GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

<負の遺産>

2009年02月08日 | Weblog
『細菌との共生はできないものか?』

 このセリフは映画「感染列島」の中で、主人公に伝えた感染学者の言葉です。エボラ菌もガン細胞も人の体内で増殖し、人体を死に至らしめることで自らの命まで失います。同じような意味で、何の映画か思い出せませんが、ラストシーンに印象に残る話があります。

『川縁にいるサソリが向こう岸に行きたいと思っていた。
 そんな時、カエルがやってきたのを見つけて、
 カエルに負ぶっていってくれないかと頼む。
 カエルは毒バリで刺さないでくれよと言いながら引き受けた。
 川の真ん中まできた時、サソリは刺せばカエルもろとも沈んでしまうことを
 承知しているにも関わらず、サソリの習性でカエルの柔らかい腹を刺してしまい
 二匹とも水没してしまう』

 このサソリの習性を何故か悲しく思ったことを思い出します。映画を見終わったとき、連れ添いにこの話をするとこんなことを言い出しました。
「私は無菌という言葉に駆り立てられる主婦を思い出すわ。無菌、無菌を追いすぎて我が子の自然治癒力まで妨げてしまっている。花粉症やアトピー等の発症が増えているのは、人が持つ自然治癒力を低下させているからじゃないかな?」

 地球という惑星の表面にいつの間にか国家という概念が生まれ、国境が書き込まれました。その国境を広げようと見苦しい戦争を繰り返し、イデオロギーや宗教の発生はその戦争をより複雑なものにしてしまいました。様々な概念によって人々はがんじがらめになり、敵対する相手を打ち負かそうと奔走しています。すべては肌の色や言葉や宗教や国家・集団が決めた主義という概念の戦いでしかありません。

たとえば、生まれた赤ん坊をすべて一緒にして、
マザー・テレサのような方の元で育てたら、どんな子供達に育つでしょうか? 
同じ国の同じ言語を使用する我が日本、小学校や中学校でイジメが生まれてしまう人間の集団とは、どんな性を持って生まれきているのでしょうか? 

それは本当に持って生まれた性(=習性)なのでしょうか?
それとも後天的に学んでしまったものなのでしょうか?
共生など本当に不可能なのでしょうか?
サソリやエボラ菌や癌と同じく持って生まれた習性なのでしょうか?

 国家や宗教も概念なら<共生>もまた概念です。後天的に教え諭して長い時間をかけて学んでいくものです。感動も共感も共生も、楽しみや喜び、悲しみや孤独でさえ、すべて後天的なものだと私は考えています。サソリやエボラ菌や癌が持って生まれた習性ではないと信じています。

 子供達は家庭や幼稚園や学校で文字を学び、挨拶や清掃、整理整頓、尊敬や自由と平等、そして自立に必要なものを学ぶと同時に、一種の自己防衛のために暴力を学び、イタズラや醜いウソや嫉妬を学ぶものではないでしょうか?このように考えると、マザー・テレサのような方の元で一緒に遊び、学ばせたら一体どんな子供達に育つかと思わずにはいられません。

 善と悪の概念は立場を替えたとき、決して単純な善悪では区別がつきにくくなるものです。万民の前で、正義や聖戦と呼べるものなどないのかもしれません。宗教やイデオロギーの為に戦ってきた過去の争いも、資源や国境の争いも結局は個人や集団の欲望に利用されてきたように、理想という崇高な概念も欲望という大海の前では一片の木の葉でしかありません。

 このように考えたとき<欲望>そのものを矯正する以外にないと思えてきたのです。つまり生まれたときから崇高な人の元に子供達を預け、そして聖なる欲望を学ばせたい。後天的に学んでいく、相手を退け奪うだけの邪なる欲望を退き、自らを貶めない聖なる欲望を学ばせたく思います。それは自己を成長させるという欲望です。他人との比較でしか喜びや幸せを感じられない情けない欲望ではなく、自らを高みへと導く清い欲望に目覚めさせたいのです。

 こんなことは現実的に不可能なことだと最初から分かっていますが、もう少し先を考えてみます。生まれてくる親を選べない子供達、貧富差や地域によってあまりに違ってくる環境の違いを子供達に押しつけてしまうのはあまりに不憫でならないのです。離婚間近の夫婦の子として生まれて来たり、生まれた街が戦場であったり、医者のいない村であったり、裕福な家庭や塾や私学に入れるのが当たり前だと思っている家庭など、あまりに違いがありすぎると思えてなりません。

 子供は天からの授かりものと捉え、万人が認める人の元に集めて学ばせる。親と子の絆が薄れて行くなら親子の絆より先に師への尊敬心や友情、そして人類愛を先に芽生えさせるのです。その間にも時々親と過ごす時間を与える。携帯等での直接会話は緊急以外禁止し、手紙での交信を認めます。そうして義務教育を終えた時点で、帰りたい人は親元に帰り、そうしたくない人には自立を促し、就職後返却する学費ローンを組ませ、就職・高校・短大・専門学校を選択させる。幼稚園から中学までは同一校で修学させます。すべての学校の第一目標は<自立と共生>とし、その他の目標は学校に一任します。

 子供時代を平等に健やかに送って欲しいのです。家庭内の不和や戦争や貧困による負の影響をできるだけ取り除きたいのです。こうした環境は無菌主義に陥った親と同じではないかという意見がでるかもしれませんが、人は生まれながらにして平等と多くの偉人達が叫びながらそれを今まで実践できないでいることが残念でならないのです。親は子供を育てるという人生で最大の喜びの一つを捨てなくてはなりません。しかし、家族愛を後回しにすることによって友情や人類愛の大切さを教えることによって、虐めの根本原因の一つである孤独感の払拭、可哀想な被害者の削減・自殺の防止、そして自立への道が明確にならないでしょうか? 

 生まれてからの15年間で共生の大切を学べないでしょうか?親子の絆の大切さは十分承知していますが、それを学べない子供達の負の遺産が心を蝕んでいくのではないでしょうか?

 グローバル化が進む現在の環境の中で、自国を捨てる人達が数多くいます。何年も続いている戦火の中で将来のことなど夢想すらできないでいる人達がいます。貧困や圧政に耐えかねて隣国や国境を越え海を渡ってきた人を温かく迎える国が本当にあるでしょうか?

 貧困や不幸や不平等の中で宗教やイデオロギーと呼ばれる観念が発祥したと私は考えています。そういった環境では人は悪しき欲望に導かれてしまい、道を誤ってしまうと先人達は考えたのかもしれません。

 無人島で一つのおにぎりを前にしたら、人類愛や共生という観念は役に立たないと人は悪しき知識にまみれてしまったのかもしれません。沈没する船に残った浮き輪を前にしたら、我が子にその浮き輪をと思う親で何故悪いと開き直ってはいないでしょうか?

 その開き直りこそ、現代人が陥った巨大なブラックホールなのかもしれません。そして夢多き、感受性豊かな子供達がそのブラックホールにすでに片足を吸い込まれそうになっているのを強く感じています。絶望という名のブラックホールに…。


 映画「感染列島」のセリフからこんな徒然なる想いが沸き上がってきました。人として、親として、子供達の笑顔が絶えない世界を心から望みます。自ら命を絶ってしまうような哀しい性は、細菌やサソリのような下等生物だけのものだと心から信じたい。そして、負の遺産と呼ばれる哀しい反動を少しでも軽減できるように、毎日の生活や社会でのあり方、周囲への接し方を考え直していきたいと思っています。