GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「悩む力」

2008年06月24日 | Weblog
姜尚中氏「悩む力」より

 現代という時代の最大の特徴としてよく指摘されるのは、「グローバリゼーション」ということです。ここ十年ほどの情報通信技術の発達、とりわけインターネットをはじめとするデジタル技術の発達によって、政治も経済も思想も文化も娯楽も、あらゆるものが国境を越えて行きかうようになりました。
 他方、グローバリゼーションと並ぶ現代の特徴は、「自由」の拡大ということです。いまでは誰でもインターネットなどを通じてたくさんの情報を得たり、何かに自由に参加したり、あるいは何かを享受したりすることが容易になりました。その結果、一見すると、自由がいたるところにころがっているように思えます。
 しかし、自由の拡大と言われながら、それに見合うだけの幸福感を味わっているでしょうか。満ち足りた気分や安心感を味わっているでしょうか。
 幸福度が飛躍的に高まっているという話は聞いたことがありませんし、存外、いつも余裕なく急き立てられて、人と人との関係もパサパサな殺伐とした味気ないものになりつつあるのではないでしょうか。
 経済人類学者のカール・ポラニーは、共同体の牧歌的な結びつきを解体していく市場経済を、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの言葉を借りて、「悪魔のひき臼」と呼びました。
 ボーダーレスに広がる情報ネットワークと自由でグローバルな市場経済。誰もがその豊かさと利便性に与り、可能性としては多くの夢が約束されているように見えます。
 しかし、実際には新しい貧困が広がり、格差は目を覆いたくなるほどに拡大する一方です。
 しかも、誰もが新しい情報技術とコミュニケーションを通じてつながっているように見えながら、人と人との関係は、岸辺に寄せては消えていく泡のようにはかないようにも見えます。少なくとも日本や韓国を見る限り、多くの人びとがかつてないほどの孤立感にさいなまれているのではないでしょうか。そうでなければ、これほどの自殺者数の増加はありえないはずです。
 人間というのは「不動の価値」を求めようとします。プロ野球の松井秀喜選手の本のタイトル『不動心』ではないですが、たとえば、愛や宗教。しかしそれとても、変化しないとは言いきれません。変化を求めながら、変化しないものをも求める。現代人は相反する欲求に精神を引き裂かれていると言えます。
(http://books.shueisha.co.jp/tameshiyomi/978-4-08-720444-5.htmlより)

 ドイツの社会学者(マックス・ウェーバー)と日本の文豪(夏目漱石)には、多くの共通点がある。共に遅れて発展した資本主義国で、19世紀末から20世紀初めに活躍し、<文明が進むほどに、人間が救いがたく孤立していくことを示した>。また、2人とも家庭人としてはうまく振る舞えたと言い難い面がある。漱石は神経衰弱になり、ウェーバーは精神病院に入院したとの説がある。

 2人が格闘した近代における人々の孤独が、今はより増幅されているとして、彼らの足跡や著書から生きるヒントを導き出す。各章が繰り返し説くのは、「自我は他者とのつながりの中でしか成立しない」とのテーゼ。「最近、自己啓発本で、他者との関係を断ち切って自分の中の潜在力を見つければいいといったものが多い。それはちょっと、おかしいと思う」

 終章だけ、書き方が少し違う。56歳で死んだウェーバーと49歳で他界した漱石より長く生きている57歳の自身を主語に、「いかに老いるか」を論じた。

 40代の末ごろ、老いに向かう自分を恐れ、うつ状態に陥ったことがある。肉親や友人の死を乗り越えることで、その悩みから吹っ切れた今、あえて横着に生きよう、との心構えを持てるようになったという。 (【鈴木英生】毎日新聞 2008年5月13日 東京夕刊)

 ◇◆□■△▲▽▼◇◆□■△▲▽▼

 何度か書いてきましたが、五木寛之氏のエッセイの一節と思い出しました。
「集まれば集まるほど孤独になるのが現代だ。その孤独から逃れるためには共同の行為おいて他にない」
 そしてマックス・ウィエーバーのいう<文明が進むほどに、人間が救いがたく孤立していくことを示した>この話も何度か書いてきました。姜尚中氏は「悩む力」の中でお母さんの記憶を引き出しながら「悩む力」が生きていく力、生きる意味を生み出していたことに気づかれたようです。

『「あおい夜空は星の海よー、人の心は悩みの海よー」。溜息をもらしながら、涙声で母(オモニ)が口ずさんでいた「アリラン」の歌詞の一節です。波乱に満ちた悩みの海のような母の一生は、八十年の歳月とともに終わりました。人の世の酷薄さにあれほどまでに悲嘆に暮れることのあった母でしたが、晩年は、悩みの海に漂ういくつもの珠玉のような記憶を拾い集め、その中で微睡んでいるようでした。
 今にして思えば、母の抱えていた悩み、その苦悩は、海のように深く、広かったぶん、母は人として生きる価値を見出すことができたのかもしれません。結局、母は悩みの海に沈淪しながらも、生きる意味を問いつづける営みを棄てることはなかったのだと思います。』(「悩む力」)

 私も若い頃から多くのことに迷い落胆し、そしてまた、希望してきました。そして生きる意味を絶えず模索してきたように思います。それは姜尚中氏の言葉を借りれば「悩む力」を育ててきたことになるようです。

「何故、あのような無差別殺傷事件を引き起こすのか?」
「何故、文明は孤独感を呼び起こすのか?」
「何故、平家はローマ帝国は、長い期間異宗徒の国を統治でき、そして滅んだのか?」
「何故、コーチングがもてはやされるのか?」
「何故、性善説や性悪説が生まれたのか?」
「何故、男は弱体化し、女は猟奇化してきたのか?」(アッシーorミツグ君)
「何故、人は死を待たないで自ら選ぶのか?」(自殺の増加)
「何故、無常感なるものが心の広がるのか?」
「何故、9・11テロは発生したのか?」
「何故、孤独感は心を蝕むのか?」
「何故、理性は情に負けるのか?」

■若者の傾向
「何故、女子高校生はいきすぎた化粧を好むのか?」
「アルバイトの採用面接時、男子の長髪について注文をつけるとほとんど入社を断るのか?」
「何故、本を読まず、世界史や日本史に関心を持たないのか?」
「何故、算数・数学に弱いのか?」
「何故、言葉遣いを知らないのか?」(尊敬語・謙譲語)
「何故、清潔感の乏しい、だらしない服装を選ぶのか?」
「何故、仲間外れを恐がり、いじめを黙認してしまうのか?」
「何故、親との仲が悪い子が多いのか?」
「何故、マニアックな世界に閉じこもりがちなのか?」
「何故、旅をしたいと思わないのか?」
「何故、恋人や好きな人がいないのか?」
「何故、文章が臨機応変に書けないのか?」(詩を書けない)
「何故、ベルトをしない男性が多いのか?」(ウエストを締め付けられるのが嫌い)
「何故、姿勢が悪いのか?」
「何故、尊敬している人がいないのか?」(尊敬は今や死語?)
「何故、好きなこと以外興味を示さないのか?」
「何故、集中力が続かないのか?」
「何故、トレーニングを嫌うのか?」
「何故、就職迷子が増加しているのか?」
「何故、勝手に絶望するのか?」
「何故、コミュニケーションがうまくできないのか?」

 私がこうしたことを悩んできた事実は、ブログを読んでこられた方なら分かっていただけると思います。しかし、この心の軌跡が、自分自身を鍛えることになっていたとは考えもしませんでした。今後もドンドン悩みを打ち明けたいと思います。皆様も周囲を取り巻く環境、出来事を悩んで下さい。そして「悩む力」を鍛え、生き抜く力を身に付けていければ幸いと考えています。

「さよならゲーム」(最高のベースボール映画)

2008年06月22日 | Weblog
 最高のベースボール映画と言えば、私はケヴィン・コスナーの「さよならゲーム」を上げる。K・コスナーの野球映画と言えば、他にも名作「フィールド・オブ・ドリーム」や毎回ごとにピッチャーマウンドで様々な思い出を蘇らせながら、老骨にむち打って完全試合を達成する「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」の3本の映画があります。

 この映画の監督はロン・シェルトン。ロンは野球とバスケットの奨学金で大学に進み、3A(マイナーリーグ)で12年間プロの野球選手を経験し、その後アリゾナ州立大学に入学し直し美術を学び、卒業後デパートなどの装飾の仕事をしながら脚本を執筆。そして3本目にこの「さよならゲーム」の脚本を書き、初めて監督デビューしました。だからこの作品には彼の思い入れが深く入っているような気がします。

 この映画でティム・ロビンスはブレイクし、競演したスーザン・サランドンと良きパートナーとなっています。ケヴィンも監督のロンと意気投合しその後、大好きなゴルフ映画「ティン・カップ」も一緒に撮っています。

 ストーリーは21日間だけ大リーグ経験のあるベテラン捕手(K・コスナー)が、150km以上の剛速球を投げるが制球力も脳みそもない若手投手(ティム・ロビンス)の育成の為に3Aの「BULL DURHAM」(原題)にやってくる。

 彼らの間には少し歳を食った野球好きの女性(スーザン・サランドン)がいた。彼女はベースボールを心から愛し、投球術からバッティングに至るまで熟知しており、監督も一目置いている女性だ。しかも恋にかけても凄腕の持ち主。彼女は新人を心身ともに自身をつけてあげて、大リーグに送り込むのを生き甲斐にしていた。
 三人の微妙な関係を中心にハチャメチャなストーリーは展開し、やがて馬鹿な若手投手も才能を発揮していく。それは彼が大リーグに昇格することを意味し、育成に成功した老捕手が放出されることを意味するのだ。若くて本当に才能あるものだけが残っていくプロの世界。たった21日間だが、それをかいま見た選手の切ない想いとベースボールにすべてを捧げてきた男の哀愁が胸に迫ってくる。

 スーザンのベースボールへの想いが呟かれる映画の始まりも凄くいい。そしてその後のケヴィンやテムの呟きも笑わせる。ロン・シェルトンの脚本は、緻密で計算されたセリフでありながら、揺れ動く感情の起伏が心に響く。アカデミー賞の脚本賞にもノミネートされたが、「レインマン」(1988年)に獲得される。全米批評家協会・NY批評協会・LA批評協会では脚本賞を獲得した。スーザンの見事な演技は、ゴールデン・グローブ賞を獲得した。

野球好きの人にはたまらない大人の作品です。
酸いも甘いも知った大人の女性なら、きっとこの映画は心に残るでしょう。

グッドラック感動のお奨め映画:85点

「2008年 全米オープン結果」

2008年06月17日 | Weblog
タイガー・ウッズは試合後、こんな言葉を残しています。

【今の心境 】
 この試合がこれまでのベストだと思います。いろいろな出来事がありましたが、実際のところどのようにして優勝できたのかがわからないほどです。長い一週間でした。(自分自身を)疑うときもありました。たくさんの問題を乗り越えて、91ホール消化してこの場に立つことができました。

 4つのダブルボギー、3つのイーグル、3パットもあれば、フックボール、スライスショット・・・アップダウンの連続で信じられない1週間だったとタイガーは振り返る中、今回の優勝がこれまで経験した中で一番価値のある優勝だと話していた。
(ゴルフダイジェスト・オンライン - 2008/6/17 12:17) http://sports.yahoo.co.jp/news/20080617-00000002-gdo-golf.html

 ゴルフを自分でも実践し、しかも最も好きなスポーツだと思っている人にとって、きっと今回の全米オープンは「これがゴルフだ」と云えるような試合だっとと思っているに違いありません。3日目のIN(後半)2イーグル、1バーディーの奇跡的なゴルフをいうのではなく、4つのダブルボギーや3パットというトーナメントでは犯してはならないミスを連発しながら、胃が痛くなるような2m弱のパーパットを何度もねじ込み、右や左にティーショットを曲げながらも、堪えて堪えて、まさに勝負どころでイーグルやバーディーをもぎ取る、そんな強靱な精神力が試される試合でした。誰もできそうもない試合をタイガーは左膝の痛みを堪えながら必死に自分と戦い、戦い切って優勝したことが自分で自分を誇りたい、そして一番価値ある試合と位置づけるのだと思います。


 ゴルフは良く人生と似ていると云われますが、私もそう感じている一人です。その一つは風が吹いている時に打つ場合と、無風の時打つ場合があります。当然無風の方が好条件です。その不平等が親を選べない、先生を選べない、上司を選べない人生と似ていると感じるところです。もう一つはゴルフでは、バックの中に14本のそれぞれ特徴を持ったクラブを入れることができます。それはコースを攻略する為の武器と云えます。人生でも自分の望む人生を歩むために、さまざまな資格を取ってそれをある意味で武器にして歩もうとしています。さらなる類似点は、すべて自己責任というスタンスです。風が吹こうが、雨が降ろうが、キャディの助言や選択ミスであろうと自分でスイングして結果は、自分で責任をとるしかない点です。決して環境や、親や、先生や上司のせいにしない点です。最後の類似点はどんなふうに攻めるか、その戦略性(目標・計画)の大切さとそれと戦う自らの心と堪えるスタンスの類似点です。

 基本は守ること(パーを取ること)であり、攻撃(バーディー)は状況を把握し、時期を見極める必要があります。そのためには常にリベラルな判断力が必要です。弱気になったり、強気過ぎてもボギーやダブルボギーを招き痛い目に遭います。しかし届かなければパットは入りません。何度も書いてきましたが、ここでも琴の弦の話が思い浮かびます。 

     「琴の弦は張りすぎると切れてしまう、
      張り方が弱いと音も悪い、
      琴の弦は中くらいに張るのが丁度良い」


 タイガー・ウッズが自ら「今までで最高の試合」と評した2008年の全米オープンは、「トリプル・グランドスラム」の偉業達成という冠まで獲得しました。1986年、ニクラウスが最後に勝ったマスターズ以来、私のゴルフ観戦歴が始まりましたが、その中でも最高の試合だったと思います。2位と10打差あるような異次元の試合よりは、今回のように多くのアマチュアゴルファーが体験するアップダウンに遭遇しながらも、凡人には出来そうもない奇跡のツーオン、イーグルやバーディー、堪えるパーパットなど見所満載のトーナメントこそ観戦価値が高いと思います。でも膝が完治したらまた異次元のゴルフが展開されるのか、違う意味で心配になってきます。

さて、皆さんは今年の全米オープンをどう受け止められたのでしょうかね。

「君は知っていますか?」

2008年06月14日 | Weblog
誰かを想う楽しさを、君は知っていますか?
誰かを想う切なさを、君は知っていますか?
誰かを想う苦しさを、君は知っていますか?

あなたを想う親の楽しさを、君は知っていますか?
あなたを想う親の切なさを、君は知っていますか?
あなたを想う親の苦しさを、君は知っていますか?

巣から遠く離れたところに捨てられた食べ物を必死に運ぶアリたちの姿を見たことがあるでしょう。
石段の隙間からなんとか茎を伸ばして咲いているタンポポを見たことがあるでしょう。
体力をつけるために頑張るスポーツ選手の汗を見たことがあるでしょう。
大きなランドセルを背負いながら電車の中で勉強をしている小学生を見たことがあるでしょう。

海からの風に潮の匂いが漂ってくることに気づいたことがありますか?
ふと耳にした歌の歌詞に思わず心を震わしたことがありますか?
月面のクレーターを天体望遠鏡で見たことがありますか?
自分で作ったプロペラ飛行機が、ゴムの動力がなくなってもなかなか落ちてこない、そんな経験がありますか?
何日も練習した楽器を演奏して、人の拍手をもらったことがありますか?

大物がかかった時のあの竿の引きを感じたことがありますか?
あなたが書いた詩で周囲の人を驚かせたことがありますか?
雨の中、駅まで傘を持っていってお父さんに喜ばれたことがありますか?
マラソン中継を最初から見ていて、最後のトラックで抜きさられた女子選手の表情を見たことありますか?
ボーリングでターキーを取ったときの感動を知っていますか?
甲子園球場の砂を持ってきた袋に詰める球児達の涙を見たことがありますか?
オリンピックの銀メダルにも関わらず、表彰台でプィッと横を向いたヤワラちゃんを覚えていますか?
2年生の夏、決勝戦の9回で自分の暴投で負けた松坂大輔投手を覚えていますか?
1984年、オリンピック柔道の決勝戦で、エジプトのモハメド・ラシュワンが山下の右足を狙わず銀メダルになり、そのフェアプレーの精神を称えられたことを知っていますか?
聞こえてくるジャズサックスの切ないメロディーに胸を締め付けられたことがありますか?
本の続きが読みたくて、思わず降りる駅を乗り過ごした経験がありませんか?
映画の哀しい展開に、シーンを食い入るように見つめ主人公の気持ちと同化したことがありませんか?


まだまだ君が知らない世界や話や出来事が周囲に散らばっています。
たった約80年の短い人生かもしれません。
しかし、80年は決して短いようでそうではありません。
世界もまた、狭いようで本当は思っている以上に広くて深いかもしれません。

今までとは違う窓を開けてみて下さい。
もし興味が湧かなければもう一つの窓を開けて見て下さい。
あなたの心を捉える窓がきっと存在しています。

そして、どうか思いとどまって欲しい
本当に どうか思いとどまって欲しい
人の命や己の命を絶つのを

そして、与えられた命の尊さを
周囲に存在する全ての生命の尊さを気づいて欲しい

ただ哀しいだけで残酷で無惨なだけの事件を起こす前に
人の未来を奪った大罪を、殺された人の痛みや無念を、残された肉親の悲しみを、
己の未来を奪った大罪を、これからの人生では決して償えない
愚かな行為であることを知って欲しい……

「秋葉原無差別殺傷事件とストレス」

2008年06月10日 | Weblog
 ストレスの原因には、物理的なもの(寒冷、騒音、放射線など)、化学的なもの(酸素、薬物など)、生物的なもの(炎症、感染)、心理的なもの(怒り、不安など)がある。ストレスによって生体は刺激の種類に応じた特異的反応と、刺激の種類とは無関係な一連の非特異的生体反応(ストレス反応)を引き起こす。

 カフカの「変身」は、飲んだくれて働かない父の代わりに主人公ザムザが、家賃を稼ぎ妹の学資も出して一家を支えていたのですが、ある朝虫に変身していた話です。(カフカはチェコ語で<私は孤独>だそうです) 話は虫になったままザムザは死亡し、妹や両親はほっとしたところで終わります。

 ザムザは非特異的生体反応(ストレス反応)によって変身したようです。(こんなことはありえませんが…)生理的・心理的な反応から交感神経系によって副賢髄質から分泌されるアドレナリンが、心拍数増加、心拍出量増加、筋肉血管拡張、呼吸数増加、気管支拡張、筋収縮力増大、血糖値増加などの緊急事態と同様のストレス反応が生じます。それは闘争、逃走のどちらにも有効な反応です。ザムザの変身はこうした過程で起こったストレス反応ですが、闘争ではなく、虫になることによって逃走を試み、逃げ切れなかった話です。

 秋葉原の無差別殺傷事件の犯人は、逃走ではなく闘争を選びました。仕事場だけでなく自身や社会、人生そのものからストレスをため込み、心のバランスが崩壊したようです。幼い頃から頭のいい子として育てられ、作文や絵を両親が書き入賞していたそうです。個人的な怨恨による動機だけでなく、親を含め今まで接してきた周囲の人々や、故郷を離れて契約社員として派遣された土地でのストレスに、いつの間にか弱い心が蝕まれ、そして暴発したのではないかと推測します。

ある新聞に「勝ち組み 死ねばいい」という見出しが書かれていました。

「俺もみんなに馬鹿にされているから車でひけばいいのか」
「みんな俺を避けている」
「勝ち組はみんな死んでしまえ」
「…日に日に人が減っている気がする」
「大規模なリストラだし当たり前か」(自分のサイトに書き込んだ記事より) 

 周囲と会話のない様子や社会への不満が増大し、孤独なつぶやきが次第に熱を帯び暴走したのかもしれない。前途ある25歳(息子と同い年)の青年が、今後の自分の人生に目標や夢を持てず、まるでテレビやゲームのスイッチを切るがごとく、自らの人生のスイッチを切ろうとする行為に胸が痛くなる。そしてこんな暴走で亡くなられた人の無念や、家族を失った悲痛な想いを想像すると胸が張り裂けそうになってくる。

 何故、その後のことが予測できないのだろうか。
 将来を否定的にしか見られないからだろうか。
 悲しむ両親や、殺傷した家族の大きな悲しみを何故、想えないのだろうか。

 年輩者が怨恨のために知人や配偶者、肉親を殺傷する事件は、過去も現在もあとを立たないが、十代、二十代の殺傷事件が最近とみに増えている。

幼い頃からテレビやバイオレンス映画、アニメやゲームで殺傷する場面に慣れてきたせいだろうか。

電気式の鉛筆削りが普及し、昔のように自分でナイフを使って鉛筆を削って、誤って自分の指を切った経験がないから痛みが分からないのだろうか。
悪いのは自分ではなく、親や先生、国や政治家、環境や経済状況のせいという風潮のせいなのか。



 自分中心の世界がいつの間にか崩壊し
 大きな世界の中で力のない自分を知った時
 ストレスが一気に膨れ上がり
 闘争と逃走を選んでいく若者たちよ
 
 どうか思いとどまって欲しい
 弱き人はあなただけではない
 人は生まれながらにして誰もが孤独であることに気づいて欲しい
 
 どうか思いとどまって欲しい
 人の命や己の命を絶つのを
 与えられた命の尊さを気づいて欲しい
 
 どうか思いとどまって欲しい
 そして自らの心の世界を見つめ直して欲しい
 殺伐とした砂漠かもしれないが 決して砂や石だけではないはずだ
 ただ、見えていない
 気づいていないのだ
 知らないだけなのだ 

 鳥の鳴く声や木々のささやき
 小川のせせらぎ、漂ってくる甘い香りもあるのだ
 ただ、見ようとしていない
 聞こうとしていない
 知ろうとしていない
 感じようとしていないだけなのだ

 私たちは遠い昔 獣だった
 その五感を頼りに生き延びてきた
 もう一度 その五感を思い出せ
 そして生きる場所を必死で探すのだ
 
 必死で生き延びていたら
 ちっぽけな共感に心を震わせ
 ささいな幸せに陶酔できるはずだ
 
 人と争わず
 勝ち負けでストレスを溜めるな
 ストレスをジャンプするときのしゃがみ込みと思え
 
 少しだけジャンプしたら届く目標を設定しろ
 その達成の繰り返しの先に
 本当の夢が見えてくるはずだ

 どうか思いとどまって欲しい
 本当に どうか思いとどまって欲しい
 人の命や己の命を絶つのを
 与えられた命の尊さを気づいて欲しい

「コーチング」

2008年06月09日 | Weblog
最近「コーチング」という言葉を良く目にしたり耳にします。
ある有名な先生のHPで勉強してきたことを少しまとめてみました。

  「coach」という言葉が、英語のボキャブラリーに登場した当時は、
  もともと「馬車」という意味でした。そこから、動詞としての
  「coach」に「大切な人を、現在その人がいる所から、その人が望む
  所まで安全に送り届ける」という意味が派生しました。
  これは、まさに現在の「コーチ」、
  「コーチング」の根底にある考え方となっています。

  「コーチの役割」
  プレーヤー(クライアント)を自発的な行動に向かわせるのが、
  プレーヤー(クライアント)と向き合う「コーチのあり方」です。
  コーチは、「目の前にいる人は必ず目標を達成する人だ。
  この人の中には、目標達成のための答えも力もある」と信じて
  向き合います。
  そして、常に、一緒に目標達成に向かう方法を考え、力づけます。


   コーチがいると
  ・ 自分がどこに向かいたいのか、進む先が明確になります。
  ・ そのために今、何をしたらいいのかが見えてきます。
  ・ 失敗を恐れず行動できます。
  ・ 「やらなければならない」が「やりたい」「やってみる」
    「やる」に変わります。
  ・ 自分の話を受けとめてもらえる安心感の中で、
    前に向かうエネルギーがわいてきます。
  ・ 心に余裕が生まれ、人の話を聴けるようになります。
  ・ ストレスが軽減されます。

  ● 結果として
  ・ 目標達成のスピードが速まります。
  ・ 思い描いていた理想の状態が手に入ります。
  ・ 自己信頼感が高まります。
  ・ ビジネス上の成功、経済的な成功につながります。
  ・ 対人関係が改善されます。
  ・ 組織内では、風土改革、活性化が進みます。

         (石川尚子 http://www.b-coach.jp/index.htmlより)


 もともと人には自然治癒力が備わっています。たとえば血液中の白血球の役割のようなものです。しかし、現代病といわれるストレスによってその抵抗力が失われ、正常な人でも一日千以上のガン細胞が生まれるそうですが、白血球の働きやその他の抵抗力がそういった悪玉細胞を死滅できなくなるそうです。

「コーチング」を少し勉強していて、ふと上記の話を思い出しました。
人には自然治癒力が備わっており、たとえ踏み外しても様々な知識や経験、教養によって歩むべく道に戻れるようになっているはずです。しかし、産業革命や先進諸国のバブル経済の破綻を経て、所得格差や生活格差がますます進みストレスの増大は止まることを知りません。その影響は体内を流れる血液に抵抗力を失わせ、ついには人としての自然治癒力をも失わせ始めたように思えてなりません。

「コーチング」はじっくりと聞くことによって、心を支えながら同じ目線で解決策を一緒に考えていきましょうという指導方法のようです。そして最終的には「やりたい」「やってみたい」という自主的なスタンスを促すことが目標のようです。

そのスタンスは幼児期の排尿や排便、お箸の持ち方を教える母親的フォローと相似しています。

 以前「ランボー2 怒りの脱出」のセリフを紹介しました。
テーブルの上の地図を見ながら「今いる位置がここだ。目標はこの位置。上司の役目はここまでだ。あとは現場のお前が考えるのだ」確か、このような内容だったと記憶しています。

 しかし、「コーチング」は、コーチとプレーヤー(クライヤント)の関係は、上司と部下のそれではありません。現場で同じ目線で一緒に戦略を考えよう。そして少しずつ自分で考え自主的に行動できるようにしようとしています。

「コーチング」が注目を浴びることは、幼児化した部下(プレーヤー)が数多くなってきており、母親的愛情を持って指導する必要があるということかもしれません。

 幼児のレフティーを治す為、父親が高圧的に、暴力的に子共を指導すると吃音症(ドモリ)になったりする事が多々あります。幼児には優しく接する愛情豊かな母親的コーチングを必要とします。排尿や排便、箸の持ち方や着替え、部屋の掃除・整理整頓をうまくコーチングできた母と子供の関係は、その後の先生と子供、上司と部下、友人関係や恋愛関係にも良好な影響を与えるようです。幼児期の愛情蓄積量がその後の情を育てるようです。

 しかられっぱなし、高圧的指導を幼児期から数多く受けてきた人には、ほとんど成功体験がありません。ビクビクとした自信のない態度がいつのまにか身に付き、そして周囲の目線を必要以上に意識し、今いる自分の位置や状況を掴めないでいます。それはウサギ的ビクビク症候群のようです。ウサギに勝ったカメのような成功体験がなければ、自分の位置も目標や夢でさえ設定することが難しくなるような気がします。

 ハイハイしていた幼児がようやく立ち上がったときの親の喜ぶ顔は幼児にとって心地よいに違いありません。優秀な成績を取ったときの親の喜ぶ表情、かけっこや絵や模型作りやお掃除や洗濯や些細なお料理を作って喜んだ親の表情を見てもっと頑張りたいという自主性が生まれてくるはずです。
 同じ目線で解けなかった問題を一緒になって考え、母親や父親と解答に至るような成功体験が幼児には必要な気がします。しかし、ストレスを抱えている両親に取って、自分たちの態度が子供にどのような影響を与えているかを学ぶ必要があるような気がします。


「コーチング」の秘訣は、

「一緒になって成功体験を喜び合うスタンス」ではないでしょうか。


        … … … …


PS:子供を叱るとき、やってはいけない10カ条を見つけました。

● 感情的に叱ってはいけません。
感情的に叱らないためには、一度、深呼吸をして、気持ちを落ち着けてから、叱るといいでしょう。感情的に叱ってばかりいると、情緒不安定な子どもになる場合もあります。

● 子どもの言い分を聞かずに、叱ってはいけません。
例えば兄弟喧嘩では、喧嘩の理由も聞かずに、上の子どもを叱ってしまう親も多いのではないでしょうか。これに限らず、子どもの話を聞かずに、頭ごなしに叱ってはいけません。まず、冷静に、子どもの話を聞いてあげましょう。

● くどくどといつまでも叱り続けてはいけません。
これでは、かえって親の意図が伝わりません。親の伝えたい内容は心に残らず、怒られているという印象だけが強く残ってしまいます。

● 自分の都合で叱ってはいけません。
疲れているからといって、八つ当りで叱ってしまったことありませんか?後でお母さんが後悔するだけです。

● 両親が一緒になって叱ることは避けましょう。
子どもの逃げ場がなくなってしまいます。一方が叱れば、一方がフォローするという形が理想的です。我が家の場合は、決めごとにしたわけでもありませんが、上の娘を叱るのは私で、夫はフォローにまわります。そして、下の息子を叱るのは主に夫で、私がフォローするという役回りです。だからといって、子どもたちは片方の親と仲が悪いわけでもありません。

● 誰かと比べて叱ってはいけません。
「○○ちゃんは上手なのに」「お姉ちゃんはもっと早くできていたのに」と、誰かと比較してはいけません。ひがみやすい子どもになってしまいます。また、いつも同じ子どもと比較していると、その子どものことが嫌いになってしまう場合もあるので気をつけましょう。それは、兄弟間でも言えることです。

● 昨日と今日で言うことを変えてはいけません。
一貫性を持って叱らないと、子どもは不信感を抱きます。また、父親と母親もしつけに関して話し合い、統一性を持たせましょう。人によって言うことが違うと、子どもは迷ってしまいます。

● 全人格を否定する言葉や子どもを突き放す言葉は、使ってはいけません。
「生まれてこなければよかったのに!」など全人格を否定する言葉や「もう、知らない!勝手にすれば!」「出て行きなさい!」など、子どもを突き放す言葉は子どもの心に深い傷となって残るので、絶対に使ってはいけません。

● 今、叱っている内容に付け加えて、昔のことまで引っ張り出して叱るのもタブーです。
叱っていると、そのことに関連した過去の過ちも思い出し、つい昔のことまで叱ってしまう親は多いようです。終わってしまったことを言っても意味が無い上に、子どもがいやな思いをするだけです。

● 愛情のない体罰はやめましょう。
体罰を与えることによって、親の意図が伝わりにくいだけでなく、子どもの心に深い傷を残します。さらに、その恐怖から嘘や隠し事などで自分を守ろうとしたり、また、友達にも乱暴になる場合もあります。

これは親と子だけでなく、上司と部下、彼氏(彼女)とあなた、友人とあなたとの関係でも同じです。

「2008 全仏オープンの勝者は?」

2008年06月05日 | Weblog
「ローラン・ギャロスのクレーコート(赤土=レンガの粉)には、気まぐれな神が棲んでいる」
技術だけでなく、強い精神力が勝敗を左右する、
最も過酷なトーナメントとも言われるグランドスラム大会、全仏オープン。


 昨夜、全豪以来久々にじっくり見たフェデラー。どこか今までの輝きを感じません。とても心配です。このままいくと全豪で負けたジョコビッチ、クレーで負け知らずのナダル、そのどちらかと決勝で当たりますが、勝てるのか? 輝きが技巧の巧みさに姿を変えたように見えるのです。

 生涯グランドスラムに挑戦したシャラポアが敗退しました。ランキングNO.1になった彼女も一度も全仏では勝てないのです。王者フェデラーでさえ3年間全仏だけは制覇できず、生涯グランドスラムを達成できずにいます。反対にナダルが全仏を3連覇しています。

「何故、ランキングNO.1のフェデラーやシャラポアが全仏で勝てない?」

 この疑問を解くために1番のテニス通の方(娘さんは日本ランキングを持つプロ・本人もバリバリのテニスウーマン)に尋ねてみました。

「クレーコートの難しさって、何?」

こんなコメントが返ってきました。

   クレーに関してはプラスフットワークなんです。
   クレー用に意識してやってるフェデラーと無意識にクレーの
   フットワークのナダルに差があるような気がします。
   クレーはプレーもしやすくて好きですが、ハードや
   グラスよりもバウンドしたときにパワーが吸収されてしまうので
   当然威力が減りますので、ハードと同じボールを打ってもエース
   はとれません。よって、エースをとるにはプラスもう1本。
   この1本多くの積み重ねが、選手の体力をそうとう奪います。
   とくに受けてるよりも、ハードヒットするほうが体力と神経を
   使うのできついでしょう!とくに、エースをとるタイプの
   選手は、相手からエースをとられることが嫌いなタイプが多いので、
   ストレスもたまるでしょう。

 こんなコメントの追加がありました。

   日本ランキング100位内にいる娘(ヘェー!びっくりしました)
   にも確認したら、一番はイレギュラーだそうです。
   もう一つはこの大会前まで続いているクレーコートシーズン、
   ランキングの高い選手ほど決勝まで残るような戦いを連戦しているので、
   ナダルの足の豆の多さ、にも象徴されるように体力の消耗ははげしいですよね。
   シャラポワがこの大会初日から、口のまわりにぶつぶつが。
   エナンもいつもそうでしたよね。
   あれはたぶん疲労からのビタミン不足かなと私は思います。

 なんと過酷なクレーコート
  
 現役プロのお話も伺い、はたと気づきました。

 1990年代、世界最強のオールラウンドプレーヤーと云われ、6年間ランキングトップを守ったピート・サンプラスも全仏では勝てませんでした。しかし、アガシは全仏でも勝利して生涯グランドスラム獲得しています。必死でボールに食らいつき、信じられない精神力を発揮して何度も負け試合と思えた試合を勝利に導き、生涯グラドスラムを達成したアガシ。二人のテニスの差は十分に把握しているつもりです。最初に全仏を「技術だけでなく、強い精神力が勝敗を左右する、最も過酷なトーナメント」(この表現は転記)と紹介しましたが、サンプラスとアガシのテニスの差に答えが潜んでいるようです。
 
 昨夜もフェデラーが格下のゴンサレス相手に1セット目を落とした時は驚きましたが、その後は危なげなく勝利しました。緩急を多用し、左右に相手を翻弄しながら、しかも一発で決めようとはせず、じっくり仕留める。そんなふうに見えました。それはナダルに対しての新たな攻落法を実戦したように思えてなりません。信じられないフットワークを活かし拾いまくる疲れを知らないナダルのテニスはアガシに共通しているものがあります。アガシファンだった私がナダルファンに移行したのもそのテニススタイルにあります。

 全仏攻略には、高度な技術を駆使しながら、軽快なフットワークを使い、しかも想像を超える強い精神力を発揮する必要があるようです。

 まさしく名人の域に達した昨夜のフェデラーは、クレーでは向かうところ敵なしのナダルと全豪で負けた若きジョコビッチ、どちらが勝ち進んできても勝負は5分5分に思えます。フェデラーには生涯グランドスラムを獲得して欲しいと思っていますが、ナダルファンの私は複雑な思いでいることは確かです。決勝の前のナダル対ジョコビッチの試合こそこの全仏オープン最大のゲームと云えます。それは全仏の真骨頂、<クレーとの戦い>とも云えるからです。

 パワーを温存しながら戦う頭脳的・技巧的な戦略に変更した王者フェデラー、
全豪で勝った勢いそのままに、まだまだ荒削りではあるがフェデラーやサンプラス的オールランドプレヤーを目指すジョコビッチ、クレーではいまだ負け知らずで、一段と強靱な肉体に変化し鋼のような精神力を兼ね備えたナダルとの三つ巴は、どんな映画よりも先が予想できず大変興味深い。
日本相撲のような巴戦をして欲しくなります。


 スポーツ観戦の醍醐味は、こういった状況を多くの専門家やプロの話、私のようなにわか評論家の意見を分析・把握しながら、できるだけリアルタイムで観賞することだと思います。そして自分の把握度を自己判断する楽しさは他に類をみません。


いよいよ全仏の男女4強が決まりました。
私の予想は男子はナダル(足のまめだけが心配)、
女子はシャラポアを破ったサフィーナ(肝心なところでの弱さを克服)です。

 ジョコビッチもフェデラーもクレーに負けると予想しました。イバノビッチのテニスにはまだボールを追い切る執念・泥臭さが足りないと見ました。サフィーナはまだ弱さや経験不足を感じますが、失うものは何もなくシャラポアを破った自信が、今までにない精神力を生み、強烈なサーブ(兄仕込みの?ホンマカイナ?)で主導権を握ると見ました。

 とにかく、トーナメントでは一番面白い準決勝がもうすぐ始まります。

ワクワクワク……。

「トライやる・ウィーク」

2008年06月03日 | Weblog
 毎年この時期(5月から6月にかけて)になると、N市の中学校では「トライやる・ウィーク」を実施します。この「トライやる・ウィーク」では、以前小学校や中学校で発生した凄惨な事件を踏まえ、二度とあのような事件が起こらないように、多感な時期を迎える中学生達に社会の現場ではどんな仕事が行われ、またどのような人たちがどのような汗をかいているのか、一緒に働くことによって彼ら(今年は全員が男性)が体験し、見聞を広めることが目的です。

 今年も近隣中学からまず6名(5/16~23)が自社にやってきました。明日からは2校目の3名がやってきます。私の料飲部でも彼らを毎年受け入れ、午前中(10:00-12:00)は、厨房やフロアー・イス・テーブルの清掃の後、自分たちが食べるラーメンやうどんを彼ら自身に作らせます。これは私の部下が担当します。

 午後(13:00-15:00)は私自ら彼らと接します。行うことは毎年同じ事を実施しています。それは「挨拶・お辞儀の仕方」と「スマイル・テスト」と呼んでいるものです。「スマイル・テスト」というのは、まず、全員の前で「ありがとうございました!」と満面の笑顔で挨拶します。「わたしの笑顔が良かったと思う人は、手を挙げて下さい」と尋ねます。すると全員が挙手してくれます。さてこれからです。

「では、次はあなた方の番です」といって一人だけをみんなの前に立たせ、同じように「ありがとうどざいました!」と笑顔で挨拶させます。そして挨拶した彼は後ろを向き、残りの全員が挙手するまで続けます。これがスマイル・テストです。

 挨拶・辞儀の仕方も初めはほとんど出来ないので、しっかりと教えます。背筋を伸ばして30度のお辞儀を教えます。これだけで30分は要します。最初は照れくさがってお辞儀もスマイルもまったくできませんが、だんだんと様になってきます。茶道の「形きまれば自ずと心決まる」これが元になっています。

 笑顔の「ありがとうございました!」の中には、サービス業だけではなく、人生で忘れてはならない大切な気持ちが含まれています。数年前まで子供達はトンボの頭を落としたり、蝉を捕まえて糸をつけ自室で飛ばして弄び、カエルを捕まえて壁にぶつけたり、ピンポンダッシュをしていたのです。そんな彼らに笑顔の挨拶は、周囲の人と共に生きている、そして感謝している気持ちがこもっていると伝えたくても至難の技かもしれません。

 私もまた笑顔の大切さなど、若い頃は気づきもしませんでした。就職して自分の笑顔を初めて鏡の前で確かめました。当然中学生の彼らも同じでしょう。せいぜい写真に写る自分の「チーズスマイル」くらいでしょう。しかし、その笑顔が周囲にどんな影響を与えるのか、考えたこともないでしょう。当然ながら心がこもった笑顔にもほどんど気づかないでしょう。

 今年の6名の中学1年生はとても優秀でした。初めは顔を引きつらせ、額に汗を浮かべながら、その必死さを他の仲間がフォローしていたからです。5名が手を挙げても私はOKしない場合もありますが、「もう許してあげて…」的な表情を見るとさすがに続行もできなくなります。笑顔が乏しい中学生の横に行き、人差し指で脇腹を突っつき、何とか自然の笑顔を呼び戻させます。「そうだ、その笑顔だ。みんなもそう思うだろ?」と周囲にも確認させます。
そこですぐ、その笑顔のまま「いらっしゃいませ!」をやらせ、何とか終了させます。

 人前で面白くないのに「笑顔を出せ」と云われることなど、彼らの今までの人生では、きっとなかった事でしょう。しかし、今回の経験を経て、今後買い物に行き担当の人や、レジ係の人の笑顔に接したとき、何かを感じて欲しいと願っています。親や兄弟と挨拶するときの笑顔がどんなに大切かを学んで欲しいのです。

 そして、2時間足らずの私の「スマイルテスト」ではありますが、<共に生きる>このことを気づくきっかけになって欲しい心から願っています。