北山修氏(医師・元フォーククルセダーズの一員)が、新聞のコラムにこんな話を書いていました。
『どうしたら幸せになれるのだろうか。Doingに関わる幸せとして、腹いっぱい食べることだったり、成績が一番になったり、高い車が手に入ったり、試合に勝ったりする幸せがある。購買欲や食欲、性欲や人を殴りたい攻撃欲は満たされると快感を感じてすかっとするのだ。
しかし、この快感は一瞬である。どのような欲求充足も長続きしないし、またすぐに不満がつのる。こんなDoingの幸せに対して、Beingの幸せがある。「することを忘れ、何もしないで、ボーッとして、ただ「いる」だけでいい時の幸せというのがある。幼い頃はそういう幸せに溢れていたようだ。泳ぎ疲れてただ波間に浮かんでいた浮袋の中。学校の帰り道、土手に寝ころんで雲の形が人の顔に見えたあの「ながーい時間」。あるときはただアリたちを見つめているだけで幸せだった。
ネコの語源の一つは「寝る子」だが、ただ寝ているだけで幸せそうだ。寝ることが一番好きという人やいい湯加減の温泉に入る時もそうだ。私たちはそういう「いること」の幸せを求めてあくせく働いているのだ。』
DoingとBeingとはうまい表現です。これは私が何度も使っている能動的と受動的という表現とまったく同意です。そして五木寛之氏が『人間の覚悟』で語った「生きて在る」ことと同意です。以前も日記で語りましたが、どうしてもあれが欲しい、何処何処へ行きたい、誰かに逢っておきたいという大きな願望がなくなりつつあります。それはわが人生の達成感にかなり満足しているせいかもしれません。これからの人生をおまけと考えるととても残りの時間を感謝せずにはいられません。
龍馬や将軍家定、西郷さんや大久保さんと比較すると、成してきたことは大きな開きがありますが、生きてきた時間の量では私の方が遥かに凌いでいます。大阪から東京の大学に向かった時が人生で最も野心の量が多かった気がしますが、大学を卒業し就職する頃には達成できる夢や事柄の限界が見えてきました。しかし、そんなことでくよくよしたり、絶望したことは一度もありませんでした。ここが私の天然素材的性格なのでしょう。自分自身で一番気に入っているところかもしれません。
こんな私ですが北山氏や五木氏の云う「Beingの幸せ」「生きて在る幸せ」が今ひとつ実感できないのは何故だろうかと考えています。もう欲しいものはほとんどないと云いながら、百八つの煩悩がいまだ心の何処かでくすぶっているのかもしれません。私にはそんな人間臭いところに幸せを感じられてしかたがないのです。私には「Beingの幸せ」「生きて在る幸せ」を感じる仙人のような達観はきっとこれからも難しいような気がします。
でも残された時間がおまけだと思えてきて、この時を楽しむスタンスがより濃厚になってきたようにも思います。小さな欲を意識して作り出し、子供のような好奇心を失わず、残された時間を楽しむ、これが今の私の幸せを感じるスタンスです。百八つの煩悩のうち、八つくらいのささいな煩悩は残しておいた方がいいのではと思っています。
そんなことを「篤姫」を見ながら考えた2008年が、もう少しで終わろうとしています。篤姫のように理性と感情の狭間が狭い方がいいのだろうを思いながらも私は、無理はせずその狭間をさまよいながら残された時を噛みしめながら、ため息をついたり、誰かと共感できたことを素直に喜び、届かぬ想いを嘆いたり、映画や本や音楽に心ときめかせながら、人間臭く、生きてあることを感謝して生きてゆきたいと思います。
それでは皆様、良い年をお迎え下さい。
『どうしたら幸せになれるのだろうか。Doingに関わる幸せとして、腹いっぱい食べることだったり、成績が一番になったり、高い車が手に入ったり、試合に勝ったりする幸せがある。購買欲や食欲、性欲や人を殴りたい攻撃欲は満たされると快感を感じてすかっとするのだ。
しかし、この快感は一瞬である。どのような欲求充足も長続きしないし、またすぐに不満がつのる。こんなDoingの幸せに対して、Beingの幸せがある。「することを忘れ、何もしないで、ボーッとして、ただ「いる」だけでいい時の幸せというのがある。幼い頃はそういう幸せに溢れていたようだ。泳ぎ疲れてただ波間に浮かんでいた浮袋の中。学校の帰り道、土手に寝ころんで雲の形が人の顔に見えたあの「ながーい時間」。あるときはただアリたちを見つめているだけで幸せだった。
ネコの語源の一つは「寝る子」だが、ただ寝ているだけで幸せそうだ。寝ることが一番好きという人やいい湯加減の温泉に入る時もそうだ。私たちはそういう「いること」の幸せを求めてあくせく働いているのだ。』
DoingとBeingとはうまい表現です。これは私が何度も使っている能動的と受動的という表現とまったく同意です。そして五木寛之氏が『人間の覚悟』で語った「生きて在る」ことと同意です。以前も日記で語りましたが、どうしてもあれが欲しい、何処何処へ行きたい、誰かに逢っておきたいという大きな願望がなくなりつつあります。それはわが人生の達成感にかなり満足しているせいかもしれません。これからの人生をおまけと考えるととても残りの時間を感謝せずにはいられません。
龍馬や将軍家定、西郷さんや大久保さんと比較すると、成してきたことは大きな開きがありますが、生きてきた時間の量では私の方が遥かに凌いでいます。大阪から東京の大学に向かった時が人生で最も野心の量が多かった気がしますが、大学を卒業し就職する頃には達成できる夢や事柄の限界が見えてきました。しかし、そんなことでくよくよしたり、絶望したことは一度もありませんでした。ここが私の天然素材的性格なのでしょう。自分自身で一番気に入っているところかもしれません。
こんな私ですが北山氏や五木氏の云う「Beingの幸せ」「生きて在る幸せ」が今ひとつ実感できないのは何故だろうかと考えています。もう欲しいものはほとんどないと云いながら、百八つの煩悩がいまだ心の何処かでくすぶっているのかもしれません。私にはそんな人間臭いところに幸せを感じられてしかたがないのです。私には「Beingの幸せ」「生きて在る幸せ」を感じる仙人のような達観はきっとこれからも難しいような気がします。
でも残された時間がおまけだと思えてきて、この時を楽しむスタンスがより濃厚になってきたようにも思います。小さな欲を意識して作り出し、子供のような好奇心を失わず、残された時間を楽しむ、これが今の私の幸せを感じるスタンスです。百八つの煩悩のうち、八つくらいのささいな煩悩は残しておいた方がいいのではと思っています。
そんなことを「篤姫」を見ながら考えた2008年が、もう少しで終わろうとしています。篤姫のように理性と感情の狭間が狭い方がいいのだろうを思いながらも私は、無理はせずその狭間をさまよいながら残された時を噛みしめながら、ため息をついたり、誰かと共感できたことを素直に喜び、届かぬ想いを嘆いたり、映画や本や音楽に心ときめかせながら、人間臭く、生きてあることを感謝して生きてゆきたいと思います。
それでは皆様、良い年をお迎え下さい。