GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「どんな国に住みたい? 高尚なポピュリズムを求めて」

2012年11月30日 | Weblog

 今日の朝日新聞のオピニオン記事で、北海道大准教授の吉田徹氏が、「先進民主主義国の多くは迷った時に立ち返るべき『原点』を持っています。アメリカは憲法、フランスだったら共和制。しかし、日本は、回帰すべき『原点』を持ちません。残念ながら理念で人々を糾合することができない歴史なんです」と語っています。その後、とてもわかりやすくて、共感できる<政治・政治家の定義>を語っていました。

「政治とは本来、短期的で個別的な欲望を、より高尚で普遍的な欲望につなぎ、人々を導いていくもの。政治的リーダーとは人々を導く上質な『物語』を語れる人です」

        

 かつて、政界の風見鶏と云われた中曽根元首相、その後、聞きなれないポピュリズム(大衆迎合・衆愚政治)の言葉を生じさせた小泉元首相。ポピュリズムの語源は『ピープル』と同じでラテン語の『ポプルス(人々)』。であるなら「人々=衆愚」と云っていることになる。かつて土井たか子女史率いる社会党が「消費税反対」を掲げて大躍進した過去があるように、確かに民衆や民意は<衆愚>と思えるふしがある。しかし、フランスの共和制樹立やアメリカの建国歴史はポピュリズムが集結した結果ではないか。日本の歴史を振り返ると、自由民権運動が燃え上がった時期や地域が、長くも広くも深耕しなかったことが残念だったと云うほかない。

 板垣退助の征韓論から始まった自由民権運動は、<士族民権>の色合いが強く、その後<豪農民権>へと以降しましたが、大衆迎合や大きな民意に至らず明治政府は1880年(明治13年)の集会条例等で言論を弾圧しました。鎌倉幕府以来、武士による政権が続き、江戸幕府を倒した明治政府以降、昭和初期・敗戦に至るまで軍事政権が続きます。

 司馬遼太郎氏は、軍事官僚が「魔法の杖を持っていた」と方々で書いていますが、その魔法の杖とは「統帥権」というものです。「統帥権」を定義した書『統帥網領・統帥参考』は昭和3年に、『統帥参考』は昭和7年に書かれました。当時、この本を読めるのは「陸軍大学校出身者」という超エリートだけでしたが、その後、「陸軍参謀本部」と「海軍軍令部」の統帥部に受け継がれ、絶大な権力(つまり魔法の杖)を持つことになっていきました。そして、日本を陸軍、海軍共だけの国のように扱っていくことになります。結果的に国家予算の半分以上も軍事予算で食いつぶすことになります。明治以来大変な「官僚国家」となりますが、昭和に入って「軍事官僚国家」へと変身を遂げるのです。日本が官僚国家と云われるのは、こう云った推移があるからです。

        

 話を戻しますが、「ポピュリズムは本当に衆愚政治か否か?」この問題は土井たか子氏が掲げた「消費税反対」の議論から始めなくてはならないような気がしてなりません。私は、この時期の増税にはどうしても賛成できないでいます。いまだに<消費税は天下の悪法>と唱える学者も存在するのです。小泉元首相は「郵政民営化の賛否」を掲げて非常にわかりやすい選挙を行い<ポピュリズム>を上手く利用して大勝利しましたが、その後民衆は知恵をつけました。かつては二大政党推進論者であった私ですが、今では連立政権こそが民主主義国家の取るべき道ではないかと考えを新たにするようになりました。政治的停滞を生む可能性が高いですが、その分各論(原発・TPP・憲法改正・消費費増税・道州制etc.)での討議<ディベート>が盛んになるように思っています。これこそが、民主主義ではないでしょうか。決して政治好きな人々だけでなく、より多くの人々にその<ディベート>に参加できるシステムの構築を望んでいます。

 昨夜10党首による激論が行われましたが、決して1回で終わるのではなく、12月16日までに出揃った公約を掲げての激論会をあと数回は開催して欲しいと思います。そして、各党の党首たちの生の声と表情をじっくり視聴し、自分なりのスタンスを定め、より多くの有権者が一票の重みを感じながら、16日投票所に向かってくれることを願います。今回のニコニコ動画によるネット配信は、私的にはワクワクするような画期的な出来事だと思っています。

●討論会の全文:http://news.nicovideo.jp/watch/nw445357

●討論会のVTR:http://ch.nicovideo.jp/channel/sousenkyo (無料登録後、いつでも視聴可能)

 

<11月30日の第2回目の党首討論会を視聴して>

新聞に書かれた所信ではなく、本人の熱い生声と表情、書面には書くことができないわずかな間等がとても身近に感じられました。かつて私が属したIYグループの幹部全体会議は、年間10億をかけてマネージャーと呼ばれる人を毎週東京の森ビルに集め、、実際に有効で成果があった業務改革を報告し、リーダーが自らの言葉で、その業務改革をフォローし目的を繰り返し徹底してきました。それは書面や電話でのコミュニケーションでは、真意が伝わらないという理由からでした。第2回目の党首討論会の生放映を視聴して、あの全体会議のように党首たちのスタンスや考え方、想いがより鮮明に伝わってきました。(あの討論会会場に行くことができれば、もっと良かったのですが)投票日の16日にはまだ2週間以上あります。地域での選挙も当然大切でしょうが、更なる討論会を開催し、より踏み込んだ激論を交わし、より多くの国民に自らを示して欲しいと思っています。

     

●30日党首討論会:http://www.nicovideo.jp/watch/sm19471996 


名門「よみうりゴルフ・ウエストコース」

2012年11月28日 | Weblog

 20年以上前に一度親父が元気な頃、商店街コンペでラウンドしたことがある。その時は本コースで中嶋常幸が優勝し、私もまた商店街コンペで優勝した。しかし、今回2度目のラウンドだが、プレーした事やコース、風景などまったく記憶に残っていなかった。だからまったく初ラウンドのような感じがした。

 

   

   


 8:15 INスタート。まだグリーンは霜があって白く輝いていた。少し前にラウンドしたゴールデン・バレーGCと比べると紅葉も盛りを過ぎたようだったが、それでも周囲の木々やグリーンはとても整備されていて、さすがに関西の名門の一つと言われているのがわかるような気がした。セルフプレーで10,500円。昼食は別料金だった。(やはり少し高い)

    

  グリーンはまだ白く霜が張っていた。風は少なかったが肌寒いスタートだった。

    

 紅葉の美しい木々がまだ何本も残っていた。眩しいくらいの<赤>だった。

   

 コースの特徴は砲台グリーン、打ち下ろしが多く、2打目がすべて打ち上げ。打ち下ろしで230Y飛んだとしても残りが150Yの登りが残るホールが数多く、高い170Y、180Yを打たなければ乗らないので、かなり苦戦した。ショートホールも転がってラッキーで乗るようなところは一つもなく、160Y以下もなかった。このようなコースはあまり経験がなく、前半(OUT)は50を叩く。しかし、後半(IN)は4つのパーを取り、3つのボギ-で凌いでいたが、最後のロングホールで5オン3パットで8を叩き2回目の40切りが消えてしまった。最終ホールもボギーでハーフ43。グロスで93だった。

 非常に残念な思いだったが、ドライバーが最近の中では一番当たった。日頃の練習の成果が十分発揮できた。「練習はウソをつかない」と改めて思いを深めたラウンドだった。前回の非常に難しいと言われているゴールデン・バレーGCも今日と同じ93。今年の秋は1ランクアップしたことを確信できた季節となった。 

      


「一対一の党首ディベートが実現!」

2012年11月25日 | Weblog

 今朝の朝日新聞に、野田首相と安倍自民党総裁の党首討論が実現するという記事が書かれていた。安倍氏は「一対一で受ける」とのこと。当初は「民主の手には乗らない」と避けていたが、公明党の山口代表に連絡し、了承を得たという。
 アメリカではこのような討論会(ディベート)が何度も行われているが、日本では開催されてもすべての党首を招いてのディスカッション的なものでしかない。しかも1回こっきりが関の山。せめて投票日の数日前までに、2回以上は開催して有権者に自らの意見やスタンスを熱く語って欲しいと思っています。また、政治家は言葉が持つ責任と重要性をもっと学び磨いて欲しいと以前から願っていました。(今回の米国大統領戦では4回のテレビディベートが行われた)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1210/02/news051.html

http://obamausp44.blog5.fc2.com/blog-entry-205.html

●ディベート(debate)とは、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論すること。討論(会)とも呼ばれている。ディベートは、厳密にはディスカッションや単なる議論とは異なるものであるが、一般にはこれらの区別なく「ディベート」ないし「討論」と呼ばれることが多い。(ウィキペデアより)

 デンゼル・ワシントンが監督(2作品目)・脚本・主演を務めた映画「グレート・ディベーター 栄光の教室」(2007)がある。1930年代にハーバートで開催された全米討論選手権で優勝したワイリー大学の実話をもとに映画化したドラマだ。

 1935年、人種差別が根強く残るテキサス州マーシャルのワイリー大学で働く黒人教師トルソンは、歪んだ社会を正すのは教育だけと信じ、ディベートクラスを立ちあげる。トルソンの指導のもと、討論大会に向けて特訓を開始する生徒たちの奮闘を描いている。

       

 

参考:特定非営利活動法人全国教室ディベート連盟は、読売新聞社と共催で「全国中学・高校ディベート選手権」(略称;ディベート甲子園)を開催しています。

 http://nade.jp/koshien/


「それぞれの映画に君がいる」

2012年11月21日 | Weblog

君たちに恋したそれぞれの季節がある
それぞれの季節にそれぞれの君たちがいる
あのときどきの僕は幼過ぎて
どの君にも心の内を伝えられなかった
その悔いが今も心の隅に残っている
恋は感じるものであって
恋について考えるなんて一度も試みたことはなかったよ
だから気持ちを伝えるなんて不可能だったんだ
あの頃の僕は自分の本心さえもわからなかった…

悔いのない人生なんかに意味なんてない
悔いがあるから人生は素晴らしいのかもしれない
「もう一度やり直したい」
そんな気持ちが心のどこかでくすぶっている
だから人生は切なく思えるのかもしれないね

 

「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーン
サルバトーレが映画技師のアルフレードから受け取った形見の品は
検閲のために彼が不本意にもカットし続けた
キスシーンをつないだフィルムだった

         

それは彼の映画への溢れるような愛情であり
トトと呼ばれていた幼い頃のサルバトーレの
映画への純粋な愛情も一杯詰まっていた
「できることならもう一度 トトの頃に戻りたい」
サルバトーレはそう想ったに違いない…

      

 

君と初めて難波の映画館で観た映画は「小さな恋のメロディ」
トレーシーの笑顔は 君が春にくれた永遠のプレゼントのようだった
君は「スチューワーデスになる」と語ってくれたね
僕はその時語った夢を果たせなかったけれど
君は本当に国際線に乗って 幾つもの国のお土産を僕にくれたね

       

僕んちのハッピーを連れて住吉公園に散歩に連れて行ったこともあったね
そしてパッピーが何回オシッコをするか
二人で数えたのを君は覚えているかい
ある夏の日 僕が住吉大社で捕ってきた蝉を
自慢げに糸を垂らして放し飼いにしていたら
遊びに来た君がそれを見つけて恐い顔で叫んだんだ
「ユーちゃん 蝉の一生が何日か知っているの! たった一週間よ!」
あの夏以来 僕は二度と蝉捕りには行かなくなってしまった
君は知っているかい

 

あの日の君はとても美しかったよ
梅田で「チップス先生さようなら」を観たあと
映画館を出ると雪が降っていた

      

君は差していた傘を閉じて僕の傘に入ってきたね
僕はそれだけで十分幸せだった
僕は自分の気持ちを伝える言葉を見つけられなかったんだ
黙っていて本当にゴメン
でも傘の中の君の横顔は 最高に美しかったよ

 

お互いに何度も試写会の応募ハガキを出して 当たったら二人で行ったよね
ある時は一人しか入れないのをわかっていて
当日御堂筋にある会場まで行って係の人に必死で頼んで 
ようやく入れてもらったこともあったね
君の家から自転車で二人乗りして僕の家まで来たのを覚えているかい

       

『明日に向かって撃て!』のポール・ニューマンと
キャサリン・ロスみたいだねと囁いたら
後ろの君は「うん」と云ってくれたね
その時、ブッチが呟いた言葉も覚えているかい
「自転車に誘ったのはプロポーズと同じだ」

     

そして母が作ったカレーを一緒に食べたね
二人ともヘタなのに住吉公園でテニスをして
ヘトヘトになったこともあったね
高校生だったのに僕は君の手も握れなかった
そんな意気地なしの僕を 君はどんなふうに想っていたのだろう
今でも一度聞いてみたい気がする

 

君を誘って新宿で観た最初の映画は「アニー・ホ-ル」だった
ダイアン・キートンのマニッシュスタイル 
「とても可愛いい」って映画を観たあと 何度も呟いたのに
君は一度もそんなファッションで自らを飾ったことはなかったね

      

でも「ゴッドファーザー」がとてもいい映画だと 僕が熱心に語ったから
その後君は一人であの映画を観に行ったんだね 
二回目のデートで君は僕の部屋に食事を作りに来てくれた
そして その時僕は君を抱いてしまった
でもそれは君が誘ったからだと今でも信じている
僕が知り合った女性の中で君が一番素直で純粋で一緒にいて楽しかった
でもファッションだけは僕にはどうにもならなかったよ
君の一番素敵なところは君の勇気だと思っている
君はそれを僕にちゃんと示してくれた 
本当にありがとう 心から感謝している

 

それぞれの恋が僕を大きくしてくれた
そして 君たちがいて今の僕がいる
今頃になってあの頃の本心が分かるって云ったらおかしいかな
でもそれぞれの笑顔が僕にパワーをくれたんだ
それだけはあの頃も今もはっきり云える
だからそれぞれの恋に感謝する気持ちは 
永遠に消え去ることはないんだ

人は一生のうちでいくつかの恋をする
しかし成就する恋なんてほとんどない
本心をうまく伝えるなんて ホントは不可能なのかもしれないね
僕は今でもやっかいなことだと思っている

サマセット・モームはうまい言葉を残している
『もっとも永くつづく愛は、報われぬ愛である』

だから今もそれぞれの恋が 今も僕の心の中で輝いている

こんな言葉も残している
『愛とは、お互いに相手を知らない男女の間に発生するものである』

だから人生はやっかいで しかも誤解の連続で 腹立たしく
でも おかしくて 素敵で 価値があるから 切ないんだろうね

      

 


「シンタロー刈り」とDVD「PPM Holiday Concert」

2012年11月19日 | Weblog

 今日の昼、いつもの散髪屋さんに出かけると閉まっていたのでしかたなく、ダラダラドライブしながら、散髪屋を探してなんと堺東駅方面まで足を伸ばしました。堺東駅前の商店街入口に、どこでも見かける赤と青のサイン看板を発見。一般の駐車場に車を止めて、その散髪屋に入りました。10台以上のチェアーが並んでいる綺麗な散髪屋さんでした。そして、カットしてくれる担当者(店長でした)に35年以上我慢していたカット名を口にしました。

「シンタロー刈りにして下さい!」

 大学を卒業しサービス産業に就職したので、「七三・刈り上げ」スタイルから抜け出すことができなくていたのです。シンタロー刈りというのは、スポーツ刈りの前髪を短く刈りそろえないで額に垂らしておく髪形。太陽族の間に流行しました。石原慎太郎から名付けられたスタイルです。(私は前髪を上げてもらいましたが…) 幼い子供達に今でも時々見る髪型なのですが、その髪型を見るたびに、「やりたいなあ」と思っていたのです。また、私自身が白髪頭のオッサンにサービスされたくないという気持ちがあったので、白髪が目立ちだした頃から染め始めたのですが、これも「シンタロー刈り」を機会にやめちゃうつもりです。これからはこのスポーツ刈りスタイルで生涯を通そうと思っています。

               

 散髪屋さんを出て初めての商店街、親友の拓くんが時々徘徊しているという堺東商店街をうろつくことにしました。美容室が目立ち、お昼だったせいか、ファーストフードや飲食店に人が集まっていました。しかし、奧の方は何店か空き店舗があり少し寂しい気もしました。商店街はどことも同じような傾向にあります。この流れを止めるには大きな尽力と新たな発想を必要とします。

 あるCD販売店(昔のレコード店)の前で足が止まり、店頭で音楽DVDを発見。パラパラと何を探すでもなく見ていると、なんと韓国版の「Pe­ter、Paul & Mary Holiday Concert with the New York choral society & orchestra」を見つけ、クリスマス前ということもあり、即座に買っちゃいました。980円なり!駐車場の車の中で、さっそく包装紙からDVDを取り出し、帰宅途中の運転中にも関わらずDVD鑑賞、いや聴き始めました。

               

 最初の挨拶を韓国語の字幕で紹介されますが、字幕がでるのは最初だけです。3人のソロが終わって大好きな「A.Soalin」が始まりました。マリーさんの太り具合からして、日本に来た時期のコンサートのようです。厚生年金ホール(?)で行われた最後のコンサートに幼い息子も「一緒に行きたい!」というので二人で行った思い出があります。公演ギリギリにチケットを買ったので2階席しか残っていませんでした。このDVDは15年から20年前のクリスマスコンサート録画のようです。

●「A Soalin」(youtubeへ)

 「Childern Go Where I Send Thee」これは圧巻でした!総勢で100名超える混声合唱団がPPMの左右のひな壇に別れ、PPMと掛け合いの大コーラスで歌うのです。本当に迫力ある素晴らしいステージでした。こんな画像を見たのは初めてだったので、自宅の駐車場に着いているにも関わらず、この曲が終わるまで、車から出られませんでした。コンサートで演奏した中で、最も熱心に練習をしたのではないかな、そう思わせる最高のステージでした。

●「Childern Go Where I Send Thee」(youtubeへ)

 

 自宅に帰って連れ添いと一緒に最初からじっくり聞きました。子供達と歌う楽しい歌「Puff」やコンサートでは必ず歌われる「Blowin' in the Wind」。この曲を泣きながら歌っている年配者も見かけました。私も思わず、ジンとしてきました。

 数十年前、今宮高校の階段や教室、部室でPPMの曲を練習した日々のことを思い出します。私たちのフォークソングクラブを創設した初代のK部長(今もお世話になっています)に、直々にPPMの「All MY Trails」(私の試練)という曲をアレンジして指導していただきました。この曲で朝日放送ラジオに出演したので、今も忘れられない曲です。他に練習したのは「Morning Train」「Very Last Day」です。今もどの曲も懐かしく、ギターを持つと思わず、口ずさんでしまいます。 

     草の輝くとき

     花美しく咲くとき

     再び戻らずども嘆くなかれ

     その奥に秘めたりし 力を見いだすべし


「私はリベラル派です!」

2012年11月17日 | Weblog

 私の思想志向を分析するとリベラル派です。liberty(自由) の形容詞形である liberal は、「(何かに)束縛されない自由がある」という意味合いがあります。政治家の中でも、古くからのしきたりや制度・法律から離れられない「保守派」(conservative)に対して、時代の変化に応じて制度や法律を適宜見直す方針の人を「リベラル」と呼びます。私の好きなクリントン女史もリベラル派です。

        

 ヒラリー・クリントン女史(女史:最近女性特有の敬称というのは現代の公的な文書ではなるべく避けられる傾向にありますが)は、早くから政治に興味を持ち、高校時代、若き共和党員として活動、1964年(19歳)の大統領選では共和党のゴールドウォーターガールを務め、1965年にマサチューセッツ州の名門女子大であるウェルズリー大学に入学。1年生の時、学内青年共和党の党首に選ばれるが、ベトナム戦争や公民権に関する共和党の政策に疑問を持ち始め、その後辞任。1968年の大統領予備選では、ベトナム戦争介入反対を掲げる民主党のユージーン・マッカーシー候補を支持した。その一方で、同年の夏には首都ワシントンの下院共和党議員総会でインターンを経験、共和党党大会ではニューヨーク州知事ネルソン・ロックフェラーのために働いた。ウェルズリー校を優秀な成績で卒業し、同大学初の卒業生総代としてスピーチも行っている。1969年、ヒラリーはイェール・ロー・スクールに進み、そこでビル・クリントンに出会う。繊維業界の大物だった厳格な父に育てられて、かつては共和党員であったクリントン女史。自らの思想を行動して示してきた学生時代。弁護士となって民主党支持を明確にし、ビルと共にジミー・カーター民主党候補の選挙戦に参加する。弁護士としての活動も続け、アーカンソー州(知事はビル・クリントン)における質の高いヘルスケアの普及を目的とした地方健康諮問委員会の議長や教育制度改革を目的とした教育水準委員会の議長も務めた。ヒラリーは従来民主党の中でもリベラルな立場をとっており、そのため主に女性層や都市部の非白人層から強い支持を得ていた。アメリカで常に論争となる人工妊娠中絶についても女性の権利としてこれを支持している。今年65歳になるクリントン女史、彼女の生き様に私は強く共感し、好感を持っています。

          

「自分なりに思考して行動すること。 
 行動しない限り、失敗から得られる知恵もなければ 、
 成功して得られる自信も掴めない」

 これは私の信念のです。傍観し続けるのは、常に安全かもしれないけれど、たとえわずかでも身銭を切って信ずる株式を買うことで、市場経済に今まで以上に関心が持てるようになります。主義、思想も同じです。自らを認めることで見えてくるものがあります。

 リベラル派の私は今朝の新聞記事で、欧州で盛んに議論されているという「リベラルナショナルリズム」という新しい思想に敏感に反応することができました。同じ国民が苦しんでいたら、相互扶助で助けるという連帯機能をつかってリベラルなナショナリズムの可能性を追求しようという思想です。私はこの思想に大いに共感を持ちました。


「ついに解散・総選挙!」

2012年11月16日 | Weblog

 ついに解散・総選挙に踏み切った野田首相。事前に伝えられていたのは岡田副総理や藤村官房長官らごくわずか。民意だけでなく、党内の求心力さえ失っていた野田首相が、特例公債法成立と議員定数及び議員歳費削減を安部氏が率いる自民党に飲ませた首相としての手腕は、私的には大いに評価したい。しかし、民主党党首として求心力を失っているだけに議員の離党数を増大させるに違いない。長きに渡った自民党政権が残してきた負の遺産に対して、仕分け作業による放漫財政の削減に着手したことは評価できる。しかし、強大な軍事力を築き上げてきた中国は、尖閣諸島問題を片手にかざして、連携してアジアのリーダーになろうとした野田政権の横面を張った。                              

 ここに来て野田政権への不安材料だった外交問題がいっきに吹き出し、以前から米国や中国、韓国、北朝鮮にはっきりとした態度を示してきた石原氏や橋下氏率いる維新の党、彼らに接近しようとする安倍氏が浮上してきたように感じる。そして「野田さん、これからのステージでは、<力不足>ですよ」という世論を感じずにはいられない。野田首相は決して政権維持を諦めていないだろうが、万が一、下野することになっても、首相として最後のけじめを付けるべく、14日の党首討論会で解散・総選挙を表明したのではないか。

          

 同時多発テロ以来、米国が中東や中央アジアに気を取られているうちに、中国は膨大な人口を背景に世界の工場という地位を確立してきた。そして、米国のアジア太平洋地域との絆は中国に圧倒され続けてきた。2011年秋、オバマ政権が打ち出した『アジア回帰』政策は、このようなパワーバランスの是正を図るものだ。米国の国債を大量に持つ中国が、空母や他の軍事力強化による従来の戦略を推し進める先には、最強国への優位性を獲得するスタンスは明確に見える。

 今日の朝日新聞朝刊のオピニオンのページに、チェ・ガン韓国国立外交院企画部長のインタビュー記事が掲載されていたが、非常に興味深い内容だった。

-米国は地域の最強国としての優位を諦め、中国と主導権を共有するべきだという「パワーシフト」論も専門家の間では聞かれます。
 チェ・ガン「それがもし可能ならもっとも望ましい枠組みだ。しかし、問題はまず、米中両国が主導権を共有したいと思うかだ。次に『パワー』をどう定義するかだ。米国はかなり広い意味でとらえているのに対し、中国は軍事力に重点をおいた伝統的な思考をして、軍事力で米国に追いつこうとしている。最終的にどのような地域秩序を作るか、両国の考えが一致しない限り、パワーシェアは機能しない」

-習近平政権に移行すれば米国との距離は縮まるのでしょうか? 
 「それは期待できない。むしろ次期政権はナショナリズムをさらに強調するだろう。これは中国だけに限ったことではない。地域各国はどこも経済の低迷と政治不安定に苦しんでいる。したがってどの国も通商、安全保障両面で『守り』の姿勢を強めることになる。さらに、国内をまとめるためにはスケープゴートも必要とする」

-日本ですか?
 「個人的には見たくはないが(中国では)そういう状況が生まれる可能性は高いと思う」

 このくだりはとても恐ろしく感じる。中国では尖閣諸島問題を掲げて排日運動が繰り広げられている。以前にもこのブログで書いたが、民主化の流れや役人の腐敗に対する暴動をせき止めるために、裏でナショナリズムを何度も煽ってきた中国政権。この20年間で世界の工場となるために日本の最新技術を存分に吸収してきた中国。「今までの密月はそろそろ終わりにしたい。お前達も十分儲けただろ。もうへりくだるのはやめにしたいんだ」最近の中国の姿勢を見ていて、私はそう感じていた。

 チェ・ガン氏の言葉は、それを裏付けているような気がしてならない。日本の経営者は決して無能ではない。すでにベトナムやタイやその他の周辺諸国への工場移転を図っている。しかし、これには時間とコストがかかり、遠くなる分、輸送コストもアップするに違いない。

 中国と米国の相互不信はこれからも長引くと予想され、日本丸の舵取りには、かつてない荒波が待ち受けている。早々に国内の政治不信を払拭し、外交、経済問題、年金問題解決に全力で対処して行って欲しいと願っている。そのために今回の総選挙は非常に重要な選挙だ。今後発表される各党のマニフェストを十分考慮し、誰に投票するかじっくり考えたいと思っている。そして、一人でも多くの有権者が投票所に行って欲しいと願っている。


「日本で一番難しいゴルフ場は、最高に美しかった!」

2012年11月14日 | Weblog

     

 今日のコンペの会場は、日本で一番コースレートが高いゴルフ場、ゴールデンバレーゴルフ倶楽部。確かに池やクリーク、待ち受けているバンカーなど ティーグラウンドに立つゴルファーを萎縮させるものがありました。しかし、今まで数多くのコースでプレーしてきた中で一番美しいゴルフ場でした。行ったことはありませんが、まるでカナダのゴルフ場でラウンドしているような気分になってしまいました。

    

 少し前の私はいつでも果敢に挑んでは撃墜されていましたが、 ティーグラウンドに立ったとき、あまりの美しさに目を奪われて、 萎縮どころかゴルフをしに来たはずなのに<紅葉狩り>気分になってしまいました。

    

 同じ組で回ったハンデ12の方が果敢に攻めようとして撃退され、 ことごとく裏目に出るのを間近に見たので、かえって冷静になりました。 まさしく反面教師でした。結果を見て驚いたのですが、このゴルフ場をホームコースにしているシングルさん(69歳)が103も叩いていたのです。本当に怖いコースです。

    

 今日は<安全に安全に>行くことを決め、 攻めるときを限定しました。失敗してもクヨクヨせずプレーできました。 攻めた4回の結果は、1回はクリークへ、1回は池に入れてしまいましたが、 後の2回は成功しました。

     

 こんなに<清々しく>感じたのは初めてのことでした。 ゴルフの結果は48.45の93、最高難度のコースでは上出来でした。しかし、そんなことよりも新しい仲間と、最高のゴルフ場で清々しいプレーを満喫でき、30年 ゴルフをやってきて本当に良かったと心から思いました。

   

   

●コンペ結果(新ペリア方式):15位(飛び賞賞金3,000円)、グロス8位。

http://www.gvgc.jp/special.html

http://www.gvgc.jp


「堺CC、11月の月例(Bクラス)で3位入賞!」

2012年11月13日 | Weblog

夕方、堺CCからハガキや送付されてきました。
11日に開かれたBクラスの月例で43.45の88の好結果で3位に入賞しました。

雨の日で周囲の人が嫌がる環境の時、よくいいスコアがでます。
何故なのか考えたこともありませんでしたが、今回初めて自分なりに分析しました。
どうやら無茶振り(強く振らない)しないことが要因だと初めて感じました。
あと少しパットが入っていれば優勝だったと後で知ると、
今まで以上にパット技術の向上意欲が高まってきました。

最初はドライバー、次はアイアン、そして90の大きな壁が寄せ技術の向上です。
そして、最後はパットという順序。
でもパットで終了ではなく、それぞれのクラブの向上には切りがなく、
しかも体力は落ち続けるので、今までのスイングとの折り合いも必要になってきます。

「80歳までゴルフをやり続ける」これが一番の目標です。
息子の30歳の誕生日に送られてきた入賞ハガキ、何だかとてもうれしく思っています。

     

明日は日本で最も難しいゴルフ場(コースレイト:77.4)、
ゴールデンバレーGCでのコンペ(20名)に参加します。
スミノエゴルフで知り合ったシングルさん達の多いゴルフグループ(フレンド会)に
仲間入りさせて戴いたのです。
この3ヶ月間、寄せ技術の向上やスイング修正のコーチもして戴き本当にうれしく思っています。
定年退職して新しい友人がこんなに沢山できるなんて、想像もしていませんでした。

明日も飛距離を考えず、無茶振りせず、距離感を最優先したパッティングで
シングルさん達のゴルフスタンスをじっくり拝見しようと思っています。
先日の月例より、緊張しそうな気がしています。
早く寝なくちゃいけない……。

     


「イノベーションこそ日本人の生きる道」

2012年11月11日 | Weblog

 昨日、息子の部屋をわが書斎兼ベッドルームにするためにシングルのフトン一式を購入した。ついでに<ニトリ>でこの「オルガヘサキネックバンド」を799円で購入した。(本物は4,200円)今日のゴルフのラウンドで使用したが、非常に暖かく気に入った。本物を使用したわけではないが十分使える。日本人のこの技術は、最初繊維製品で欧米を席巻し、家電や自動車、時計などの精密機械で世界シェアを獲得していった。

         

 以前魔法瓶の話を書いたが、魔法びんの歴史は、1892年に英国の科学者ジェームス・デュワーが二重のガラスびんの壁内空間を真空にする方法を発明したことから始まった。これを「魔法びん」として世に送り出したのはドイツ人のガラス職人ラインホルト・ブルガー。イギリスの学者が発明し、ドイツの職人が商品化したのだ。彼は1904年にベルリンに「テルモス有限会社」を設立し、1907年には英国、米国、カナダで次々に「サーモス社」が設立した。しばらくドイツのイノベーション時代が続く。そして1978年、わが国の日本酸素が、世界初「高真空断熱ステンレス魔法びん」を発売し、10年後の1988年、世界初のチタン製魔法びんを発売し、こわれやすいガラス製の魔法びんに対して圧倒的なアドバンテージを獲得したのです。その結果、1989年には英国、米国、カナダのサーモス各社をすべて傘下におさめて、THERMOS(親会社、太陽日酸㈱)が世界最大の魔法びんメーカーとなった。トップであり続けるには更なるイノベーションが必要であることは言うまでもない。物作りの<イノベーション>こそ、日本人の生きる道だと 確信している。


●植物由来炭素繊維「オルガヘキサ」3つの力
1.温める力
体を密着させたときの体温を利用して、より波長の長い遠赤外線の力で体を芯から温めます。
2.吸着する力
目に見えない膨大な孔が、ニオイや湿気だけでなく有害物質を吸着するため、水や空気をきれいにします。
3.抗菌・殺菌力
オルガヘキサの抗菌・殺菌の力は、学会でも発表されています。この力が水ムシなどに働きかけます。

PS:暖かいオルガヘキサネックバンドのおかげで、ゴルフで88という好スコアが出た。そして、月例の上位入賞を確実にした。


「旅立ちの日、Good Luck!」

2012年11月10日 | Weblog

           

 朝、目を覚ますと、こみ上げるものがあってベッドを出た。30歳まで後4日の息子の遅い独り立ち。親としてドキドキワクワクの気持ちが高まってきたのだ。息子と私を客観的に見れば、子離れ・親離れできていないのは、間違いなく私が子離れしていない方に違いない。連れ添いは洗濯中だったので、連れ添いの分までブランチを作り、オレンジジュースとキリマンジャロを入れた。サラダにドレッシングの替わりに好きなヨーグルトをたっぷりかけてみた。初めての試みだったが、食べてみて結構気に入った。食後ダンボールにアニメの『モンスター』と私の大切な本を詰め込んだ。黒澤明監督の「赤ひげ」、ケヴィン・コスナー監督の西部劇「最後の銃撃 ワイルド・レンジ」、彼の原点である「風の谷のナウシカ」「天空の城 ラピュタ」「となりのトトロ」の4本のDVDも入れた。半年をかけて準備してきたものだ。 

                           

 私は東京に出て<アウトロー>になったと思う。生まれて初めて買う車を、自分で探さないで中古屋の主に20万先渡しして任せるようなアウトローがいるだろうか。 免許を取得して1ヶ月で8tトラックで運送する仕事を選ぶ危ないアウトローがいるだろうか?就職してその会社が将来どうなるか分かりもしないで自社の株を購入し、しかも新入社員に熱を込めて私と同じように持ち株会に入会を勧めるようなアウトローがいるだろうか?息子にもアウトローになって欲しいと願う。試みようともしないで後悔する人生を送って欲しくないからだ。振り返れば人生は非常に短いと感じる。つまり実践できる期間が短いと云う事だ。仕事でも私生活でも変わらない。

 息子は非常に保守的だ。危険なことに一切手を出さない。異性にコクルなどまだ一度もないだろう。受け入れられなかったらと考えてしまうのだろう。この気持ち、私にはよく分かる。実は東京に行くまでの自分がそうだったからだ。コクッたことなど一度もなかったのだ。だから勇気がなかった中学・高校時代の自分を好きではない。あの頃の自分に戻りたいとは思わない。

 大学に受かり東京で新しい自分を作り上げるんだと新幹線の中で自分に誓ったことをよく覚えている。頭の中には読みあさった本や映画の登場人物の行動が一杯詰まっていた。だから新しい自分を作る行動や思考性はふんだんに持っていた。後は実行に移すだけだった。引っ込み思案だった私はどうしても新たな一歩を欲していたのだ。まさに『青春の門』(筑豊編)の信介、映画『長く熱い夜』のポール・ニューマンが演じた主人公ベンの心境だった。

    

     

 本も映画も数多く知らないゲームオタクの息子に、新たな一歩を踏み出せるだろうか?自分が未完成だという意識を持っているのだろうか?30歳の息子から子離れできないのはこんなことを考えてしまう自分がいるからだ。彼がまだ幼い頃、<勇気>が足りないと話したことがある。人生には<勇気>がとても大切だと思っているからだ。

「旅たちの日」は誰もが経験する。20歳前のこともあれば、30歳前や、40歳前のこともあるだろう。たとえいつであっても忘れがたいものだと私は思う。熱い心構えがあればあるほど、その日の輝きは幾つになっても輝きを失わない。私は今年の3月末に定年退職したが、4月に息子が望む会社に就職を果たした。そして、今日、奈良県の会社寮に旅立つ日に立ち会えることができた。もし、仕事を辞めていなかったら昨日や今日のような重厚な時間を過ごせなかったに違いない。親は子供に愛を伝えなくてはならない。それが親の責務だ。11月13日に30歳になる息子に長い時間をかけて、その責務を果たしてきたつもりだ。今日が決してその最終日ではないが、男の「旅立つ日」は、一生に一度しかないだけに、その特別の日に親の責務を果たせたことが、親としてうれしく思っている。

 自分の人生は自分でしか歩めない。そして、選択の連続が人生とも云える。だからこそ沢山の選択肢を持っていて欲しいと思う。私も若い頃はそんなことなど考えもしないで本を読み始め、数え切れないほどの映画を見たきたし、愛や感性を豊かにしたくて、本や映画を選択したことはない。しかし、今思い起こすと知識欲が根底にあったことは確かだ。今もこの欲が絶えない。ひょっとするとこの想いが私の原点かもしれない。

私のたった一人の息子よ、家を出た今日、おまえにこの名言を伝えたい。私の想いがすべてこの名言に詰まっている。

『人生に必要なものは、勇気と想像力。
       それと、ほんの少しのお金です』 (チャップリン)

   これからの人生にGOOD LUCK!

 

                   

 


「出立の前夜」

2012年11月09日 | Weblog

明日、息子は奈良県の会社寮に入るため家を出る。

息子が連れ添いとダンボールに衣類や、その他のものを詰めていた。

私は手伝うこともなく、ただじっと眺めていた。

夜になって、串カツが食べたくなり3人で難波に出かけた。

    

        

    

    

道頓堀の<だるま>の串カツはとても美味しかった。

何回も食べに来ているのに、こんなに美味しかったかなと思ったほどだった。

3人で45本も平らげ、合計8、000円ジャスト。

こんなにたくさん食べても、そして、たっぷりソースに浸しても、食後胃もたれはなかった。

一度だけしかつけられない、さっぱりしたソースに

美味しさと胃もたれしない秘密があるようだ。

食後に心斎橋のサンマルコでお茶することにした。

息子はブラックのアイスコーヒー、連れ添いはブラック、私はロイヤルミルクティー、

そして、3人でイチゴミルクパフェを食べた。

   

 

帰宅してから息子と二人でゴルフスミノエに打ちっぱなしに出かけた。

彼のヘッドスピードはなんと最高49.4もあり(私は42.5)、驚いた。

飛距離も258ヤード(私は226ヤード)あり、

コースでも30ヤード、40ヤードも先に彼のボールがあるのがここでもはっきりと示された。

でも今夜は負けて悔しくないのは何故なのか。

しっかり負けても気分が良かった。

     

      息子               私

今後、彼とこのゴルフスミノエには来ることはないかもしれない。

ここには彼が小学校の1年生の頃から一緒に練習した

数え切れないほどの思い出が詰まっている。

彼もきっとそんな私との時間を忘れないだろう。

 


「自立する息子へ」(下)

2012年11月03日 | Weblog

二つ目はコミュニーションです。
 コミュニケーションは子供の<野球のキャッチボール>のように楽しいわけではないので容易ではありません。人それぞれ仕事に対する想いやスタンスが違い、また価値観も違うからです。若い頃は気が合う仲間とつるんでいるだけで楽しかったのですが、社会に出ればそんなことはありえません。それはマクドでの長いバイト時代を通してあなたも実感しているはずです。そして、上下関係や利害関係、相手への嫌悪感や感情が、コミュニケーションを難しくさせるのです。
 バイト経験が少なかった私は就職してカルチャーショックを受けましたが、「こんな状況を楽しもう」、「人との摩擦に仕事の価値や意味があるのではないか」と入社当時考えました。戦国時代の武将山中鹿之助の『願わくば我に七難八苦を与えたまえ!』を座右の銘として、その精神で頑張ろうと心構えを新たにして一歩を踏み出しました。

                

 ある高名なお坊さんが『悟るとは、決めること』と仰いましたが、今の私にはこの意味が、よく理解できます。世間には沢山の人がそれぞれの想いで、それぞれの価値観で、それぞれの目標を持っているんだ、これを知ることがコミュニケーションなんだと時間をかけて悟ることができたからです。そして、ただ受け入れるだけでなく、かみ砕いて<自らのスタンスを決める>ことが悟るということだと学んだのです。
 1990年にH電鉄に入社し職場環境が大きく変わり、DJ時代からの経験では対応が難しくなり、必要を感じて数多くの本を読み漁りました。あなたにプレゼントした船井幸雄氏の書籍(『人間の研究』)もその中の一つです。その後、様々な映画やスポーツ観戦まで見方が変わってきました。そして、人の話をもっとよく聴くという単純ですが、決して容易ではないスタンスを身につけていくことができました。DJ時代の店長や地区マネジャーは、常に現場でしかもトップという地位でした。その若すぎて就いた地位が聞く耳力を弱めたかもしれません。
 引っ越しを伴うような異動がないH電鉄での最初の職場は、ショッピングセンターの施設管理が主たる業務で、常に役員や営業、経理や総務の責任者や担当者がいる環境でした。私の仕事は直営店舗(喫茶店3店、靴下店1店、お好み焼き屋1店、コンビニ1店)の管理運営でした。DJのレストラン現場以外経験はありませんでしたが、人との摩擦経験は人より豊富でした。高校生から65歳までの人を面接、採用、教育してきた経験があったからです。H電鉄に入社して、その経験がとてつもなく大きな力であることを改めて自覚しました。

                 

 1990年代は日本の多くの企業でOA化が勢いよく進んでいる時期でした。同じようにH本社から出向していた経理責任者のN氏は、職場では最もOA化の意義を理解し技能をも携えている方だと判断し、NECの98ノートの使用方法、一太郎ソフトやマルチプランでの表計算を教えて頂きました。午前中は本社でこのような新たな技術を学び、午後からは直営店舗を見回り、各店長とコミュニケーションを取ることに集中しました。ここでDJ時代の地区マネジャーの経験が活かされました。店長と各店舗の問題点を分析し、客数と店長管理可能利益(MCP)を上げる為の施策を店長と一緒になって立案して次々に実行して行きました。各店を分析してどうにもならない店がお好み焼き店でした。2年を費やしてお好み焼き店を廃業することを決め、子会社の社長を説得し、日本一と言われているコンサルタント会社船井総研とタッグを組み、新たにカウンターしゃぶしゃぶ店をオープンさせました。赤字額が年間15,000千円あったお好み焼き店は、次の年には3,000千円となり、阪神大震災後、三宮の喫茶店のMCPを大きくアップしておかげで直営部は会社設立以来初めて利益を上げることに成功しました。その後課長に昇格し、次なる職場に異動になりました。N市との第三セクター方式のプールと温泉とフィットネスの総合レジャー施設でした。退職する最後の3年間は赤字が続いており、2011年度はN市からの援助やH電鉄から最後の資金援助あり、どうしても赤字は許されない状況でした。この社の最大の問題点はフィットネス部門のMCPがこの数年下降をし続けたこと、そして、この部門H電鉄の社員ではないプロパーの本部長の部門にも関わらず、大改革に着手しなかったことです。
 2011年度も予算作成時でフィットネス部門の大きなリストラやMCPを上げる施策はないと判断し、私は自分の部門の駐車場部門の人員(パート・アルバイト)を半減する施策によって全社で年間5,000千円以上のMCPをアップさせました。結果、2011年度は全社で2,000千円以上の経常利益を上げることに成功しました。私の部門のリストラがなければ、赤字になっていたということです。
 重要度や優先度を明らかにするための分析手法としてABC分析という基本的分析方法がありますが、この手法でも会社の最大課題は一目瞭然でした。普通の民間企業なら真っ先に手を付けていたでしょうが、N市とH電鉄で株式の80%を占めるこの会社では、親の手を借りることで赤字を解消しようと役員は集中しました。私は自分の部門でリストラを断行して全社で4年ぶりの黒字化に成功させました。役員はいい顔ができるでしょうが、私的には決して後味のいいものではありませんでした。
 パートのリストラもまた常日頃からの彼等とのコミュニケーションがあったからこそ、実行に移すことができました。コミュニケーション能力というのは、サービス業では絶対に欠かすことができない能力なので、磨き続けて欲しいと思います。

                 

 人は自分でも気づかないバリアを張っているものです。このバリアに気づくことはとても重要なことです。意識すればバリアを取り除けるからです。そうすれば仲間や好意を持ってくれる人が増加し、より多くの情報が勝手に入ってきます。コミュニケーションも以前より、遙かに容易になっていきます。誰にでも同じ態度・表情で接することを意識して心がけるだけでも、バリアは薄くなっていくものです。<嫌悪>という感覚を持たないように心がけることも大切です。「あの人、苦手」なんて論外です。どんな人とでもコミュニケーションが取れるという自信が身につけば、生涯あなたの大きな宝となってくれるに違いありません。

     「嫌いなものが増えるたびに、
                受け取れるはずの幸せの量が減るの
かもしれない」

                                      

                                     


「自立する息子へ」(上)

2012年11月03日 | Weblog

 独り立ちするあなたに、父として言っておきたいことがあります。沢山あり過ぎて優先順位を付けるのも容易ではありませんでしたが、11月9日に家を出ることが決まり、私なりに熟慮して2つに絞りました。最初はお金の話です。

 今まで何度か直接話をしたことがありますが、もう一度改めて伝えます。私が就職した1977年は、第一次石油ショック( 1973年10月6日に第四次中東戦争勃発し、これを受けて、1バレル3.01ドルから5.12ドル、翌年1974年1月より11.65ドル引き上げられて起こった世界的危機。現在は1バレル86.22ドル)の影響を受け、かなりの就職難でした。(現在の就職難の方が遙かに深刻)大学4年の1年をかけて私が選択した就職先は、今後伸びゆく産業の中にあり、しかも、株式上場が可能な会社という条件を満たす会社、それがIYグループのDJ社でした。

 社員には給与の天引き預金として3つの方法がありました。社内預金(金利:10%)と財形貯蓄(金利12%)と持株会(10%会社が負担)です。この頃の銀行金利は最高で8%もありました。(現在の金利0.35%)誰にも相談せず自分一人の意志で上場できる会社を選択したのですから、貯蓄方法も決まっていました。持株会に入会し、毎月の限度額を購入して貯蓄しました。そして、期待通りDJ社は数年後上場を果たし、社内預金や財形貯蓄とは比較にならない金額を手にしました。(現在は倒産する会社も多く、株式購入の選択は容易ではない) 自立していた私は両親の世話を受ける気がなかったので、結婚式や新婚旅行、車、その他で持ち株を切り崩しました。もし一度も手を付けなかったら、現在住んでいるマンションを即金で購入し、しかも1,000万円ほど残ったでしょう。

       

 同期入社した連中や部下となった新入社員達にも熱心に持株会入会を勧めましたが、殆ど私の言葉は届きませんでした。120名の同期は私が退社時、すでに5名ほどになっており、私のように上場のおかげで大金を手にしたのはその内2、3名だったと思います。DJを退社してH電鉄に入社した際も社内預金として、自社の株を天引きして購入し続けました。幸運(?)にもMファンドがH電鉄の株を買い占め、株価は4倍まで上昇しましたが、ロイヤリティ(忠誠心)があったので、そんな時に売ることは出来ませんでした。しかし、退職の数年前、3倍近くで売ることができました。
 バブルやMファンドの買い占めという(私個人には)大きな幸運に恵まれましたが、この幸運も会社選択や持株会に入るという自らの意志が存在しなければ、幸運とは成り得なかったことだということを理解して欲しいのです。
 先日、あなたに給与の手取り20%を天引きで別口座で貯蓄するように話しました。どんな貯蓄方法がいいのか、家を出るこの機会にお金に関する本を読んだり、銀行の人に相談することも勧めます。今までにないお金の知識を蓄え(自分自身に投資)、自分独自の方法を選択して将来に備えて欲しいのです。たとえば現在の貯蓄の50%の金額で、株式を購入するのもいいだろうと思います。ドルや円の為替レートが上下することによって、持ち株の値がどのように変化するのか。新聞の経済記事、スーパーやコンビニの人気商品、客の列が途切れないお店、多くの人が持っている商品に目を向けましょう。世間の流れを見極めようと努力して下さい。自分に投資するということはそういうことです。

 今まで何度か類似の話をしても聞く耳を持たないあなたが歯がゆくて仕方がありません。私がDJ時代多くの新入社員に話しかけましたが、その反応とまったく同じです。つまり自分で学んでいないと私の言葉がかけ離れすぎて届かないのです。学校の勉強と似ているのかもしれません。つまり人生も予習が大事だという事です。学ぼうという気がない人に先生やメンターの言葉は届かないのです。これは人生の秘訣とも云えます。明日を考えて予習する習慣が、これからのあなたにきっと幸運をもたらすと信じています。

         

   「学んでいる人に幸運は近寄ってくる」


2012年、秋の旅行(岡山編・下)ファイナル

2012年11月02日 | Weblog

10月31日(水)

 2012年、秋の旅行の最終日は、日本三大平城の岡山城と、日本三大名園の後楽園。岡山市内の<ホテルたちばな>の朝食バイキングを平らげ出発しました。ホテルから30分ほどの距離に岡山城がありました。広島城と同じく城門で菊の展示会が開かれており、厳格な審査基準も書かれていていましたが、大輪の菊はとても自慢げに咲いていました。 

 岡山城は秀吉が幼い頃から我が子のように育てた宇喜多秀家の名城です。本丸の北から東には郭の無い、非常に無防備な城ですが、そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされています。さらに郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたと云われています。、秀吉の大坂城天守を模しているという説もあり、外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれています。石垣の大きな石は豊臣時代の権力を示すかっこうの手段で、有力大名は競って全国で大きな石を探さしたそうです。 

 城内の展示物で今までの城では見たこともないもの発見。側室の給金や年間にかかった経費の勘定書です。側室の給金は年米100表とのこと。映画「武士の家計簿」を見ていただけに、かなりの高額に驚きました。その他の経費とても詳細に書かれており、城内に多くのそろばん武士が必要だったことが想像できます。また築城主の宇喜多秀家の悲運を語る7分間のビデオも良くできていました。城内の各部屋の間取り、ふすまや畳まで詳細に書かれた図面もあり驚きました。 

     

     

     

    

    

    

    

    

     

    

     

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

     

 後楽園は岡山藩主・池田綱政の命により1687年から14年かけて1700年に完成させました。岡山市内を流れる旭川をはさむ池泉回遊式の庭園で、岡山城や周辺の山を借景しています。江戸時代は後園または御後園と呼んでいましたが、1871年(明治4年)、一般開放するにあたって、後楽園と改めました。 

 金沢の兼六公園、水戸の偕楽園も訪ねましたが、私は今回の後楽園が一番気に入りました。とにかく、大好きな城を背景にしていることが最高。庭園の中央部分に小高い山があり、園内を見渡せるのもいい。小川が流れているいるのもいい。400円という京都に比べて安い入場料もいい。(兼六公園は300円、偕楽園は何と無料。さすが黄門様) 

「こんな名園が家の近くにあったら必ず年間パスポートを購入あるよ!」 

 なんて、冗談を言っていたら、帰りしなに連れ添いが「ホントに年間パスポート、あるよ!」を教えてくれました。通常は2,000円、65歳以上が800円でした。私なら必ず購入し、四季折々の木々や草花を観賞しにくるでしょう。岡山市内からの帰りは2時間ほどで帰ってこられました。15時くらいの帰宅時間は疲れも少なくその後の体調にも非常に良かったように思います。

 広島、岡山の両県を2日間ずつ観光しましたが、大阪市内の都会度を5点とすると、広島市内3.5点、岡山市内4点くらいに感じました。目安は市内のファミレス・ファーストフード店の出店状況の差です。大阪市内と比較すると広島市内は非常に少なく感じました。きっとこれから出店が増えていくでしょう。しかし、それがいいのかというとファミレス出身者の私が云うのはおかしいかもしれませんが、決していいとは思えません。地方色がどんどん薄れていくからです。便利さのだけの追求が決して人を幸せに導くかないように思いからです。インフラに関してはどんどん推し進めるべきですが、都会の文化?を押しつけるのは決してベターではありません。古代のローマ帝国が地中海沿岸で何世紀も栄えたのは、ローマカトリックを押しつけなかったことが上げられると云われています。文化・習慣の押しつけはローマ帝国の制度浸透には結びつかないと考えたようです。そんな風に考えるとイエスキリストの誕生が民族紛争の元種の一つのように感じるのは私だけでしょうか。こんな発想は聞いたことがありませんが…。ふとこんなことを帰宅途中の車の中で考えてしまいました。2012年、秋の旅行(広島・岡山編)3泊4日全走行距離903km。

                          

  誰にも一度は訪れたいところがあるものです。私にとって<安芸の宮島・厳島神社>がその一つでした。平清盛という歴史上の偉大な改革者が、海の中の大鳥居を通って参拝する、まるで竜宮城のような神社、厳島神社を造ったと知ったときからの長年の夢でした。今年の3月末に定年退職し、4月に一人息子がようやく安心できる会社に就職を果たし、大河ドラマでも何度も厳島神社が映し出され、今年がその夢を果たす時だと感じたのです。
 人にはいくつかの夢を胸に秘めているものです、。そして、その夢はやるべきことを一つ一つやり遂げていくうちに、向こうの方から近づいてくるのではないかなと思っています。アメリカの女性作家エリザベス・ゲイジの『真夜中の瞳』という小説の中で、こんな文章があります。

「人は行きつつある方向からやってくる」

 とても印象的な文章なのでよく覚えているのですが、人も夢も同じように思っています。自分にとって大切な人も、やるべきことをやっているときに、大切な人との出会いもある。だからやるべき方向を見失うことなく真正面を向いて歩くべきだと思っています。そうすれば、きっと大切な人だとわかるはずだから。いよいよ家を出る息子にもいい出会いがあって欲しいと厳島神社に祈願してきました。(おしまい!)