GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「親友に逢いに行く」

2011年09月30日 | Weblog
 九州にいる親友が大病を患った。我々の年代で、半世紀以上酷使してきた身体、すべての部分で健常者はいないはず。大学時代に知り合ってから40年近い歳月が過ぎた。友人の結婚式で顔を合わせて以来だから、少なくとも30年近く顔を合わせたことがない。そんな二人が再会するのだから、きっとお互いの変貌ぶりを驚くに違いない。大学時代同じクラブを選び、お互いに音楽の趣向が合うということもあって、ギター2台のフォークデュオを組んだ。そして4年間楽しい学生生活を送った。二人とも鹿児島とはなんの縁もないのに<おいどん>という不思議な名を付けた。

 地方出身の彼は「東京は住むところではない」と言っていたこともあり、九州の安定した企業を選び、早々に居を移した。若い頃の私は「我に七難与えたまえ」という信条だったこともあり、興隆するだろうと見込んだ外食産業に就職した。13回の転勤中に連れ添いを見つけ、就職して12年を経て、外食産業もここまでだと思い、退職して大阪にマンションを購入した。その1年半後の1990年、バブルの最盛期に明治時代設立の電鉄会社からお呼びがかかり、再就職して現在に至っている。昨年定年退職し、その後も同じ職場で1年毎の契約で継続勤務を仰せつかっている。肩たたきとは思いたくはないが、同じようなものだと捉えている。

 夏の最盛期も終わり秋の旅行を考えていたとき、九州旅行を思い立ち、彼に連絡を取った。退職したら夫婦二組でゴルフコースを回ろうと数年前約束していたことが脳裏をかすめたからだ。メールすると、大病を患っているが回復しそうだ、来てくれと、入院中とは思えない元気なメールが届いた。しかし、本当に驚いた。

 私は今の会社に再就職してから数年後、健康診断に引っかかった。40歳直前の頃だった。胃カメラを飲まされ、その後も毎年、胃カメラ検査に来るようにと云われた。しかし、その後の健康診断には1度も引っかからなかったので、この身体にはとても感謝している。しかし、胃カメラ検査の前は真剣に自分の身体のことを考えた。まだ子供も小学校で将来の事、マンションローンのことなど、もし私の身体に異常があればどうすればいいのかと。幸い十二指腸潰瘍の跡だと判明し、ほっとした。
 このことがあって初めて命のことを考えた。「残された命の事を考えてからが、本当の人生」といったのは五木寛之氏だったろうか。これまでの自分の仕事や生き方、信条、ストレスによる成人病、連れ添いや子供のことをそれまで以上に深く考え始めた。死を意識したことなど一度もなかったのだ。
 今までをラッキーだったと受け止めた。この運を少しでも伸ばそう、このGOODLUCKを大切にしようと考え始めた。善人も悪人も良運も悪運も自分が行きつつある方向からやってくるものだ。だからこそ、道を選んで歩まなければならない。そう考え始めた。  
「やるべきこととやりたことを同一線上に考えよう、もしくは一致させよう」自分のスタンスをシンプルに、そして明確にすることに努めた。ストレスを少なくして生きることが目的だった。あの胃カメラ検査がこれまでの人生観を変えたと思っている。

 2005年、元気な母(2007年他界)が自宅で腰骨を折るという事故にあった。それからの母は、グチが多くなり仕事帰りに実家に立ち寄っても、何処へも出かけられないという悔しさと嘆きばかりだった。今までのように歩けなくなってしまったのだからしかたがない。可哀想だが私にはどうすることもできなかった。痛くて辛い日々を嘆く母をどう慰めたらいいのか戸惑った。そんな時、ある映画のワンシーンのセリフを思い出した。「運のいい人だけが、素晴らしい思い出を持って天国に行ける」私は母と向き合うスタンスをようやく見つけた。映画の題名は「ジョー・ブラックをよろしく」

「なにを嘆いているんだよ。
 もっと痛くて毎日寝られない人が世の中にいっぱいいるんだよ。
 今まで母さんほど好きなことして、好きなところに行って来た人が周囲にいるかい?  
 日本中行きたいところに旅行しただろ。
 俺が香港に連れて行ってからも、世界中行きたいところに行って来ただろ。
 着たい服や着物もタンスにいっぱい詰まっている。
 ハンドバックも幾つあるか数え切れないよ。
 商店街の婦人部長として、やりたいことに挑戦して来ただろ。
 念願の先生になって、お茶やお花を教えてきたじゃないか。
 最近はヨガの先生までして、免許もないのに協会から怒られていたじゃないか。
 その上、兄貴や俺をりっぱに育ててきてくれた。
 嫁にして孫たちにしても、誰一人問題もなくみんな幸せに育っているだろ。
 みんな母さんのおかげだよ。
 母として一人の女性として、
 こんな素晴らしい思い出をいっぱい持っている人が周囲にいるかい?
 何を嘆くことがあるんだ?
 自分の人生に悔いなどないはずだろう?」

 仕事帰りに実家に寄るといつもこのように母と接した。それからしばらくしてからだった。「我が人生に悔いなし」と豪語し始めた。母はようやく心の整理をつけたのだろう。でも体調が悪い日はいつも弱気になっていた。電話でそう感じた時は会社帰りに寄っていつものように元気づけた。

 心の整理とは、別れがつらくなるような人生の歩みを心から喜び、そして感謝すること。最も近い配偶者や家族、身近な人たちに心から感謝し、切ない人生の無常を静かに受け入れることではないだろうか。母や他人の心根の奥など覗けるはずがない。ただ父や兄や私は間違いなく母に感謝している。そして、母と共に生きてきた人生を幸せに思い、悔いなど微塵もない。母もそうであって欲しいと願うしかない。私はそうだったと信じている。

 この30年間で役員まで登り詰めた彼がどのような人生を送ってきて、どんな人間性を築き上げてきたのか、知る由もない。しかし、大学4年間、最も長く一緒に過ごした友であり、心から無二の親友だと思っている。接点は半世紀を越える長い人生のわずか4年間だが、互いに濃密な時間だったと信じている。飛行機とレンタカーを予約した。海辺のコテージを借りて夫婦2組で1泊したいと思っている。ギターを持ち寄って僕たちの歌を妻たちに聞かせようと思っている。観光に行くつもりはない。もっとかけがえのない濃密な時間を過ごしたいと思っているからだ。

 大学時代のコンサートステージで観客に向かって彼はこういった。
「こいつがヘタな曲を作り、僕がうまく歌う」大爆笑だったが、私は本当にそう思っていた。彼の声が観客を魅了してきたのだ。輝くような4年間は彼のお陰だったと今も感謝している。だからこそ、本当に元気になって欲しい。心から願っている。

映画つれづれ草子(6)「アジョシ」

2011年09月23日 | Weblog
 数年ぶりで息子も一緒にMOVIX。選んだ映画は昨年韓国で630万人を動員してNO.1ヒットとなった「アジョシ」。韓国男性の間で「決してデートで観てはならない」と、半分本気、半分冗談の噂が流れた。曰く、ウォンビンがあまりにもカッコよすぎて、映画が終わった後に彼女が隣の席を見たら、「タコが座っている」ようにしか見えないというのだ。こんな紹介文を読んだが、まんざらウソではなかった。

 主演はキムタクやヤスキヨのやすしの息子木村一八似のウォンビン。今までの彼はTVドラマ「秋の童話」や映画「ブラザー・フッド」のような繊細な役柄が多かった。復帰第1作目の「母なる証明」でも、子どものような純粋無垢な心を持った青年役を演じていたが、私には物足りなかった。何故、こんな映画を選んだのか。そんな疑問が残る映画だった。しかし、退役後第2作品目の「アジョシ」ではそんな想いをあっけなく一層してくれた。孤高の元特殊工作員を見事に演じ、驚異のアクションを見せてくれた。ボーン・シリーズのマット・デイモンの激しい格闘シーンを彷彿させてくれた。いや、この凄惨はかつて観たことがない。そこには韓国映画特有の凄みがあった。

 <アジョシ>とは日本語に訳せばダサい<おっさん>のイメージだが、その概念さえも変えてしまったという。「秋の童話」以来彼が気に入り、以来彼に注目してきた。「ブラザー・フッド」の気弱な弟役から異常な戦闘に巻き込まれ、精神まで病んでいく役を見事に演じていった。兄役のチャン・ドンゴンとがっぷり四つに組んだ共演は見事だった。

 韓国の俳優を観ていつも驚かされるのは演技の幅が本当に広い点だ。当たり役を重ねて演じることを敢えて避けているように思える。汚れ役でもチンピラ役でも、その役柄に深い情念を感じさせる難しい演技に果敢に挑戦する。たとえばキムタクはどの映画でもドラマでも何処を切ってもキムタクだが、クォン・サンウやチャン・ドンゴン、ソン・スフォンはTVドラマでは、繊細でよく涙を流す役柄が多いが、映画ではとことん重い激しい役柄に挑戦している。華奢に見えてもシャツを脱いだ彼等の肉体美も、男の私がいうのはおかしいが、いつも驚かされる。ふと松田優作を思い出し、彼が見本ではなかったかと。「ブラック・レイン」の優作の鬼気迫る演技は何度観ても胸を鷲づかみにされたことを思い出した。

 映画「アジョシ」の話もしておこう。見終わって映画「レオン」を思い出した。「レオン」のように少女が拳銃を握るわけではないが、命を賭けて少女を守ろうとした点が似ている。ウォンビンが元工作員と思える殺し屋とナイフで戦うシーンは、見ていて息が止まってしまった。ナイフでの凄惨な殺害はTVドラマではタブーになっている。それはナイフや包丁があれば誰でも殺人が可能だからだ。しかも、殺人者と被害者が最も接近して行われる。このリアル感が問題なのだ。映画「レオン」中で、殺しではナイフによる殺人が最も難しいというセリフがあった。理由は相手の目を見る接近戦だからだ。「ランボー」シリーズでも何度もナイフシーンを観ているがその比ではない。「アジョシ」ではここまでやるかと思ってしまうほど、凄惨、壮絶なシーンが続く。気の弱い方の鑑賞は止めた方がいい。また子供の臓器売買の話も絡み、人間が行いうる所業の恐怖が、暗黒の闇の淵から顔を覗かせる。人間以外の動物は、ここまでの残忍さを持ち合わせない。人間だけが持つ限りなき欲望が、悪魔の所業を生じさせるからだ。
 映画「アジョシ」はとても良くできているが、ファミリーやカップルで観る映画ではないと老婆心で云っておく。我が家では観てしまったが。

<心のフィルター>

2011年09月20日 | Weblog
 水切りやザル、コランダーという厨房用品がある。コランダーはなくても何処の台所にも他の二つはある。食器の水分を取る、食材を乾燥させるという作業は、調理においても食材の保存や食器類の保管のためにもとても大切なことだ。特に食材貯蔵の原則の<乾燥させる>という大事な役目を果たしている。水分による菌の繁殖を防いでいるからだ。

 水分は生物の生存の為にはなくてはならないものだが、過分になれば、たとえ大切な要素であっても負の要素となる。塩分も酸素も過分になれば、身体に悪影響を与える。そう考えると、お金も親の愛も大切だが、過分になれば負の要素になってしまう。
         
 ザルやコランダーを身体の部分で表現すると、心のフィルターと云える。読んで・見て・聞いて・感じる情報の中には、不必要なものや不健全なもの、悪魔の囁きのようなものまである。それを心のフィルターが取り除く役目を果たさなければならない。このフィルターの精度はとても繊細で、しかもとても重要だ。不必要なものや不健全なもの、悪魔の囁きのようなものを取り除く能力は、自分の未来に大きな影響を与えかねいないからだ。

 心の中で人はとんでもないことを考えてしまう。これが人間の習性だ。夢や妄想、希望や絶望、嫉妬や称讃、好きや嫌いという感情もすべて心の習性だ。この習性を容易にコントロールできる人などこの世に存在しない。このことをまず人は認める必要がある。

 誰かを好きになりすぎたり、その恋が実らなかったり、裏切られた時、憎んだり恨んだりの感情が充満してくる人がいる。何百回もの悪戯電話やストーカー行為はその典型と言える。既に心は平常心を失っており、小さなことまで気になって心の調整力を完全に失い、負の感情だけが暴走しているのだ。心を持たない他の動物は、こんな状態にならない。感情ではなく本能が支配しており、その本能が獲物を追い、自らの身体を守ろうとする。喜びや悲しみの感情がない為に行動は常にシンプルと言える。

 人は歳を重ねると心のフィルターがとても繊細になってくるものだ。涙もろくなるという現象がそれを象徴している。水切りやザルの目が小さくなってしまい、目詰まりをおこしかけていると状態と似ている。感性が豊かになるがゆえの効能とも云える。掃除機のフィルターが目詰まりを起こして、モーターが過熱している状態はとても危険だ。

こんな状態になったとき、人によって行動が違ってくる。
1)耳や目を塞ぎ、心の窓を閉ざしてしまう。
2)人とのつきあいを止めてしまう。
3)愛玩動物や趣味やスポーツに没頭する。
4)旅行に出る。
5)衝動買いをして自分の所有欲を満たす。
6)食べたい物をどんどん食べて食欲を満たす。
7)他人にあたりだす。
8)悪意が充満し妄想の世界が現実感を失わせていく。
9)他人を傷つける。
10)自分を傷つけ、やがて自分を消滅させたくなる。

 心のフィルターの目詰まりが、心の作用をおかしくする。このことを意識しているか、しないでは大きな違いが生まれてくる。幸せになるためにはこの意識が欠かせないと思う。1)~6)は自分の中でこのフィルターの目詰まりを気づいているように思うが、7)~10)の行動を起こしてしまう人は、非常に危険だ。そんな人は意識して水切りやザル、コランダーの目を大きくし風通しのいい心へと変化させる必要がある。以前小泉元総理が、若い真摯な安倍元総理に<鈍感力>の必要性を説いたことがあった。とても的確だと思った。しかし、自分ではもうどうにもならない状態になっており、人の助言に耳を傾ける余裕などない場合が多い。結局は自らを律する清浄作用こそが、自らを守ることになることを知っておいて欲しい、そんな状態になるまえに…。

 過度な神経質的性格は心を蝕み崩壊させていくが、鈍感な性格は周囲からの失笑や蔑みの視線を受けることがある。しかし、自らの心を守ることができる。生き延びるために鈍感力を発揮するべき瞬間があるように思う。生き延びてこそ新たな道が見つかる。

 ギターの弦は張らなければいい音は出ないが、張りすぎると切れてしまう。Aの音叉を使ってギターの調弦を行うが、私はこの静かな行為がとても好きだ。心が落ち着き澄んでくるように感じるからだ。心のフィルターの役目とはこの調弦に似ているような気がする。どんな名曲でも音の合っていない楽器で奏でるのは不可能だ。人には水切りやザル、コランダーの役目をする<心のフィルター>が必要だと思う。そして心を調弦できる自律力を育てるべきだと思う。


「ロマンティストって、どんな人?」

2011年09月15日 | Weblog
「ロマンティストって、どんな人?」

答えはこの名セリフの中にあることを最初に伝えておく。
『人の心はわからない、でも本性は行動に出る』(「バットマン・ビギニング」より)

 実はこの歳になるまで私は自分のことをロマンティストと思いこんでいた。これを覆したのは私の連れ添いだった。昨日ロマンティストの定義についてA4で1ページ位の下書きをしていたが、書いていてイマイチ納得感がなかった。そこで今日連れ添いに尋ねてみた。彼女はしばらく考えてこう答えた。
「海外旅行に行って歴史的建造物を実際に見てみたいとする。だけどテロや治安が気になって行くのをためらうのがリアリストで、それでも見てみたいと行くのがロマンティスト」私はこの言葉を聞いて驚いた。行くのをためらっていたのは自分自身だったからだ。そういえば昔彼女はこんなことを云っていた。「あなたは石橋を叩いてもなかなか渡らないことがある」その時はその内容をロマンティストと結びつけて考えもしなかったが…。

「あなたは自分のことをロマンティストと思っているでしょうけど、違うわよ」と付け加え、こうも云った。
「私のことをリアリストと思っているでしょ。実は私の方がロマンティストかも。私たちの結婚はあなたの両親が私の実家に来て反対されたことから大騒動になったけど、家を出たのは私よ。あなたは自分の親まで反対するような結婚はできないといってたでしょ。もし、あなたがロマンティストなら二人で駆け落ちしてでも一緒になるでしょ。でもそうではなかった。あなたがリアリストである証拠よ。でも私はあなたのそういう現実感を信頼していたのかもね。それに賭けてしまう私の方がずっとロマンティストよ」

 私はあの頃、二人で駆け落ちなど一度も考えたこともなかった。私は両親との絆がとても固く、特に母親は私の想いを全面的に受け止めてくれていた。嫁いでくる彼女を温かく迎える両親、兄夫婦であることを200%信じていた。実際にそうなったが、親元を飛び出してくる彼女を私の家族までもが認めないのでは申し訳ない、可哀想だとも思っていたのだ。

 12年勤めたレストランチェーンのD社を退職して大阪に帰ってきたとき、私は飲食店を開く夢を抱いていた。そして、親父と共に梅田やナンバの不動産屋で、店舗を調べたことがあった。しかし、時代はまだバブル経済の最中だった。私が準備できる資金、父が準備できる資金(兄が商売をしている喫茶店)ではまったく手が届かなかったのだ。もし失敗したら3家族が路頭に迷うことになる。親父も同じ判断だった。その後、中学時代の親友から会社役員待遇でレストラン部門を担当して欲しいという話が舞い込んだ。この話も何度か日記で書いたが、その会社の社長面談で何度も席を立って電話する彼を信頼できなくなったのだ。しかも聞こえてくる話が株の話だった。私は役員や夢であるレストラン経営を断念するに至った。

 私は何度も自分の過去を振り返れと語ってきた。その過去から自分を知ることができると。そんなえらそうなことを云いながら、私自身、自分の本性に気づいていなかった。私はロマンティストではなくリアリストだったのだ。

最初の言葉をもう一度読み直して欲しい。
『人の心はわからない、でも本性は行動に出る』
この意味はきっと理解して貰えたと思う。

               

(おまけ)
風呂から出てきた連れ添いがバスタオル一枚でニコニコしながらやってきた。

「あなた、一目惚れはしないと云っていたでしょ。これ、極めつきかも!」

映画つれづれ草子(5)「ニュー・シネマ・パラダイス」の嘘

2011年09月13日 | Weblog
『嘘には三種類ある。自分を守る嘘、他人を欺く嘘、他人を庇う嘘だ』と云ったのは東野圭吾原作TVドラマ「新参者」の主人公加賀恭一郎です。この中の<他人を欺く嘘>最も印象に残っている映画は、名作「ニュー・シネマ・パラダイス」です。
 若き二人が駆け落ちしようとしますが、無学な映画技師アルフレードはトト(=サルバトーレ)に嘘をついて駆け落ちを阻止し、こんな田舎町を捨て大都会に出て、新しい目標を見つけなさいと諭します。傷ついたサルバトーレはローマで映画人として成功をおさめますが、初恋の彼女を忘れることができませんでした。この切ない想いが映画作りに反映したのは云うまでもありません。
 30年ぶりにサルバトーレは、アルフレードの葬式に出席するため初めて帰郷します。エレナとも30年ぶりに再会します。二人はアルフレードの嘘によって再会できなかった人生を噛みしめます。サルバトーレは「アルフレードのヤツ!」と腹を立てますが、二人の子供を持つエレナは、
「私と一緒になっていたら、あなたは映画作りができなかった」(今の成功はなかったのよ)
「アルフレードはあなたの一番の理解者よ」(憎んじゃだめよ)と伝えます。

 アルフレードはサルバトーレに自分の価値観を押し付け、初恋の成就を阻止しました。彼は恋よりも人生にはもっと大切なものがあると信じていたのです。そして、純粋にアルフレードの幸せを実の親のように願っていました。

 子供を持つ親となった今、私はアルフレードの行為を責めることはでません。サルバトーレから見れば、もしあの時、エレナと出会えていれば、今のように孤独を感じることがなかったかもしれない、と胸を締め付けられる思いだったでしょう。トトと愛称で呼ばれていた若きサルバトーレの価値観と人生の終盤を迎えていたアルフレードの価値観が一致するわけがありません。大人の価値観を子供に押しつけるのは問題ないわけではありませんが、親としては当然の行為だと思います。子供の自立を前にして、親の価値観がどのように影響するか。小学校や中学校の先生の指導が、子供たちの自立にどのように影響するか。大人になってから自分の人生を振り返えったとき、幼き頃の人との出会いが、人生に影響を与えていたと感じる人は、決して少なくないと思います。そう感じる人がこの映画を観たら、とても切なく情感豊かに感じるだろうと思います。時間に余裕がある人には3時間の完全版をお奨めします。

さて、アルフレードのついた嘘を皆様はどう感じますか。

 もしサルバトーレが自立したりっぱな青年なら、彼も嘘などつかなかったと思います。アルフレードは無学のために映画技師にしかなれなかった自分の人生を省みて、少年トトの将来に父親のような気持ちで希望を託したのです。この親心が嘘になって表れ、二人の約束を阻止してしまいます。30年後の再会時、エレナは二人の子供を持つ親となっていました。彼女は若い頃の初恋として、サルバトーレとの想い出は消化できていました。このあたりの展開も自然で、戻せない時の流れを切なく感じさせます。

 アルフレードの<嘘>は、「他人を欺く嘘」ですが、悪意など一片のかけらもなく、純粋で無償の愛が込められていました。無償の愛は、いつまでも輝きを失わない力を持っています。サルバトーレに残された<形見>にも彼の純粋な気持ちが詰まっていました。それは映画への愛、トトへの純粋な愛に他なりませんでした。

 人生には嘘が必要な時が、生じるような気がします。その時、自分の価値観を一方的相手に押しつけるかもしれません。その是非を問われるかもしれません。しかし、無償の愛が込められていれば、相手はいつか理解してもらえるかもしれません。そして、深くて堅固な信念と純粋な愛が必要とします。それを持たないものが、安易に幼きものの判断に任せたり、放任するのは責任から逃避するようなものです。これもまた自己保身の嘘に類するものかもしれません。



「9月最初の休日」

2011年09月11日 | Weblog
 8月が終わり私の仕事も一段落、先日の休みにゴルフと映画を楽しみました。ゴルフの結果は45.46の91でした。当日タイガーズGCでバックを開けると、なんとパターを自宅に忘れてきたことに気づきました。自宅の絨毯でいつも練習しており、当日車の中のバックに入れ忘れていたのです。マスター室で借りましたが、これではゴルフになりません。

 クラブハウスのメンバー表には、ハンデ20の所に私の名前があり、ハンデ1の所にはタイガースの監督、同い年の真弓明信氏の名前が輝いていました。米国の有名なプロゴルファーがこんなことを云っています。「ヘタでも面白いのがセックスとゴルフだ」本当にその通りです。ハンデキャップ20でもいつも面白い。ヘタなショットにもへこたれず楽しめるのがゴルフです。私のような探求者は、ドンドン深みにはまる面白さを秘めています。

 色々なゴルフ教本を読みましたが、人それぞれに体型も体力もクラブも違います。全ての人に当てはまるスイングなど存在しないのです。だったらどうすればいいのか、自分なりのスイングを探求する以外にないのです。私はそう思っています。オリジナルの追求が私の人生スタンスであることは、皆様もよくご存じのことと思います。最近は寄せと呼ばれるアプローチショットでどの教本にも載っていない打ち方を身に付けて、寄せの楽しみを倍増させています。ドライバーも今回も80%好調でした。(これはなかなかないことなのです)
 最近力を入れているのがアイアンです。今回4つあるショートホールの3つをニアピン(同じパーティーの仲間と競い合う)を取りました。好調の証です。ただ、パターは今回は自分のパターではなかったので、日頃の練習の成果が発揮できずとても残念でした。

 仕事でも大切なことはオリジナルを目指すことです。それがアイデンティティーの構築になることを意識して下さい。オリジナルの追求はワクワクさせるものがあります。与えられた仕事でも楽しめるのです。オリジナルの追求は新しい視点にも気づかせてくれます。長時間労働であってもストレスを感じさせないのです。これが周囲をいつのまにか圧倒していくのです。「仕事とはアイデンティティーの構築」だと思って下さい。


 翌日の映画観賞は、連れ添いを誘ってナイトデイト。場所は堺のMOVIX。20:20からのレイトショーで「シャンハイ」を選びました。コン・リーファンには見逃せない映画です。山口百恵を彷彿させる表情には、豊かな母性愛のようなものは感じられませんが、冷たそうなその横顔に、とても強い思い、深い情を感じずにはいられない、これが彼女の魅力です。

 彼女を最初に見つけた映画は「さらば、わが愛/覇王別姫」(はおうべっき) (1993) です(超お奨め必見の映画)。その後では、「活きる」(1994)、「上海ルージュ」(1995)、「花の影 」(1996)、「始皇帝暗殺」(1998)、「SAYURI」(2005)、「マイアミ・バイス」(2006)、「王妃の紋章」(2006)に出演。特に「SAYURI」と「マイアミバイス」の彼女の演技が印象に残っています。

映画「シャンハイ」を一言で表現すると
「男達は与えられた役目をまっとうしようとしながらも、必死に己の女を守ろうとし、
 女達は自らの信念に基づいて命をかけた」となります。


連れ添いは帰宅する車の中で一言「バカなのはいつも男達」と呟き、

私は「女達はいつもそれが分からない」と呟き返しました。



「こんな子供に育って欲しい!」

2011年09月02日 | Weblog
犬やイルカのような高等な動物は飼い主に情を返せても
犬やイルカ同士では情を伝え合うことはできない
人間以外の生物間には感動や共感という心の作用はない

情や絆を伝え合うことは
万物の中で唯一<心>を与えられた人間の特権と云える
この特権を大切にしなければ爬虫類のような生物に堕ちてしまう


幼い時代の共感や沢山の感動が心を豊かにしていく
たとえコンピュータに最新のソフトが入っていても
情報を注入しなければただの箱でしかない

心もまた同様で
言葉や絵や物語や音楽を注入していかなければただの箱になってしまう
感動や共感はその後に生まれる人間特有の素晴らしい心の作用なのだ
それを行うのは周囲の大人たちである


  朝から心のこもった挨拶ができるような子供に育って欲しい

  心の中に一杯の物語が詰まっているような子供に育って欲しい

  音楽を聴いて心を震わせるような子供に育って欲しい

  階段を上る年老いた人に手を差し伸べたくなるような子供に育って欲しい

  アニメや映画の名シーンを見て感動するような子供に育って欲しい

  感動したアニメや映画のセリフや本の文章が心に残るような子供に育って欲しい

  ちっちゃな心に大きな夢や希望が溢れるような子供に育って欲しい

  そして勇気や想像力を活かして伸びやかに生きて行って欲しい

  すべての大人がそんな気持ちで子供たちを愛して欲しい