GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「父、永眠す」

2014年12月22日 | Weblog

  

  

 12月14日は時代劇が好きな人なら覚えがある月日です。そう、赤穂浪士の討ち入りの日です。この日は、私にとっても忘れられない特別な日となりました。
 15日昼前、仕事中に兄から「親父が死んだ」と連絡が入りました。朝、見に行ったら様子がおかしいので、近くにいる主治医に連絡を取りました。お昼前に診察に来てもらい、その時初めて亡くなっていることを知ったそうです。主治医は、自宅での死亡、そして最近は通院もしていなかったので、死亡診断書は書けないということでした。119番通報しストレッチャーと共に隊員が到着しましたが、このような場合は「変死」扱いになるので警察を呼ぶことになりました。数十分後には住之江警察から総勢5名が集合し、粉浜商店街の自宅喫茶店前は一時騒然となったそうです。父の遺体は警察が持って行くことになりました。翌日の昼前、遺体は帰ってきて19時からお通夜が始まりました。その時、導師のお経の中で、12月14日が亡くなった日と知りました。14日18:30頃、喫茶店営業を終えたお義姉さんと甥っ子は、親父の肌着とおしめを交換したそうですが、その2時間後に心不全で永眠したとお通夜の後初めて兄夫婦から聞かされました。

 

 

 亡き母の遺影写真は私がアルバムから選びましたが、父の遺影写真も2年前私が実家の喫茶店で撮った写真を使用しました。17日12時から告別式、14時に瓜破斎場へ向かいました。骨格がしっかりしていた父の骨はとても太く感じました。遺骨を骨壺に入れるとき、そっとハンカチに父の骨を包みました。母の時も遺骨の一部を持ち帰りました。初七日の法要を済ませて自宅に帰り、父の骨と母の骨を一緒にしました。「死んでまで一緒にいたないわ」と亡き母はぼやきそうですが……(苦笑)。父にとって、旧制女子専門学校を卒業しワルツやジルバ、タンゴまで踊れた母、結婚してからは生け花やお茶の師範にまでなった母を生涯眩しく思っていたに違いありません。

   

 
 
ここ数年父を連れて毎年花見に行きましたが、来年からはもう行く事はできません。2011年のTVスペシャルドラマ「新参者 赤い指」の中で、主人公の恭一郎が父の病室には入らず、携帯で看護師に指示を送りながら父の将棋の相手をし続けた話がありました。このドラマを見てネットで将棋盤を購入し父と将棋を指すようになりましたが、もう2度と父と将棋を指すことはできません。花見にしても将棋にして思いつきで始めましたが、続けてきて良かったと思っています。向こうへ行ったら心から愛されるように母を大事にしてあげて欲しいとお焼香しながら合掌しました。父、良和、行年八十八歳で永眠しました。

   


「103歳 自分の力で生きた義母」

2014年12月06日 | Weblog

4日朝日の朝刊に69歳の主婦の方から「103歳 自分の力で生きた義母」という投書がありました。

『…夫の母が103歳で亡くなりました。我が家の近くで一人暮らしをしていた義母。

義母の様子を夫が見に行きました。

「もう何もする気がなくなってしまったのよ」と義母。

夫は「分かりました。そんな時はゆっくり寝た方がいいよ」。

これが2人の最後の会話でした。母と子が信頼し合って交わした言葉だと思いました。

そしてそのまま、義母は永遠の眠りについたのでしょう。

明くる日の朝、夫が訪ねると息を引き取っていました。

私たちに介護などの世話を一切させないまま、

最後まで自分の家で生きるという強い意志を全うしたかのような死でした。

入院もせず、介護保険も使わず、自分で郵便局に行って年金を引き出し、

自分で買い物に行き、庭には雑草1本すら生えていませんでした。

私たちはすごい親を持ったことを誇りにし、いつまでも尊敬し続けます。』

この記事を切り取って財布に保管しています。

何度か読み返し、その度に目頭が熱くなりました。

このように生きたいと強く思っています。