GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

<風間杜夫>

2010年10月31日 | Weblog
 10月30日の朝日新聞朝刊、文化のページで風間杜夫氏の記事があった。1997年から始めた一人芝居の話だった。毎日5時間半、しかも8日間連続で演じるという。61歳の若々しい挑戦だ。風間氏がこんなことを云っている。

 13年たって、「最初の頃は勢いで演じ、生な自分がでていたkれど、今では役を俯瞰する感覚になりました」。
「僕は自分自身の感性をさらし、それを見てもらっているだけ。修行して身につけた芸とは全然違う。あくまで役者が演じているものです。ではいい役者とは何だろう。その人が持つ本質的なものが役を通して観客の心に届く、ということかな。そういう役者になりたいですね」

 私は以前風間杜夫という役者があまり好きではなかった。TVで見る彼の役柄がチンピラ的で下品な言動が多く、二枚目ぽいだけに拒否反応を持ったものだ。東映の子役で有名になり小学校時代からスターだったことが、薄く感じる演技に影響していたのかもしれない。しかし、1982年の日本アカデミー賞を獲得した「蒲田行進曲」を見てからだった。

「彼は実は演技が上手い?」

 映画の始まりでの銀ちゃんの派手な言動が、まるでつかこうへいの舞台劇そのもののように見えて映画として見るには若干引き気味にだった。しかし、映画が進むにつれて、ヅラをつけた新撰組の近藤勇役の凛々しい表情もとても映えて見えた。そして、横暴で自己中心的な銀四郎の役柄がだんだんと切なく思えてきたのだ。その後の展開の中でも松坂慶子と平田満の名演技にも押されることなく見事に銀四郎を演じきった。ラストのストップスチールが今でも心に残る。「やられた!」そんな感じだった。1982年の作品だからあれから随分年月が流れた。

 最近では2008年の「CHANGE」、2009年「ありふれた奇跡」の父親役、登場するたびに深みにあるセリフを聞き涙していたように思う。「蒲田行進曲」から25年以上も役者としての経験を重ねたのだから上手くなるのは当たり前かもしれないけれど。ただ良い年の重ね方をしなくてはあのように情感が籠もったセリフがでないように思えてならない。
 そんな風間氏の言葉、<俯瞰する感覚>とは、自分が出演するステージでの関係を客観的に天井のような所から観察するもう一人の自分の目ことです。演劇用語で『ハイパーセルフ』と云います。 同じようなことをF1のシューマッハが語ったことがあります。F1のスタートは緊張の一瞬です。横から後ろからもスタートダッシュで少しでも順位を上げようとすべての車がせめぎ合います。「こんな時は自分の車を俯瞰的に見なくてはハンドルは握れません」

 一つの頂点を極めた役者もレーサーも同じように<俯瞰>という言葉を使用しています。この言葉は社会でも人生でも通じるような気がしてならない。

「あなたが今いる環境を俯瞰的に、自分自身のもう一つの目で見てみよう。
 そして、あなたは今何をするべきか、考えてみよう」



「いい役者とは何だろう。その人が持つ本質的なものが役を通して観客の心に届く、ということかな」という話もとてもいい。
 幼い頃から役者として酸いも甘いも噛み分けてきた風間氏の含蓄のある話だと思う。

「今あなたがいる環境の中で、自分の本質的な良い部分を周囲に示していますか?」

私は風間氏の話をこのように置き換えてみた。
その道を極めた人の話は、あらゆる人生において通じるような気がする。

風間氏には聞こえないだろうけど、こう伝えたい。

「あなたが持つ本質的なものが役を通して私の心に届いていますよ」

映画「17歳の肖像」

2010年10月30日 | Weblog
 久しぶりにいい映画に出会った。昼間にトム・クルーズ主演の「ナイト&デイ」を観賞してきたが、ものたりなくなり、帰りにあるDVDをレンタルして夕食後観賞。これが大当たりだった。今年今まで見た映画では「インビクタス/負けざる者たち」「ハート・ロッカー」「インセプション」という名作・大作があるが、この「17歳の肖像」はこれらの映画とは感動度がまったく異質だが本当に良くできていた。私好みの作品だった。

 イギリスの人気記者リン・バーバーの回想録を基に、ベストセラー作家のニック・ホーンビィが脚本を手掛けた青春映画。2009年度アカデミー賞の作品賞、主演女優賞、脚色賞にノミネートされた秀作だ。

 1961年、ロンドン郊外。16歳の主人公ジェニーは、両親が期待するオックスフォード大を目指して勉強に励む優等生だった。しかし、本心ではパリに憧れ、退屈な毎日にうんざりしていた。そんなある日、彼女は倍以上も年の離れた男性デイヴィッドから突然声をかけられる。最初は身構えたジェニーだったが、デイヴィッドの紳士的で知的な言動に心を許し、あっという間に恋に落ちてしまう。優雅な身のこなしとそつのない言葉に両親も信頼し、デイヴィッドは、彼女をナイトクラブや音楽会といった魅惑的な大人の世界へと導いていく。そんなデイヴィッドにジェニーもすっかり夢中になっていく。フランス旅行中についにジェニーと彼は深い関係になった。そして、ディヴィットの本当の仕事を知ってショックを受けるが彼のうまい言葉に騙されていった…。

彼と婚約し高校を辞めることになり、ジェニーは校長室へ向かう。
「計画はどこまで進行中? 日取りや教会は決めたの?」
「教会ではしません。彼はユダヤ教です」
「ユダヤ教? ユダヤ人? 私たちの主を殺した民よ」
「主もユダヤ人よ」と校長先生をやりこめるジェニー。
「その前にもっと大事な忠告がある。大学を出ないと何もできないわよ」
「大学を出ても女は何もできません」
「私やほかの先生方は何もしてないと? 教養があれば教師にもなれる。勉強はつらくて退屈でも…」
「退屈?」
「勉強が退屈ってことは教職も退屈? 退屈なことをし続けて死ぬまで退屈しろと?
 この国は退屈の塊よ。味わいも喜びもない暮らし。ロシアの核攻撃で滅びた方がマシね。
 退屈な人生などいらない。ユダヤ人との結婚を選ぶわ。
 パリやローマに行きジャズを聴き読書や豪華な食事を楽しむの。
 教育するならその意義を教えてください」

「……教員のほかに公務員にもなれるわよ」
「今の疑問への答えを用意しておくべきだわ。私のような生徒はまた現れる」

ジェニーは目に涙を溜めながら、最後に校長にそう告げて部屋を出て行った。

 この女性校長を演じたのがエマ・トンプソン。彼女は実際に名門ケンブリッジ大学で英文学を専攻し、1992年に「ハワーズ・エンド」でアカデミー主演女優賞したイギリスの名女優だ。このベテランとの会話シーンで1992年アカデミー主演女優賞をノミネートされてと言っても過言ではない。この映画の中で最も心に残る名シーンだ。利発な少女の青春真っ只中を象徴するシーンだけに、その後の展開があまりにも切なくなってくる。

ラストシーン
傷ついた少女が校長と同じように教室でやりこめたオールドミスの教師宅を訪れ、
「年取った気分、愚かなまま…」そして謝罪の言葉を述べたジェニー。
それをしっかりと受け止める教師。心が熱くなるシーンだ。
たとえ挫折してもジェニーの凛とした自立姿は、きっとすべての人の心に残るに違いない。



*原題の「An Education」のEDUCATIONには辞書を引くと教育的経験、啓発的教育と云う意味があり、EXPERIENCEは(具体的に)経験したこと、体験という意味でかなりの違いがある。

 

「プレゼンテーション」(下)

2010年10月26日 | Weblog
 日頃私たちはTVを見ながら多くのコマーシャルという「プレゼンテーション」を見聞きしています。新聞や雑誌で記者が伝えたいことを読み、友人や恋人、上司や部下との会話の中で<誠の心>があるかを無意識に頭の中で分析し判断を下しています。

「この車は素晴らしい!」 
「このビールはとても美味しい!」
TVコマーシャルは「プレゼン」の結晶と云えます。製作者は俳優が持っているキャラクターを用いながら何千万、何億もの金を使い、消費者にその商品を買わせようとしているのです。視聴者は買うか買わないかその判断を頭の中で無意識に繰り返しているのです。私の大好きな映画もまた原作者や製作者、監督や脚本家が映画と言う手法を使って、伝えたいこと、語りたいことを観客に訴えている「プレゼン」と云えます。

 友人関係や夫婦関係、先生と生徒との関係においても同じです。突然付き合っている相手から「愛しています」と告げても心が通い合うことは奇跡に近いと言って過言ではありません。長年の夫婦関係においても、日常の会話や動作や対応という「プレゼン」受けて「私は本当に愛されているのだろうか?」という分析を繰り返し、無意識に小さなな判断繰り返していると言って過言ではありません。

 映画「コンタクト」の中で父を心から愛していた娘が、第3者に「それを証明できますか?」と尋ねられるシーンがあります。科学者である彼女にはそれを証明する手だてがないために答えられずにいました。長い間、同じ時間・空間を過ごしてきた人なら「愛」は日頃の「プレゼン」によって伝わるものだと私は信じていますが、これさえも決して容易ではないようです。ましてや第3者には大変伝えにくいものです。しかも証明するなど不可能と云えます。
         
 政治家の演説もまた、「プレゼン」と云えます。票を集めるために演説をや握手を繰り返すのです。教室で先生が生徒を前にして黒板を利用して教育するのも「プレゼン」です。家庭で親が子供達を躾ける教育も「プレゼン」という手法を用いています。だから、えらそうなことを言いながら、違う場面ではその親がだらしない姿を見せていては、子供を教育できないのは当たり前となります。

「プレゼン」には信念や熱意、気迫が必要だと語ってきました。そして教室での先生や家庭での躾けも「プレゼン」という手法を用いているならば、「プレゼン」に最も必要なものは<愛>ではないでしょうか。

 映画好きの私は常々<愛>が根底に流れていない映画は価値はないと思っています。哀愁や切なさは愛を表現しています。家族愛や友情や師弟愛、組織への忠誠心、動物や自然へ愛がなければ無意味な映画だと判断しています。過去の名作映画がいまだに輝いているのは様々な愛が無数に散らばっているからに他なりません。愛の存在に気づかなかった登場人物が両親や周囲の愛に気づくシーンがどんなに胸を熱くするか、成長していく人物の目の輝きに中に愛が点っていくシーンは誰もが感動するものです。

 若い人はこれからチームや組織の中で、あるプロジェクトに参加する瞬間が訪れるものです。それはわずか2、3人のチームかもしれません。また4、50人、何百人の大プロジェクトかもしれません。その時しっかりと現状を分析し改善の為の仮説を立てましょう。そしてその仮説を立証し、数字を変えて見せて下さい。数字は客観的なものです。つまり誰が見ても3は3、100は100なのです。数字は大きな説得力、プレゼン能力があるのです。その手法と数字を信念と熱意と気迫を持って伝えて下さい。そして何より大切なのはあなたの案や作り出そうとするものに、あなた自身の<愛>を込めて下さい。これが私が伝えたかった「プレゼンテーション」です。ベタな言い方ですが、<愛>がないものに価値などないのです。

 誰かを愛したりするのは決して容易ではありません。それは自ら過去を振り返ってもすぐに判断出来るはずです。愛せる人に遭遇するのは、奇跡に近いほど数少ないことを学んできたからです。しかし、自分が作り出したものを愛することは難しいことではないはずです。

「与えなさい、されば与えられん」


「プレゼンテーション」(中)

2010年10月26日 | Weblog
セブン○レ○ンで出された<業革>を要約するとこの4点でした。
1)納品サイクルを増やす。 
2)ロット(1c/s当たりの本数)を減らす。
3)別々の業者の商品をある場所に集荷させ、各店舗への納品を1台の車に入れ納品する。
4)欠品を出してもいいから店舗での1品当たりの適正在庫量を決める。

 こうして製造業者・運送会社という第三者を巻き添えにしながら、まず小さな範囲で<業革>が実施されていきました。そしてその各店舗では本当に在庫が減っていくか、想定外のトラブルにはどんなものがあったのか、さらに修整を加えるものはどんなことなのか、それらを分析→仮説(企画・立案)→検証を徹底的に繰り返して行ったのです。当時、ヨーカドーの食品売場では、「マグロ刺身」をいかにして売るか? 曜日別・時間別、どの棚に、何切れetc.を集中して分析し仮説を立てて、成功事例を立証して行きました。この「マグロの刺身」だけでも5年以上続けられました。驚くべき執念と云えます。この徹底した追及こそが、新たな将来への架け橋となると誰もが信じ邁進したのです。
      
 この<業革>の推進により、セブン○レ○ンの在庫額は見事に500万までに削減できたのです。多いときは1,500万の在庫もあった在庫額が多くても500万になる、これが3,000店舗以上で実践されるのです。この巨大な差額が無駄な金利を省き、各店舗の損益分岐点を一気下げ巨大な利益を生んで行きました。週1回の全店店長会議の席上で店長自らの成功事例を自信を持ってプレゼンテーションしたのです。それを聞いた全国の店長は自店に持ち帰り、各職場の責任者に報告したのです。これが毎週1年間で52回、何年かも継続され続けたのです。こうして全国からヨー○ドーの店長やセブン○レ○ンオーナー、D社では私のような地区マネジャーが東京本社に集められ、各社で<業革>のプレゼンが行われ、<業革>そのものが深耕して行ったのです。当時I○グループの交通費は年間10億円と云われていました。他企業はこの強大な交通費の意味するものを理解できないでいました。

 その後の躍進は皆様もよくご存じのはずです。セブン○レ○ンは米国本社のサラ○ンド社を買い取ってしまい、巨大なコンビニ王国を築き上げました。今では毎日納品(一日3回)となりもっと在庫量は削減されたはずです。当時地区マネジャーしていた私は週三回の在庫チェックと発注業務、納品業務の時間に追いまくられる店長達の苦情に頭を悩ませることとなりました。しかし、以前は-18℃の冷凍庫に1時間近く籠もって在庫をチェックしていましたが、このシステムが進むに連れて、在庫・発注・納品のそれぞれの時間が極端に短縮され、在庫が少ない分、また週3回も在庫チェックするために、欠品もなくなり、機会ロスが無くなった分売上アップにも貢献していきました。こうして店長達はこのシステムを積極的に受け入れ始めたのです。受け入れないものは脱落していくしかなかったのです。

 製造元や運送会社も当初苦情の嵐でした。しかし、「このシステムに乗り遅れれば明日はない」と製造元・運送会社各企業のトップはある時点で確信したはずです。鈴○氏が行った各企業トップへのプレゼンテーションの気迫に負け、取引企業でも業務改革を余儀なくされました。これがバブル経済崩壊後にも堪えうるシステム構築となろうとは殆どの人は気づきませんでした。

 大量生産・大量消費時代の始まりだった岩戸景気(1958年6月~1961年12月)の頃登場した総合スーパーマーケット。豊富な品ぞろえと大幅な値引き販売で顧客を集め始めるその「流通革命」が、生き残り戦争とも云えるあたらな企業間競争時代に突入して行ったのです。販売時点情報管理システム、通称「POS」システムの積極的導入によって、情報収集が最大の武器となり、集積された情報を分析する能力、仮説を立て新たな将来を見据える洞察能力、今までにない企画を立案する能力、検証し衆知徹底して行く強い能力、この4つの能力を携えた者こそが勝者となって行ったのです。

 バブル経済時、この世の春を謳歌した旧体質の業界は、この動きに気づかずにいたのか、気づいている人がいたにも関わらず長い歴史があったゆえにシステムの骨格、人そのものが変化への対応ができなかったのではないか。第二次世界大戦末期、日本海軍は昔の栄華(日本海海戦勝利)を忘れられず、巨大戦艦「大和」や「武蔵」造船に力を集中させて、戦闘機・爆撃機・空母等の海軍優先の時代に入っていたことに気づかなかった軍人達と被さってきます。

 良き伝統はフラットな組織ではなくピラミッド組織でしか熟成しにくいものかもしれません。そして組織としての強大な力を携えるにはピラミッド型の権力集中が不可欠かもしれません。しかし、軍隊や警察のような組織ではストレスで崩れ落ちていく人々が多過ぎるひ弱な人々の時代に移り変わったように思えてなりません。それは資本主義が深耕し個人主義へと変貌していったように思えてなりません。物質的豊かさの為にやるべきことを見いだせず、自らの快楽を最優先で求めて彷徨う人々が増産されてしまったのです。ビジネスの本質は「変化への対応」業です。今まさに物質から、根本である人の心への対応がもっと深耕するべき時代に入ったのです。

「プレゼンテーション」(上)

2010年10月26日 | Weblog
 かつてI○グループの会社で多くの役員や部長職の連中を前にしてOHPを使ってプレゼンテーションしたことがあります。子供が幼稚園に入った年でしたから、今から25年も前の話です。大阪1号店の売上を2.6億から3億にしたおかげで地区マネジャーに昇格し、D発祥の地、神奈川湘南の地区マネジャーに赴任した1985年の事でした。
     
 当時I○グループでは<業革>が盛んに行われていました。<業革>にはこのプレゼンテーションという伝達手段が不可欠でした。まず<業革>とは何なのか? 端的な例を挙げて説明すると、<業革>を始める前のセブン○レ○ンでは一週間の商品在庫量が1,500万円が必要でした。今では考えられないでしょうが、当時は納品サイクルが週1回だったのです。例えばケチャップ1c/sに36本入っていて、一週間なら本当は10本もあれば十分なのに1c/sを頼まざるを得なかったのです。しかも、納品車は製造元から別々にコンビニの狭い駐車場で行き来するのです。当然業者の納品車が納品日には入れ替わりに入ってきて駐車場は混雑していました。このような現場を打破するためにトップの鈴○敏○氏が「在庫を減らせ」を大号令をかけたのです。世間ではバブル経済に浮かれていた時期でした。

 在庫を減らすために、まず自分の持ち場を徹底的に無駄・ロス・不効率の流れを洗い出し分析し、その改善策を立案しその案を実行し検証して、結果をさらに分析し、修整して新たなシステムを構築して行こうといういうものでした。売上を上げるための施策も分析し、仮説を立ててそれを検証し改善し立証していくことも業務改革<業革>の最たる目的の一つでした。全世界で先駆けて全店POSシステムを導入したセブン○レ○ンが業革を先行して推進しました。こうした流れの中で鈴○氏がグループ幹部の前で、「欠品してもいい」と言い切り、「朝令暮改できないような組織は生き残れない」と豪語していたことを今でも強烈に記憶に残っています。

 ある日上司のI氏と私の車で湘南地区を回っているとき、突然、藤沢の私の家に行こうと云いだしたのです。役員プレゼンの1週間前でした。私の業革内容は「調理が遅くなる原因分析と改善方法について」でした。私の準備は万全でした。いや、そのつもりでした。

 家に着くとI氏は、連れ添いが出したお茶を飲みながらニコニコしながら「プレゼンの資料をだせ!」と云い、「俺と嫁さんの前でやれ」というのです。「NO!」と云える状況ではありませんでした。OHP印刷用のA4用紙を居間の壁に貼り、私はしぶしぶI氏と妻の前で始めました。
「メモは絶対に読むな。暗記しろ! 壁に貼った用紙を見て内容を思い出せ!」
「文章はすべて箇条書、数字・表をもっと多用しろ!」

 最初は言葉に詰まったりメモを覗いたりしてスムーズにできませんでしたが、「もう1回!」、「もう1回、最初から!」そして3回目、連れ添いやI氏の目を見ながら1度も詰まらず、メモの覗かず、箇条書きの文章や表を見ると言葉が次々と出てくるようになって、ようやく合格を貰えました。2時間が過ぎていました。

I氏も連れ添いを気に入ったのか、この日以来地区回りの際は、10分ほどですが時々私の家に寄ってお茶やコーヒーを飲んで行くことになりました。その後、連れ添いとテレビドラマを見ていて、プレゼンシーンに遭遇すると、彼女が思い出したように言います。「あのときは楽しかったわぁ。あなたの真剣な顔を今でも思い出す」夫婦の歴史が絆となっていく瞬間かもしれません。

 さて、役員室でのプレゼン当日。1番手は同期の千葉の地区マネジャーでした。しかし、最初の2,3分で突っかかりメモを握りしめ、しどろもどろになっている彼に向かって進行役の営業部長の罵声が飛びました。
「バカヤロー! そんな本読み言葉で部下を指導できるか! 
 やり直しこい! お前の言葉には誰一人、熱意も可能性も感じないっ!」

部屋中に響き渡った営業部長の罵倒を今でも覚えています。
次のプレゼンは私でした。
「次はN君か、大丈夫か?」
「はい!」
すかさずI氏の言葉が聞こえた。
「大丈夫です、やらせて下さい」
この言葉のおかげで私はスムーズなスタートができました。

 私の分析・改善内容は今考えると、決して優れたものではなかったように思います。遅くなってしまう料理の組み合わせやその時の人員状況を分析し、ピークの際の厨房人員配置、プレパレーション(食材の準備)をもっと綿密するというあたり前の内容でした。しかし、準備のおかげで15分チェック(オーダーしてすべての料理を出す時間が15分以上かかる伝票のこと)の数が地区全体で80%削減できたという内容でした。プレゼンの評価は上々でした。


「分析と改善内容をプレゼンする者が一点の迷いもなく信じ、真剣に熱意を持って伝える」
今振り返ると、内容も当然大切ですが、店長達の前で伝える気迫こそが<業革>におけるプレゼンの本質だったと思います。効果が薄ければ、違う案にトライし続けるシステム作り、鮫の軟骨のような骨格を持った組織作り、朝令暮改をも苦にしない活性化し続ける組織作りの構築こそ<業革>の本質たっだのです。(鮫は軟骨のおかげで古代の気候変化に対応でき、有史以来姿を変えていない、ガンに罹らない脊椎動物)
                    

映画「エクスペンダブルズ」

2010年10月22日 | Weblog
 スタローン製作・監督・脚本映画「エクスペンダブルズ」を見てきました。まさに超爽快アクション映画、想像以上によくできていました。次回作も決まっているという話ですが、うなずけます。

 スタローン映画には「ロッキー」シリーズと「ランボー」シリーズの2作品がありますが、同じ主演で、2本の大ヒットシリーズを持った俳優は他に存在しますか?日本の映画では勝新太郎の「座頭市」シリーズ、「悪名」シリーズ、「兵隊ヤクザ」シリーズ、「御用牙」シリーズ、「駿河遊侠伝」シリーズと5作品も持っていた強者がいますが、ハリウッドでは聞いたことがありません。私はいつもスタローンを見ると、映画が好きで好きでたまらなかった勝新を思い出してしまいます。二人とも製作・監督・脚本を手がけています。二人が共通している点は配役がいつも見事に填っており、しかも泣ける脚本作りができる点です。観客の心を掴む難しい技を二人は会得しているような気がします。

「エクスペンダブルズ」の配役もとても見事に決まっています。ジェット・リーのセリフやミッキー・ロークの使い方もグッドです。今や大人気となったジェイソン・ステイサムの持ち上げ方、二人の会話もまったく違和感がありません。ブルース・ウィリスとアーノルド・シュワルツネッガーはほんのワンシーンですが、ノーギャラでの出演だそうです。かつてプラネット・ハリウッドのレストランチェーンを発足した仲間でもありますが、スタローンの映画作りへの真摯な気持ちに動かされたのでしょう。彼らのセリフも笑わせます。

 ニューヨーク生まれイタリア系アメリカ人のスタローンは、学校に入っても成績が悪かったこともあり、ケンカっ早いトラブルメーカーとして、退学になったこともありました。両親が離婚してからの彼の素行は悪化の一途をたどり、寂しさや悲しさをケンカで紛らわす孤独な少年だったようです。しかし、やがて演技に興味を持ち始め、俳優になりたいと思うようになります。高校を卒業した後は生まれ育ったニューヨークから遠く離れたフロリダへ渡り、マイアミ大学で演技を専攻。映画の脚本を書くようにもなりました。卒業寸前で大学を中退すると、当たって砕けろ精神で映画業界へ飛び込みます。エキストラやチョイ役などをやるようにはなりますが、タレ目でしゃべり方もモソモソとしているスタローンにはかなり厳しい状況でした。生活に困り果てたスタローンはポルノにも出演し、しばらくの間食いつないだといいます。

 スタローンの好きな言葉に、「キレイな虹が見たければ、たくさんの雨に耐えなければならない」というのがあります。彼の人生はまさにこの言葉を体現しているように感じます。貧乏のあまりホームレスまで経験した彼は、1974年に出演した作品がきっかけでプロデューサーの目に留まり、『ロッキー』の製作へと導かれていきます。『ロッキー』はスタローン自身が主演するということを絶対条件で話を進めていたにもかかわらず、興味を示していたスタジオから「無名の俳優を主役にはできない。スタローンが出演しないのなら製作する」と申し渡されてしまいます。当時、ほぼ無一文状態だったスタローンはスタジオ側から、「『ロッキー』の権利を完全譲渡すれば25万ドル(約2,250万円・1ドル90円計算)支払う」とまで持ちかけられたのですが、断固として譲歩しませんでした。この不屈のド根性がやがて実を結び、条件付きではあるもののスタジオ側が根負けし、『ロッキー』の製作が始まりました。

 1976年に公開された『ロッキー』は、その年のアカデミー賞作品賞を受賞し、スタローンは一躍世界中の人気者となります。その後『ロッキー』は続編が5本も製作され 大ヒットシリーズとなります。これと同時に、彼が脚本を手掛けた『ランボー』も大ヒットを記録し、シリーズとして大成功を収めます。このシリーズはベトナム戦争帰還兵の苦しみを描いた貴重な作品でした。

 しかし、俳優業がノリにのっていた1985年、実生活では結婚11年目にして最初の奥方だったサーシャと離婚してしまいます。二人の間に生まれた次男セルジオ君が自閉症にかかっていることで世話にかかりきりになってしまった彼女と、仕事で不在がちのスタローンとの間に溝ができてしまったのが原因のようでした。

 問題は次の結婚でした。お相手は、女優ブリジット・ニールセン。「お会いしたいわ!」というメッセージと電話番号を裏に書いた自分のセクシー写真をスタローンが泊まっているホテルの部屋に届けたことがきっかけだったそうです。結局、ブリジットとの結婚は1年8か月しか続かず、ブリジットと共演した駄作の余波で少しずつハリウッドからフェードアウトしていく羽目になったのです。

 1993年の『クリフハンガー』やサンドラ・ブロックと共演した『デモリションマン』、そして1997年にロバート・デ・ニーロと共演した本格的ドラマ『コップランド』、そして2006年には『ロッキー』シリーズ6作目にあたる『ロッキー・ザ・ファイナル』、2008年には『ランボー』シリーズ4作目にあたる『ランボー 最後の戦場』が公開されヒットしますが、全盛期の勢いとは程遠いものでした。

「このままスタローンは終わってしまうのか?」と思われていた矢先、『ランボー 最後の戦場』を共に製作し良きビジネスパートナーとなったニューイメージという製作会社に、「新旧のアクション・スターを主役にした大アクション映画を撮りたい!」という新作の話をスタローンが持ちかけます。

 彼の俳優としての才能はもちろん、監督・製作・脚本の才能も熟知しているニューイメージ社は、出演者の中にブルース・ウィリスやシュワルツェネッガー現カリフォルニア州知事をはじめ、近年を代表する人気アクション俳優のジェイソン・ステイサムやジェット・リーも出演候補に挙がっていると聞いて、このアイデアに早速OKを出します。

 しかし、ニューイメージはインディーズ系の製作会社です。メジャー製作会社のようながんじ絡めの規制がない分、予算の面ではない袖は振れない厳しい制約があります。随分苦労し紆余(うよ)曲折を経て、この夏アメリカで封切られた『エクスペンダブルズ』は公開されるやいなや、大ヒットを記録。2週連続全米ナンバー1に輝き、スタローン主演の歴代映画の中で一番の興行収入となりました。(参考文献:アケミ・トスト/Akemi Tosto)

 私には彼の生き様に、「面白い映画を撮りたい」と常に思っていた勝新が被さって見えてきます。彼らが作った面白い肩の凝らない映画が好きです。特にセリフがいい。黒澤作品(「用心棒」「椿三十郎」)と同様にとても考えられており、こなれいるのです。二人とも普通の社会人としては生活破綻者かもしれません。父親として失格の烙印を押されたかもしれませんが、彼らの映画には観客を魅了する熱いものがあります。そして彼ら歩んできた人生観がストーリーやセリフに息づいています。

 以前も紹介しましたが、勝新が撮った座頭市シリーズ最後の作品「座頭市」も素晴らしいセリフの連続でした。共演の三木のり平との絶妙の会話、用心棒役の緒形拳とのやり取り、やくざの女親分を演じる樋口可南子との風呂場のシーンの美しいこと、丁半博打のシーンも座頭市映画の真骨頂とも云える名シーンです。どの役者にも「エクスペンダブルズ」同様に見事に演じさせています。こちらも必見です!


<2010有明テニスの森 ナダル初来日!>

2010年10月11日 | Weblog
10/6 神戸空港を7:25発のスカイマークで羽田へ(8:40着)。
予約していたトヨタレンタカーでヴィッツを借りていざ、有明テニスの森へ。

日本のテニスの聖地・有明コロシアム。
出張で何度も来たビックサイトのすぐ近くにあることを初めて知る。
ドロー表を見て今日の6日にはナダルを見られないことを知り、連れ添いと顔を見合わせる。
全米で初の優勝を飾り、生涯グランドスラムを獲得したナダル。
しかも、日本初来日。その彼を見たいと衝動買いしたチケット。
こんな機会も衝動買いも二度とない。
私はコロシアム入口にあるチケット売り場の前でこう云った。

「明日のチケットを買おう!」連れ添いのうれしそうな顔。
「ホント!?」

二人の気持ちは一緒だったようだ。
「和して同ぜず」を座右の銘にしている私をテニスに填めたのは間違いなく連れ添いだ。
WOWOWの加入もこのテニス中継を見たさに彼女が決めたこと。
今回の旅行も多少彼女は責任を感じていたようだが、私もナダルを見たかったのだ。
ナダルにはそれだけの魅力がある。
小学校の頃、梅田の阪急百貨店に007「ゴールド・フィンガー」で使用した
名車アストン・マーチンが飾られたことがあり、一人で見に行ったことがあった。
その時の幼い自分の押さえられない衝動を思い出した。
まだこんな想いが残っていた自分に驚き、
そしてその衝動を突き動かしたナダルの魅力を改めて感じた。

Sチケット(有明コロシアムでの当日試合を何度も再入場可能・このチケットがあれば他のコートのすべての試合を観戦できる)を購入。とりあえずホッとしてまずは腹ごしらえとなった。

 コロシアム(いわゆるメインコート)でロディックの試合を見たり、第1コート第2コート、第3、第4コートで日本人選手の試合を移動しながら見たりするのもかなり疲れる。この日の昼は青天でとても暑かったが、夜には寒くなった。テニス観戦もスポーツだと思い知る。錦織選手が昨日一回戦で負けたためにダブルス出場が決まり、ただの練習にも群がるファンの多さに驚く。錦織の人気を改めて感じた。こんな選手が沢山でてくれば女子プロゴルフのように底辺が広がってくるのだが…。錦織圭にも遼くんのような実績がついてくればテニスはもっとメジャーになるはずだ。錦織選手が出場するダブルスの試合はなんと深夜にまで伸びるが、私たちは睡眠不足と体力の限界を超えていた。とにかく、明日7日の最終試合、ナダルの試合を見ることができると安心して、有明を後にする。

 <コバラヘッタ>というイタリアンの店に入り、パスタメニューを選ぶ。ウエイターはインドかインドネシア系のイケ面だった。大阪の難波では中国人だった。これからもどんどん海外からの出稼ぎ者がサービス業にも進出してくるに違いない。3Kと呼ばれる仕事から日本人はますます遠ざかる流れにある。私たちはいったいどんな職を目指そうとしているのか…。

10月7日(木)
 目覚めはすこぶる快調だった。目が覚めた瞬間、「ここはどこ?」朝の光が届かぬ妙な部屋がどこか分かるまでに数秒の時間を要した。急いで身支度をして有明に向かった。約10kmの行程だったが9時台の都内はやはりよく込んでいた。バスの路線規制もきちんとされており、お回りさんの動きも軽快に見えた。有明近くのローソンで食糧を買い込み、新聞も2紙買い込んだ。日本人のノーベル賞受賞が一面だった。

 ナダルの試合は18時頃と思われ、私たちは有明テニスの森の一角にある“ビーチテニス”会場横にあるテーブルに腰をかけた。ラケット担いだ親子連れや若いカップル、ごくたまに私たちのようなカップル、そしてとても健康そうで細身のスポーツ実践者達の姿を多く見受けた。時間はとてもゆっくりと流れていた。こんな時間をかつて一度も持ったことはなかった。名所旧跡が好きな私たちはスポーツ観戦と呼ばれるものは野球以外体験はなかった。そして2日間に渡って18時間も同じ場所にいるなど前代未聞と云える。そんなことを考えていると何故テニスなるスポーツにこれだけの時間と金をつぎ込むくらいにのめり込めたのか? 不思議に思えてきた。

 そもそもテニスに惹かれたのは結婚してからの事。彼女がクラブで軟式テニスをやっていたことがきっかけだ。私の経験と言えば高校時代授業で軟式テニスを少し体験しただけに過ぎない。結婚して初めてボルグ、マッケンロー、レンドル、ベッカー、エドベリ、そしてアガシ、サンプラスを知った。エバートとナブラチロワの名勝負、頭脳的プレーのヒンギス、うなるセレシュ、女王グラフなどどんどん名前が挙がってくる。

 テニスに惹かれた象徴的プレーがネットにかかって相手コートにボール落ちると、「ゴメン!」と云って手を上げてこんな点の取り方をして自らを恥じるところだ。「加点して相手に謝る」スポーツを私は初めて知った。そこには騎士道的な精神「勝者は驕らない」・「勇気ある敗者を称える」ものを強く感じる。観客も競技場によっても多少異なるが、弱者の頑張りを褒め称えるように拍手する。圧倒的に強者が弱者を攻めると観客は試合が早く終わるの惜しむかのように弱者への応援に移行する。こんなことは野球やサッカーにはない。ここに強く惹かれたことに初めて気づいた。

 私はかつての大阪(難波)球場や甲子園でのように応援しているチームの投手が打ち込まれ、交代させられる場面で「死んでしまえ」「引っ込め!」という野次を何度も聞いてきた。負け続けると監督への野次は、幼い私の心を悲しませた。「彼らは本当にファンではない」幼な心に思ったものだった。

 テニス中継を何度も見てきた。お目当ての選手を応援するために会場にファンが集まる。しかし、コートを囲む観客席に入り一旦試合が始まると、どの選手にも惜しみない拍手が送られれる。野球やサッカーのように一塁側、(ホーム)、三塁側(アウェー)とファンは一応別れるが、テニスにはそうした客席の区別はない。素晴らしいエースサーブ、奇跡的なショット、ロングラリーには会場が割れんばかりの拍手が鳴り響く。それはお目当ての選手への拍手でもあるが、テニスというスポーそのものを愛する人たちの温かい拍手に聞こえてならない。

 するどいパッシングショットを放ったつもりがネットにかかり、相手側にポトリとボールが落ちても、決してガッツポーズなどしない。反対に(悪いな!こんな点の取り方をして)と云うように手を恥ずかしそうに手を上げる。ここにテニスというスポーツの真髄を私は感じる。

 悪童と呼ばれたマッケンローのように審判の判定に文句をつけて何度も罰金を取られた選手もいたが、殆どの選手は紳士淑女として誇りを持った言動が数多く見られた。そんな選手達がグランドスラム大会で優勝して、コートからコーチや家族が座るファミリーボックスへ駈け上って行って彼らと抱き合うシーンは何度見ても目頭が熱くなった。そして優勝コメントは必ず対戦相手を言葉だけでなく心から褒め称える。

「今日は私に少しだけ運があっただけです。彼が(彼女が)、この優勝カップを手にする実力を十分持っています。そんな彼に勝てたことを本当に心から誇りに思います」
そして、必ずコーチ陣への感謝の言葉と家族への温かい感謝の言葉で締めくくられる。

 有明コロシアムで声援を送っているうちに、私はそんな彼らの誇りに満ちたプレーに人間的魅力を感じてテニスファンになったことを初めて知ったのだ。プロ野球の試合を見ていて相手のエラーに喜んで拍手する応援が嫌いなワケがようやく分かったように思う。1984年、オリンピック柔道の決勝戦で、エジプトのモハメド・ラシュワンが山下の怪我した右足を狙わず銀メダルになってしまったが、そのフェアプレーの精神を称えられ世界の柔道界で認められたことを思い出す。

<フェアプレー>こそ私の求める本質のような気がする。
たとえ賞金がかかった試合であっても、誇り高きプレーヤーでいて欲しい、誇りあるファンでいたい、そして素晴らしいプレーに声援を送りたい。

 横道にそれ過ぎたが、ナダルは全米テニスで初めて信じられない高速サービスを身につけた。今夜の相手ドミトリー・トゥルスノフ(ロシア)は、そんなナダルのサービスを越える227km/時を見せつけた。しかし、ナダルの驚異的なレシーブ力、そして流れを変える強烈サーブと奇跡的なアングルショットで6-4,6-1で後半はあっけなく終わってしまった。それでもあの動き、あのショット、あのサーブを生で脳裏に焼き付けることができた。


(10/9 準決勝のナダル戦を見た)

 相手は一回戦で錦織選手を破ったビクトル・トロイツキ(セルビア)。
 7-6、4-6、7-6で勝つには勝ったが、サービス、ショット共にナダルを圧倒していた。
 第三セット、ようやくナダルはブレイクしたにも関わらず、
 次のゲームをブレイクバックバックされる。
 そしてもう一度必死でブレイクし、ナダルのサービング・フォー・ザ・マッチを
 またもブレイクされタイブレイクに突入した。
 こんなに攻められ続けるナダルを見たことがなかった。
 負けると80%思えた。
 その要因を強いていえばトロイツキの畳み込むように強打してくるサーブに
 圧倒されたように思えてならない。
 そして、そのサーブに匹敵するサーブを打とうとしてファーストサービスが入らなくなり、
 自滅寸前に追いやられた、というのが私の印象だった。

(10/10 決勝戦)
 ナダルは、決勝で第5シードのガエル・モンフィスを6―1、7―5で下し初優勝した。
 昨夜と比べるとあっけないくらいの勝負だった。
 ナダルはあっさり第1セットを奪うと、
 第2セットは5―5から相手のサービスゲームをブレークして一気に押し切った。

 ナダルを心底苦しめた準決勝戦のトロイツキ(セルビア)を私は忘れない。
 きっとトップ10に入ってくるに違いない。