)。1928年 昭和 3年 台北帝国大学設立です。フランスやイギリスは、統治国には大学どころか、教育を一切施することなく、隷属国として扱ってきたのです。とにかく共存の精神は昔から日本人にあった素晴らしい対応精神だと思います。この対応力は、日本人が他の民族に対して共感できる豊かな感性を有していることの証明でもあります。<共存精神>は、バブル当時の高慢な「JAPAN IS NO.1」思想を<自戒>するものであり、日本人本来が保有していた精神でもあります。日本の技術力やイノベーションを広めながら他国と共存していくことは、将来的に日本人を知らしめるために大切なことだと思っています。 

 バブルの崩壊は、<バベルの塔の崩壊>と似通っています。旧約聖書の書かれている<バベルの塔>の物語は、もともと人々は同じ1つの言葉を話していた事が原因で、煉瓦とアスファルトを用いて天まで届く塔を作って神を冒涜したとされています。そして神は人々に違う言葉を話させるようにしたという。また、人々が「石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを」用いたという記述から、古代における技術革新について触れながらも、人間の技術の限界について語る意味があると考えられています。私たちはこの話を逆説的に理解し、他民族が相互理解を深めるために英語という共通語を身に付ける、この発想は決して間違っていないように私は思います。

 日本は自国だけの発展を優先するのではなく、共存精神を掲げて隣国との共存共栄を今まで以上に目指し、アジアの国々と共に世界でのアイデンティティーを構築して行くべきだと思います。そのためには世界共通語としての英語をもっと身近なものにして、多くの人が他民族とのコミュニケーションを図れるグローバルな国民に進化して行く必要性を強く感じます。日本語は他民族が学ぶにはとても難しい言語だと思います。だからこそ、日本人は自らが今まで以上に積極的に英語を習得し、古来の豊かな感性を活かして他民族を受け入れ、一般レベルでの積極的な交流を図り、共存共栄ができる社会を構築していくことが大復興の道筋の一つだと思います。

「復興の道筋の一つ」(上)

2011年04月19日 | Weblog
 私は物事に対処するとき、「この出来事をどう捉えるべきなんだろうか?」と自問自答します。優先順位の低いことにはそれほど時間をかけて考えることはありませんが、大きな出来ごとや将来的に必ず重要になると判断される時、心構えを定めることに力を注ぎます。
 今も余震が続く東日本大震災。長い日本の歴史の中で、かつて経験したことがない今回の大災害。この悲惨な出来事をどのように捉え、今後の心構えとしてどう受け止めるべきなのか、そして今後の道筋は? 

 この答えを得るために常に脳裏の何処かで自問自答しています。大学を卒業し、就職を決める時も、そうだったし、12年後に退職するときも1年がかりで考え込みました。退職の際の課題は、「今後、伸びゆく産業とは?」でした。そして、外食産業を選び、IYグループのファミリーレストランに入社しましたが、辞める2年前くらいから外食産業の限界を感じ始め、今後の生き方を考え始めたときと、不謹慎とは思いますが、どこか状況が似ているように思います。当然1ヶ月ほどで今後の日本の流れや定年後の生き方を含めて判断できる筈もありませんが、この大災害は今までの日本の流れや行く道筋に、必ず影響を与えるように思えてならないのです。

 その根拠の一つが日米安保体制の変質です。日米安全穂所為条約を締結した当時、米国はソ連の共産主義の進行を止めることが最大の命題でした。戦争に負けた日本が共産主義国の仲間入りさせないことが絶対でした。そして全世界に<米国の正義>である民主化の流れを促進するためには日本を守る姿勢を示さねばならなかった。それが日米安保体制という具体案となって表れました。そのお陰で日本はアジアで唯一、素晴らしい発展を遂げました。しかし、決してこの発展は安保体制だけではありません。勤勉で優秀な日本民族が力を結集し技術革新(イノベーション)を続け、復興に尽力した結果であることはいうまでもありません。
 
 その後、米国の基幹産業だった電子機械、半導体、コンピューター、自動車産業において、米国企業は日本企業に負け続けていました。そこで米国は日本の経済躍進を食い止めるための防御策を発案した。これが1985年の<プラザ合意>(為替レート安定化に関する合意。)です。つまりドル安円高という高慢な施策でこの争いに終止符を打とうとしたのです。91年にソ連の共産主義世界体制が崩壊し、日米の敵が消滅しました。そして日本のバブル経済もその前年からはじけ始めました。「日本を共産化から守る同盟」という日米安保の戦略的意義が、「日本の経済を封じ込める同盟」へと変質した結果です。
 異常な円高は、90年代初頭、円は購買力平価の2倍という異常な過大評価となり、日本企業のコストを一気に国際水準の2倍に押し上げました。そして日本の労働者の賃金も2倍となったために、企業は雇用削減、正社員から非正規雇用へのシフト、生産の海外移転など劇的なコスト引き下げを迫られました。結果、ユニット・レーバー・コストは大きく低下し、なんとか企業は競争力を維持できましたが、日本の労働賃金はその犠牲となり、長期にわたって低下し続け、日本にデフレをもたらしました。
 しかし、この苦しい20年間に大きな成果が獲得されたことを、見過ごすべきではないと思います。米国の要求と円高に対応していく過程で、賃金だけでなく流通コストや公共料金などが大きく低下し、日本は世界一の高物価国から、世界有数の低コスト国に生まれ変わり、日本企業は著しくスリムになったのです。また海外に生産をシフトしたことで、日本は輸出基地から世界経営の本社へと機能を変えており、いまや日本企業が海外で膨大な雇用を生む状況になりました。加えて日本企業はハイテク素材や部品、装置などでも技術優位を獲得しました。

 この状況を踏まえて米国は<新たな安保体制>という戦略を構築しようとしています。それはかつての日本と同様に大躍進を続ける大国中国の台頭への対応です。そのために中国という強大な国に対抗するために、アジア最大の民主主義国家である日本のと同盟、つまり<新たな安保体制>の再構築に着手せざるを得なくなったのです。この読み通り推移すれば、まず過度の円高は解消させるだろうと思います。さすれば企業収益の回復、賃金上昇、株価・地価の上昇、円高・デフレ傾向の反転が連鎖的に起こり、われわれが今目にしている経済風景は一変するのではないか。かなり希望的観測ですが将来的な流れはこのように進むのではないかと思います。

 

「自戒の心」

2011年04月10日 | Weblog
 歳を重ねることで、やっと見えてきたり、感じてきたり、分かってきたりするものが沢山あります。公開当時、大して面白いとは感じなかった1974年公開の「ゴッドファーザーⅡ」を35歳を過ぎて改めて見直したとき、とても良くできた映画だったと感激しました。あんな経験は初めてでした。結婚し子供を育て、ファミリーを守る生き方を実感し、中間管理職となって上と下への視線の違いを実感したことが大きな経験となり、ファミリーを守るゴッドファーザーの苦悩を私なりに共感できたのだと思います。昨夜も連れ添いがこんなことを私に語ってくれました。「映画も本もスポーツ観戦も歳を取っていっぱい感じられるようになった。私は歳を取るのをうれしく思う」

 以前父と一緒にゴルフを楽しんだ頃、父はこんなことを云っていました。「歳を取るほど悲しいことはない」その言葉を聞いたときの父の表情は本当にとても悲しげでした。もっと遠くまで飛ばせたボールを息子は遥かに先にまで飛ばしていく。好奇心旺盛だった若い頃に比べ、楽しいことが少なくなっていく。気持ちがあっても身体がついてこない。そして疲れは明日まで残ってしまう。限りある命の時間の減少を感じてしまう。美味しいもの食べたいという気持ちが減退していく。年老いていく自分を憐れんでいるかのようでした。

 今もそうですが、私は母を失ってからの父の姿がとても悲しそうに思えてきました。兄夫婦と2世帯住宅に住んでいるのですが、兄とは以前から折り合いが悪く、母がその架け橋をしていたのですが、今はそれは望めません。父を見ていると、まるで残りの人生に苛立ちを感じてやりたい放題だった映画「セント・オブ・ウーマン」の主人公の退役軍人(アル・パチーノ)を彷彿します。(父はあんなにひどくはありませんが…)
 私は本来人は、一人で死んでいくものだと思っています。親身に世話をしてくれる人や温かい家族に見守られていようと、この世を去る切なさを他人が分かるはずがないと思っているからです。だから「余計なお世話だ」という主張している父の後ろ姿、映画の退役軍人の姿に共感してしまう自分を感じます。かと云って一人で死んでいく孤独に、正直堪えられるだろうかという不安も持っています。

               

さだまさしの『関白宣言』の終わりにこんな詞があります。

…子供が育って年を取ったら
 俺より先に死んではいけない
 例えばわずか一日でもいい 
 俺より早く逝ってはいけない
 何もいらない俺の手を握り
 涙のしずく ふたつ以上こぼせ 
 お前のお陰で いい人生だったと
 俺が言うから 必ず言うから
 忘れてくれるな 俺の愛する女は
 愛する女は 生涯お前ひとり

 私はこんな最後を迎えたいとずっと思っています。父も実はこのようなことを考えていたのではないでしょうか。母は脳梗塞で倒れ、そのまま一言も交わせず逝ってしまいましたが、その前に心臓と腰の病気で数ヶ月入院したことがあります。その時、父は雨の日も風の日も欠かさず毎日3回母を見舞いました。その優しい父の通院姿は、看護士達の間でも有名になったほどでした。母の気丈な姿を誰よりも身近で見てきた父にとって連れ添いの苦しむ姿に心痛めたのでしょう。父は若いときに商店街で苦労して2軒の店を持ち、そのストレスがたたって胃潰瘍で血を吐き生死をさまよい10名ほどの従業員を使う身分になって、放蕩三昧もして母を悩ませてきました。しかし、母を看病する姿は兄夫婦や私たち夫婦を唖然とさせました。それは母に対して今までの深い感謝の気持ちにほかなりません。私たちはそんな後ろ姿を見て唖然とし、そして長年連れ添った夫婦の崇高な愛情に見え思えたのです。しかし、突然連れ添いを失った父の心中を誰が本当に理解できるでしょうか。父自身でさえ、心の支えだったことに初めて気づいたのかもしれません。そして気づいたとしてもどうすることもできないのです。


 人間が万物の霊長たる所以は<自戒>にあると私は思っています。幼い子供たちは歳を重ね学習することによって教養を身に付け、ようやく自立と自律、つまり<自戒>を学んでいきます。戦国の武将、秀吉も晩年、同じように<自戒>を失ったのではないかと私は感じています。親方様である信長の妹市の娘(茶々)を側室にし、3年後の1591年、天下統一を果たしたのち、茶頭の利休を切腹させました。その死罪の理由はいまだ明らかではありません。秀吉にとって、自戒の柱は信長だったのでしょう。信長が存在して、初めて秀吉のあるべき姿を証明できたのでしょう。つまり秀吉自身には<自戒の心>は存在しなかったのです。家康は幼い頃から清洲の信長の所に人質に出され、その後今川義元にも人質に出されました。そして信長によって妻や長男を殺される辛酸を舐めてきました。この辛酸の経験と信長や秀吉の過度な言動を見据えて<自戒の心>を自らの心に構築できたと思っています。

<自戒の心>とは<良心>とも解することができます。
人が常にこの心を持ち続けるのは、決して容易ではない、
と歳を重ねてきた人には理解できるはずです。
だからこそ、太古の昔から容易に理解できるように宗教が生まれたのでしょう。
<自戒の心>を自ら構築できていなければ、晩年の秀吉のように道を外していくのかもしれません。壊れていく心を自ら修復できないと思えるからです。

               
以前、時代劇や歴史小説、大河ドラマが大好きだった父に尋ねたことがあります。
「信長、秀吉、家康の3人のうちで最も好きな武将は?」
父は即座に「秀吉」と答えました。
「戦国時代を見事に生き抜き、そして、やりたいことをやりくした人生に男として憧れを感じる」と付け加えました。

 今私はこの会話を思い出し、一足先に逝った母がもし聞いていたらどう思うだろうか。
そして、大御所の家康にも慕われた秀吉の正室ネネ様は、晩年どのような気持ちだったのでしょうか。
そんなことを考えてしまいました。