GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「幕末、開国の祖とは?」

2013年01月10日 | Weblog

長く続いた鎖国からの開国を初めて幕府や世間に建白した人物とは?

高島秋帆がその人ではないか、と私は思っている。

 高島秋帆は幕末の兵学者、砲術者(高島流砲術の創始者)、開国通商派と呼ばれている。1798年、長崎町年寄の3男として生まれ、長崎で育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学んだ。その後、私費で銃器等を揃え1834年高島流砲術を完成させた。1840年、清がイギリスとの戦争であるアヘン戦争に敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『泰西火攻全書』、俗に言う『天保上書』という意見書を提出した。長崎町年寄という町人身分で江戸幕閣の中枢に向かって意見具申をするとはどういうことなのか。ましてや、渡辺崋山や高野長英が、外国の状勢を論じ幕府の攘夷政策を批判して投獄された「蛮社の獄」はその前年(1839年)の出来事である。この国を憂う強い気持ちが、開国の基になったのではあるまいか。

●「蛮社の獄」
 渡辺崋山は『慎機論』を、高野長英は『夢物語』を著して幕政を批判。その趣旨は<モリソン号は日本人の漂流民を伴って来たものであり、これを受け取ることもなく、砲撃して追い払うごときは、仁義に反するものである。このようなことをしては、いたずらに外国の不信を招き、侵略の口実を与えてしまうことになる。それゆえ、ひとまずは入港を許し、漂流民を受け取った後、国法に従って交易に関しては拒否すべきである”
 現代の感覚では至極尤もな考えであるが、当時幕政批判は重罪であり、崋山や長英の論文も思いを同じくする仲間内で回し読みされただけであった。しかし、彼らの著作は意外に反響を呼び、特に『夢物語』は多くの人に読まれたようである。人の口に戸は建てられず、ついには幕府の知るところとなり、崋山や長英は逮捕されてしまった.

 この熱い想いが江川英龍に継がれる。江川家は代々韮山の代官で、1834年父の後を継いだ英龍は支配地の民政に心を砕き、種痘まで行っている。伊豆沿岸の海防を命じられて、高島秋帆に師事する。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方の一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目してパン(堅パン)を焼いた人物でもある。(日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれている)英龍は屋敷近隣の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したとされている。今でも日本中で使われる気を付けや右向け右や回れ右等の掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族の石井修三に頼んで日本語に訳させたものである。

                              

 そして、今年の大河ドラマ「八重の桜」の初回でも顔を見せた佐久間象山に受け継がれる。象山は若い頃、数学に興味を示し、熱心に学んだという。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく役だった。象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、兵学者、朱子学者としての状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍の下で、兵学を学び、1842年に「海防八策」を上書。しかし、温厚で思慮深いと評判の江川は「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法を用いていたため、象山の近代的で、自分が書物から学んだことは、公開を基本とした姿勢と相反するものだった。象山は自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説明した上で断っている。象山の豪放的とも云える性格が弟子であった勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬に影響を与えぬはずはなかった1854年吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。1862年赦免。1864年、幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺された。

               

 象山の弟子だった勝海舟は、自分の妹を象山に嫁がせており、二人の関係は単なる師弟関係を超える絆があったと思われる。勝は16歳で家督を継ぎ、1845年から永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。1953年のペリーが来航して一気に政局が混乱した際、老中首座の阿部正弘は幕府の決断だけで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。この意見書がその後彼の人生を大きく変えることになる。
 阿部正弘は勝の意見書に目を止め、勝は幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得て念願の幕臣となった。1860年には咸臨丸で渡米し、帰国後の1862年、安政の改革時に軍艦奉行並となり、神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張して実現させた。明治維新後は、参議、海軍卿、その後伯爵、枢密顧問官となり政府の日清戦争に終始反対した。幕臣だった勝が明治政府からも信頼され、散っていった大久保や西郷よりも長生きしたことは、彼がリベラルな考えを持った人望厚き人物であったことが伺える。
 勝や象山の弟子で、薩長同盟を考案した坂本龍馬も、勤王や佐幕、敵や味方といった狭い考えに捕らわれない俯瞰的視野を持つリベラルな考えの持ち主だった。土佐の同じ郷土で育った龍馬の遠縁にあたる武知半平太との思想観の違いを思うとき、人が持って生まれた「性格は宿命である」というソクラテスの言葉が脳裏に浮かんでくる。

               

 幕末の開国の祖を求めて語ってきたが、人との出会いによって引き起こる化学反応に大きな感銘を受ける。それは多くの人に影響を与え藩や国だけでなく世界をも動かしていくからだ。しかし、若い頃に勤王というまるで異端な宗教に似た思想にとらわれ散っていった若き獅子たちの命を考えると、たまらなく切なくなるのは私だけではないだろう。

 幕末の開国と攘夷という思想の差はいったい何処から生まれるのだろうか、このことを考えずにはいられない。私は「過ぎた信望は身を誤る」のではないかと結論付けたい。人や思想を神のごとく信望してしまうと自己の判断力が鈍っていくと考えるからだ。しかし、自己を優先しすぎると、聞く耳を持たない異端者となり果てる。これが仏陀や親鸞が押し進めた<中庸>という考え方と似ているのではないか。言い換えれば<リベラル思想>だ。常に平等に耳を傾け、自らの良心(=神)に問いかける自立・自律の精神ではないだろうか。誰かをただ真似たり、ただ信望するのではなく、自分自身を磨くために信望する自己向上的思想である。偶像崇拝を禁じた彼らの思想とも合致しているのではないかと思っている。

 人は誰かに影響されることを嫌う生きものだが、そのくせ指示・命令されることを安易に受けいる生きものでもある。この相反する矛盾に満ちた自信のない弱き生きものこそ、人間の本質ではないか。このことをしっかりと受け止めてさえいれば、軌道修正はいつでも可能だ。そして、いつでも向上のための階段を上がることも可能だと私は信じている。

                          (参考資料:ウィキペディア)